震災
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 市民の体験談をダイジェストにまとめたものを公開しております。
 フル版については、東松島市図書館館内においてiPadでご覧いただけます。
片倉 日出海 50代 男性
 文具店「文尚堂」経営
 会社で被災
(平成24年6月19日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は会社にいました。すごい揺れでした。一番先に考えたのは、教科書を津波から守れということでした。倉庫に入ると地震で教科書がくずれていて、津波がきたのですが、家財や店のことは後回しにして、全員で水を防ぎ、教科書を高いところあげて、何とか教科書を守りました。その後は遅れながらも、各学校・各教育委員会に教科書を納品しました。ただ残念なことに、子どもさんが津波で亡くなって、戻ってきた教科書もずいぶんありました。
 私の地区ではしばらく電気も水道もありませんでしたから、泥かきは大変で、終わったのは5月の連休明けくらいでした。電気と水道の復旧は同じくらいで、水は毎日駅前で自衛隊が給水していましたし、電気もしばらく使えませんでした。店が使えなくなってからは、自宅の2階にいました。幸いにも昔ながらのだるまストーブがあったので、煮炊きや暖をとることができました。

柳田 真紀 30代 女性
 矢本東小学校へ子どもを迎えにいく途中で被災
(平成24年6月19日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は雪が降っていて、傘を差しながら一番上の子どもを迎えにいくところでした。学校までの道を歩いていたら、グラっときて、家におじいさんと下の子がお昼寝していたので、上の子は小学校の方で何とかしてもらえる、まずは下の子だ、と思い急いで走りながら家に戻りました。家の中はテレビが1台倒れて壊れたり、タイルが1枚はがれたりしたくらいで済みました。うちはプロパンガスが無事だったので、ガスの火は使えました。
 大変だったのは食べ物とか水、ガソリンなどのライフラインですね。ちょっとした停電なら、明日ぐらいに点くという見通しがつき、今日1日頑張ればいいと思いますが、今回の震災は答えがなかったので、答えがないと人は不安になるので、いつまで頑張ればいいんだろうという気持ちになりました。毎日食べ物と水とガソリンをどこから手に入れるか考えましたね。子どもの学校やコミュニティセンターなどで、お米や牛丼などをもらえたり、床屋で髪を切ってもらったりしたことがあり、ありがたかったです。
未来に向けて
 今回、改めてわかったことは、ご近所づきあいの大切さですね。自衛隊を退職してご夫婦で住んでいる方など、大溜地区はお年寄りが多くて、私たちは若い方に入るので、情報だけは集められますが、本当に困った時どうすればよいかという知恵はおじいさん、おばあさんのほうが持っているんですよね。例えば、私たちが水をとってくるので、米を炊いてくださいなど、妙な連帯感が生まれて、そこから10倍20倍も仲良くなったので、震災も悪いことばかりではないなと思いました。私たちは今回の震災に遭ってから、お互い様でやらなくちゃ、という気持ちで優しくなれたし、勉強になったと思うのです。

三浦 正信 50代 男性
 鮮魚店「三浦水産」経営
(平成24年6月26日 三浦水産 仮設店舗にて取材)
被災体験談
 3月11日は勤務先のスーパーマーケットにいましたが、経験したことのない揺れだったので、7人いたスタッフはすぐ解散し、お客さんは帰って行きました。その後、自宅に戻り女房を実家の広渕(石巻市)まで連れて行き、自分の実家の上納まで行きました。その途中、定川の水がものすごく引いていて大変なことだと思い、親を車に急いで乗せ、45号線に向かいました。その時、車の半分は水が来ていましたが、五味倉の方へ抜けて何とか助かりました。その後は大溜の自宅に、親戚、知り合い、親が15人。45日位避難していました。
未来に向けて
 4月から友達に車を借り受け、行商を始め、地元の前のお客さんを回って、店は10月の中頃から始めました。魚は仙台から仕入れて来ましたが、震災後、地元の魚はなく、ほとんど北海道の魚です。石巻の魚が揚がるまで、半年かかりました。ほやなどは値段が上がっていますが、お客さんは食べたいものは食べるようで、魚はなくてはならない素材みたいです。ほやは、三陸で獲れるまで最低3年はかかります。仮設で店を始めて、お客さんは魚を買う所なく、困っていたからと喜んでくれました。今は行商と両方やっています。この前、仮設に演歌歌手が来た時はみんな笑顔になりました。ここで、さしみをご馳走して飲みました。久々の笑顔でしたね。

下町二区婦人会
(平成24年7月13日 矢本東市民センターにて取材)
被災体験談
西潟(にしくら) 寿美 
 石巻から矢本に来る途中の湯殿山(石巻市清水町)のあたりで地震にあいました。そこの橋が割れそうだというので大街道(石巻市)に出たんですよ。そしたら「今、津波がきたから」という声があって、見たらごみと一緒に津波がさーっときたんですよね。そうしているうちに会社の外階段が見えました。12段の。で、「すいません。ここに上らせていただきます。」と言ったら、わたしより前にいた女の人が「私は介護に行かなきゃないから」と言ったけど「もう波きてっから、あんだも上がってございん(上がってきなさい)」って言って、一緒に12段上がりました。二階から下を見たら、人が一気に流されてて、男性も女性も「たすけてー たすけてー」って。店長さんたち2人もこちらに上がってきたと思ったら、一気に波がきてそこにあった30台くらいの車も一気に流されてしまいました。目の前で。
斉藤 テルヨ 
 私は石巻の魚町1丁目で働いていました。海から50mしか離れていないところでしたから、津波が来るので、松並の工場に避難しなさいって言われたんですけど、私は松並工場に行ったことなかったんで、とにかく会社の車に6~7人で乗って、松並に向かったんです。車で向かう途中も、電信柱は倒れているし、道路はめくれているし、もう駄目だと思いました。じゃあ学校は全部避難所になっているから学校に逃げましょうということになり、渡波中学校に入ってまもなく津波がきたんです。最初、すごい驚きの声があがりました。校舎のベランダのほうに出てみたら、校舎と校舎の間からダムの放水のように水が入ってきたんです。それが渦巻きになって、あっという間に私たちが乗ってきた車も飲み込まれました。すぐ国道側を見たら、ちょうど引き潮になってきたのか車が重ね重ねになって、家は流れる、車は流れる。人の叫び声がして、屋根に上がっている方などたくさんいました。でもどうすることもできない。津波を見たのは初めてですが、とにかく水の速さが半端じゃないという感じでした。
岩崎 治子 
 私は主人と買い物に出ようということで、車で国道45号線を走っていた時に、携帯電話の緊急地震速報が鳴ったんです。それから間もなく地震が来て、車が踊るように大きく揺れたので、「お父さん、車を止めて。」と言って、すぐにラジオを付けたら、6メートルの津波が来るとの情報が入ったので、すぐ自宅に戻ったんです。主人は自主防災会の役員をしているので、近くに独り住まいの方や身体の不自由な方もいたので、その家庭を回って、市民センターに避難させたりしました。主人が戻って来たので、私たちも避難しようと言っていた時に、波が道路を川のように流れて来て、家の中にも水が入って来たんです。私の家ではリュックサックにラジオ、懐中電灯とかの避難用品を入れてあったので、それを持って2階に上がりました。寒かったんですが、避難することは考えていませんでした。2階にいれば何とかなるのかなと考えていました。ラジオを聞きながらいたのですが、寒くて、一晩震えながら、一睡もできずにいましたね。窓を開けて見れば、一面海のよう川のようになっていました。隣近所もどういう状況なのかも全然つかめないんですね。
大江 みさ子 
 私はすぐ東市民センターに避難してくださいと言われたので、避難したんです。家も閉めない、鍵も掛けない、財布も持たないで、手提げだけを持って避難したんですが、その後、国道45号線まで津波が来たから早くここを出て、矢本東小学校に避難するよう言われたんです。東小学校まで行ったら3階に上がりなさいと言われて、上がりました。3階で3日間過ごしました。避難してすぐは、食べ物は、せんべいとかがあったんですが、その時はおなかが減るとか、水が欲しいとうことがなかったですね。まさか自分の家に水が入っているとは思っていなかったんです。ところが、家には床上まで水が上がったんですよ。独り暮らしなので、自分ではどうしたらいいか分かんないのね。5日目に、人を頼んで、泥のかきだし、流れて来た物の処理をしました。作業には息子や弟も来てくれました。また、近所から水をもらって、やかんで沸かして飲んだりしました。あまり食べなかったので、すごく痩せましたね。
葛西 美和子 
 私は地震の時に避難する場所とかの考えが及ばなくて、その日は東大溜の実家に世話になりました。ところが実家は地震で凄かったんです。私は独り暮らしなので、次の日は仙台にいる息子に送られて柴田町の娘のところに行きましたね。
田母神(たもかみ) えみ子 
 地震の時、ヨークベニマル矢本店で買い物をしていたんです。ものすごい揺れで立っていることができず、座るしかありませんでした。地震が収まってから、急いで家に帰りました。私はまさか家まで津波が来ると思っていなかったんですが、区長さんが津波だから早く逃げてと言ったんです。でも、逃げるのが遅くなって、とにかく逃げようと思っていたら、道路に水がさざ波になって来たの。おじいさんが吉田酒屋さんの方から逃げようとしていたら、長靴がぶくぶくになっちゃって、ああ駄目だと思って。しょうがないから、我慢して家に居ようねってなったんです。窓から一晩中見ていたら、タイヤだのいろんな物が流れて来たんですね。家の周りに置いていたものが水で流されて、ごみを入れている桶もぐるぐる回って、水が渦巻いてね。駐車場が低くて、水がいっぱい入ったから、泥が凄かったの。

三浦 勝志  50代 男性
 矢本農民連 会長/松島基地松友会 会長/元 東松島市社会教育委員議長
 外出中に被災
(平成24年7月19日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日、家族は全員外出していたのですが、地震の後みんなで家に集合して、逃げるとか逃げないとか、津波が来るまで、かなり時間に余裕はありました。ラジオで津波は海岸に来ていると聞いていました。その時は大潮で、干潮で1メートルくらい下がっている状態でした。それまで言われていた2メートルの津波では、1メートル下がっているので、立沼までは来ないんだということで、ゆっくり帰ってきたわけです。
 帰ってきてからは、分館(立沼生活センター)で消防団とたむろしていたんですけど、南の海岸線を見たとたん、松の木の3倍の高さの波しぶきが上がって、それから松の木が抜けて飛んでいったところを目にしたんです。分館の斜め後ろが自宅なんですけど、そこまで走って、地震で倒れていた作業場からはしごを持って、5人で上がって。私が最後だったんですけど、その時に足元まで波が来たんです。それが最初の津波でした。屋根に上って、雪が降っていたので、トタンを破って中2階に入って一晩過ごしました。屋根の上で、私たち家族の将来について話しました。百姓もやっていけないし、会社に行っても仕事がなかったりするので、これからはとにかく大変だと。
 次の日の朝、自衛隊さんたちに救出されました。立沼弘法地区は、役所場・矢本一中・コミュニティセンターの三つにほとんどの方が入りました。私も矢本一中の2階の一室に入ったわけですけども、とにかく喉が渇いたし、朝から何も食べていないので腹が減った。矢本駅の裏のスーパーが開店していて、たまたま財布を持っていたので、あり金全部を出してバナナを買い、教室で分けて食べました。

山口 郁夫 60代 男性
 ヤモト歯科医院 院長
 職場(ヤモト歯科医院)にて被災
(平成24年8月9日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 地震のあと、停電も長引くだろうと思って、水道も止まったので、診療はできないから、まず避難ということにしました。女房は民生委員をしていて、介護を受けていたり、独り暮らしの人がいるので、そっちの方が心配だろうから、とにかく行って無事であるか確かめてくれということで、先に診療所を出ました。私は診療所の鍵をかけて、最後に出ました。自宅に帰ったら、矢本東小学校に避難すると聞いたんですが、俺は避難しないよと言ったんです。でも一人だけ残しても心配だからと女房が言うので、犬を2階において、周りのお年寄りと矢本東小学校の2階に避難しました。
 線路近くまで津波が来ていると言われて、これは大変だと、津波で診療所は完璧にやられたなと思いました。次の日、仙台にいる次男の息子が来てくれて、大丈夫だとなりました。次男と診療所に行ったら、津波の泥の跡が壁についていたので、ああ入ったなと思ったんだけれども、中に入ったら、ほんのちょっとの隙間で止まっていたのでよかったなと思いましたね。
 診療所を再開したのは、電気と水道が来てからだから、3月末には診療を始めましたね。全国のロータリークラブが災害支援をしたいということで、どこにどういうものを送ったらいいかとか、問い合わせが結構来て。うちが石巻4地区のまとめ役だったので、その対応が大変でしたね。
未来に向けて
 津波を経験して後世に伝えたいことは、一人一人のリスクアセスメントというか、自分の会社は会社でも、どういうところに職員がいるだとか、手を切ったりするような危ない機械とかは、きちんと対応できるように管理しておくべきです。そしてもし駄目になった時にどうしたらいいか。例えば、うちの診療所でも、どこの場所をまず修理して、人的なものはどういうふうにしたらいいか。きちんとどのぐらいの予算がかかるかもしれないというのは、やっぱり把握しておいた方がいいと思います。一つの家庭内でも、もしものときには、品物が壊れたりすると、あとあとちょっと大変だから、一番に修理しなきゃなんないとかいうのを考えてメモ書きしていた方がいいような気がします。地震のときには、地震袋だとか、避難袋。必ずしも地震だけでなくて、電気が切れたときはどういうふうにするとか、水道がストップしたときは、水は何リットル分は常に用意しとおかなきゃなんないとかね。あとはストーブね。電気使わない、温風じゃなくて、昔のだるまストーブみたいなのは必ず1台あった方がいいね。今回もそれがあったから、その上で鍋やって、ろうそく灯しながら、鍋突っ付いてね。全部それで料理できたからよかったね。それが特に感じるね。各家庭でもきちっとやっておいた方がいいね。

遠藤 武 10代 男性
 ジュニアリーダー
 矢本第一中学校で被災(当時 矢本第一中学校2年生)
(平成24年10月25日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 大震災の時は矢本第一中学校2年生で、校舎内にいたんです。何が起こったか分からないくらいすごい揺れで、長く揺れて動揺していました。それで先生の指示で、全員とりあえず、しゃがみました。揺れが収まってから、泣いたりしている人もいました。その後、校庭に避難しました。その時、すごい雪が降っていたんです。寒い中ジャージで、30分ぐらい待機のままでしたね。その後、迎えに来る人もいるのではないかということで、体育館に避難しました。生徒だけで帰るのは、学校では許可しませんでした。津波警報が出て、とにかく高いところへ避難という指示を受けて、校舎の3階に避難しました。
 大変な被害を受けた人がいっぱいいて、僕の家では浸水の被害もなく、家族も無事だったので、学校で仲間と一緒にボランティア活動をしました。震災の次の日は、一度家に戻って、電池とか水とか使えるものを持って、所属する水泳部の仲間たちと一緒にボランティア活動したんです。先生方も食料が無い中で世話をしていたので、家にある食料を少しだけもらって、先生方に食べてくださいと渡しました。乾電池も懐中電灯に必要だったので学校で使ってもらいました。
 学校に泊まったのは震災の日だけでした。次の日からは、普段と同じような感覚で学校に行っていました。7時ごろ行って5時ごろ帰るということで通っていました。日がたつにつれ、いろんな物資、水とかが来て、例えば教室ごとに避難している人に配ったり、給水車からポリタンクに水を酌んだりとかしました。先生方の指示も聞きながら、あとは自分たちでできることを必死に探してやりました。避難していた人からは感謝されましたが、すぐには喜んでいられなかったというか、ああ、もっとやるべきことをやらなくちゃ、と思っていました。毛布が来たのですが、結構重かったので、流れ作業で運んで、終わったと思いながら、ああ次の所に行かなくちゃということの繰り返しでした。
未来に向けて
 ボランティアをやっていて、市民が避難所生活で体力的にもつらい状況で、また、落ち込んでいるのを見たりして、これだけボランティアをやっていても何も変わらないのがつらかったです。物資を運んで、少しは笑顔になっても、また沈むということがありました。自分の力はこんなにも小さいのかと思ったことがつらかったです。ボランティアで、精神的にとか体力的に疲れたということは、なかったのですが、これだけやっても何も変わらないというか、1カ月では何も変わらないのは分かるんだけれども、それでも、これをいつまでやっていかなきゃならないのかな、という考えになったことがありました。
 石巻工業高校に入学して、クラスの人と友達になったときの話しなんですけど、ゲームの話が出て、「このゲーム知ってる?」と聞かれ、「ああ、知っているよ」と答えたら「これ面白かったよね、でも流されたんだ」と、笑顔で言うんですよ。それに対して何も返せないんですね。えー、何て言えばいいんだろうと。笑顔で返してくるんですけど、家とか家族、親戚などで何か失ったものがあるはずなんですけど、強く生きている姿を見て、津波を受けたところは違うんだなと思いました。話を聞くと、震災の時に、僕なんかよりはるかに過酷な状況の中で、大きいポリタンク二つ持って水を運んだりとか、すごいことをしてきたんだなと思いました。それに比べて自分がやってきたことは、ちっぽけなことなんだなと思うぐらいに、過酷な状況を乗り切ってきた人がいっぱいいたんです。それに驚きました。
 ジュニアリーダーの人数は、中学生で10人くらい、高校生は15人ぐらいだと思います。今年の活動で印象的なのは、子供会で子どもたちが元気なのがいいなと思いました。本来ジュニアリーダーは、それを上回っていなければいけないんですけど、それ以上に元気で、震災を忘れているよ、なんていうような盛り上がりで、心配することないな、これだったら楽しくできるなということでしたね。ジュニアリーダーをもっと活用してもらえるとありがたいですね。高学年でリーダーになって、先頭に立って下の子どもたちをまとめている小学生もいるので、ぜひジュニアリーダーに来てほしいし、インリーダー研修にも参加してもらって、ジュニアリーダーのことをたくさん知って、ジュニアリーダーになっていろいろ手伝ってほしいなと思います。

浅野 一弥  40代 男性
 酪農家/消防団員
 小松沢田地区の自宅にて被災
(平成24年11月6日  東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 震災当日、地震があった時は、家から飛び出して、カーナビのテレビで地震の状況を確認しました。その時は雪が降ってて、かなり寒かったですね。私の両親は孫(弟の娘)を心配して、赤井に迎えに行きました。立ち話をしていたら、マンホールから水が噴き出してきて、みるみる向こうから水が出てきたと。逃げたつもりが、ぐるっとまわって狭い袋小路に入ったみたいで。車に乗った状態で、どんどん水が腰まで入ってきて・・。なんとか、命からがら逃げたみたいですね。結局、孫娘たちには会えず、津波をかぶって、赤井地区体育館にうまく避難することができて、そこで一晩・・。
 私は親が帰って来ないまま酪農をしているんで、その状況でも牛たちには餌を与えなくてはならなかったので、とりあえず飼養してました。地震のショックからなのか、産気づいた牛がいまして。そのショックで出たんですけど、悲惨なことに・・子どももだめ、親もだめ。わたしも引っ張るに引っ張れなくて。器具もどこにあるか見えなかったし。逆子だったしどうしようもなかったんですね。
 翌朝になって、なんとか親は歩いて帰って来たんですよね。2人とも水に浸かりながら。赤井の小学校前の通りからぐるっと遠回りして来たみたいです。無事だったんだと、見て安心しました。
 牛というのは、1頭あたりだいたい1日に180リットルくらい飲むんですね。そういう生き物なので水の確保がいちばん大変で。最初は井戸のあるところを聞いて、近所からもらったり。あとは地下水を汲んでいたところがあって、そこを思い出して汲み上げたらなんとか・・。渋水じゃなくて、きれいなさらさらした水で。ラッキーでしたね。その水を1日3トンくらいずっと汲みながら・・毎日それに追われていました。近所にも分けていたので、日々そういう作業で終わりましたね。
 一週間あけて、そこからわたしは消防団の方に参加しました。私は大曲地区を歩いたんです。浜の方に移動したんですが、もう、言葉が出ませんでした。自衛隊の若い方たちと一緒になって捜索しました。流されてきた瓦礫というか、家屋の下敷きになったところから遺体を見つけて、そこから搬送というところまでいったんですけど・・。初めてそれを見たときというか、持って運んだ時・・泣きたくなりましたね。もう心を殺すしかないんですよね。早く見つけ出して、渡して・・っていうのをやる。ほぼ作業に近いですよね。作業だと割り切ってやるしかないという感じでしたね。活動は3月31日まで毎日やって、そこで一旦打ち切ったんですが、4月7日にまた再度・・。大きな地震があったときにまた活動に出て、最終が7月だったかな。
 福島からの放射能の影響は実際、ありました・・。藁とかに付着したものは、鋤き込んでなんとか天地替えしていかないと、という大きい挑戦という形で・・。私もその間に、いろいろなところで研修とか、情報を聞いたりとかしていたんですよ。県がそういった会を主催してくれて、そこでいろんな情報交換をしました。検査していますけど、ミルクには一切でていません。そこは気を付けています。もちろん常に検査しているので。
感謝のメッセージ
 自衛隊の若い方はすごいですよ、あの人たちの精神力というか体力というか。ほんと、ありがとうって思いましたね。あれは我々だけじゃ、どだい無理です。ここまで早く動けるのも、なかったと思いますね。初動が早かったっていうのと、それプラス、消防団の他のみなさんの力があったから、こんなに早く進んだんですね。東松島って早かったらしいですね、県の人たちの総括から言うと。自衛隊の人たちに言わせると、もっとかかると思っていたって。ところが、こんなに早くスムーズにいったのは、なかなかないって。もともとの計画より1ヶ月早かったらしいです。
未来に向けて
 農協単体で、青年部単体で何ができるかって言ったら、やっぱりそういった仲間内を回って、復興支援っていうか・・。ハウスの撤去とか補修、ヘドロの除去とか。あとは今になってやっと、県外から、静岡、九州からの方々が乗り込んでくれてやってくれているっていう状況です。震災の1年の間にいろいろあって、今また、ツアー組んで、団体で応援という形で来てくれるっていう動きがあります。

石森 祐介 20代 男性
 被災地障がい者センター石巻
 自宅(立沼)で被災
(平成25年6月6日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 祖母を待って避難しようとした矢先に津波が来たので、とりあえず2階に逃げました。津波が来たのは3時半から4時頃だったと思います。私たちの地域の場合は、音もせずに水がさーっと塀ぐらいの高さまで来たという感じです。その後、玄関から水が入ってくるのを見て、急いで2階に上がりました。階段が急で、普段は1階で生活しているのですが、震災の時は全力で上がりました。水は床上1メートル40~50センチメートルぐらいましたが、私自身はあまり濡れませんでした。2階の窓から外を見た時、すでに雪がふぶいてました。余震があり、ラジオで情報が流れていましたが、この世の終わりではないかと思いました。
 ここは海から2~3キロ離れているし、2003年、2008年とたびたび地震はありましたけれども、津波は来なかったし、あそこに津波が来るとは思わなかったですね。今まで津波警報が出ても、せいぜい2~3メートル水位が上がるくらいの、陸には来ないものでしたから。翌12日に陸上自衛隊に救助され、東松島市役所に避難しました。
未来に向けて
 震災をきっかけに、物の価値観は大きく変わりました。地域にずっと根を張るのではなく、いろいろなところに動き回りながら活動したいと思っています。ただ、何かあったら戻ってこられるところは東北であるべきだと思います。
 精神論的な話になってしまうのですが、こういう身体に生まれたということは、ひとつの運命だったんじゃないかなあということもあって、私としては、どのような状況にあっても、障がい者支援に関わる仕事を続けたいと思うし、逆に震災前に考えていた就職というのは全然考えられません。ちゃんとした仕事じゃなくてもいいじゃないかとか、どんなに金があろうが、人の資本というか社会資本というのか、人との出会いに恵まれていることが大事だと実感しています。今後も、それを大事に活動していきたい。東京やら東海方面で地震が起こってしまったら、私たちもなにかしらお手伝いしたいと思っています。

武田 幸子  50代 女性
 真壁病院看護部長
 職場(病院)で被災
(平成25年6月12日 真壁病院にて取材)
被災体験談
 最初の揺れは、「地震だな」程度だったんですけど、だんだん大きな揺れになってくるし、長いし、とっさに階段を上がったのですが、途中で(揺れが大きくて)上がれなくなっちゃったんです。それでもなんとか手すりにつかまって、3階まで上がりました。3階にはほとんど動けない患者さんがいまして、それが気がかりでした。いろんな機械をつけている患者さんもたくさんいました。廊下の機械は行ったり来たりしているし、ベッドも行ったり来たり、ご家族もパニックになっている、といった状態でした。とりあえず、「揺れが収まるまでは動くな」という指示をさせてもらいました。その時は(避難に関する)放送があったのかどうかわからないくらい、パニック状態だったと思います。
 電気はすぐに非常電源が作動したのですが、津波が来たことでダウンしました。ちょっと時間をおいて復旧しましたが、今度は燃料がもたないと。人工呼吸器をつけている患者さんもいたので、それが止まってしまうと(電源が確保できないと)どうにもできないので、交代で手でバッグを押そうということになりました。あとは患者さんのベッドを壁際に寄せました。点滴の機械が患者さんに倒れ掛かっている状態でした。余震が来ることが予想されたので、倒れてもぶつからないようにしました。
 病院の脇に水が流れてきてから「これはもうだめだ」ということで、1階の患者さんを2階に上げました。病院が道路からかなり高くなっているので、水が病院内に入るということはなかったんですけど、地下にカルテとか写真とか薬剤が備蓄されているのですが、そこで1.5メートルくらい入りました。泥と水でかなりやられました。
 翌日は、患者さんの食事の提供とケアですね。おむつ交換だったりお手洗いをどうするかだったり。外からの避難者も多かったので、お手洗いは全部封鎖し、ポータブルトイレにしました。おしっこや便の吸収をよくするために紙おむつを使ったり、においを抑えるために紙で押さえたりしました。患者さんの食べものは備蓄のもので何とか間に合ったのですが、職員の分は非常に不足していて、前日夜にあまったご飯で小さなおにぎりを作ってもらって、それを3人とか4人で分けて食べたり。水は自動販売機があったので、職員と避難した人に提供しました。
感謝のメッセージ
 自衛隊には燃料の支援をしていただきました。飲み水を次の日ぐらいにはポリタンクで運んでいただきました。スタッフの間では、できる人が、被災したスタッフのために、おにぎりを握ってきてくれたり、味噌汁を作ってきてくれたり、寒いから洋服や毛布を持ってきてくれたりする光景を見て、日本も捨てたもんじゃないな、と思いました。その時は助け合いの精神で、やれる人がやるといった状況でした。私も気持ちの上で大いに助けられましたね。
 つらかったことは、スタッフの安否確認ができなかったことでしょうか。あとはご遺体が運ばれてきても身元確認ができず、家族と離れてどんな思いで亡くなったのかを思うと、つらいものがありました。「苦しかったでしょう」と言いながらお顔を拭いていました。
 自分の中でやれることを精一杯やったつもりですが、後で振り返った時に、本当にそれでよかったのか?と思ったりもしました。
未来に向けて
 (患者を)守らないといけないという使命感が、医療従事者は、というか看護師は強いです。そのために自分を犠牲にしてしまうことが非常に多いですね。それはすばらしいことではありますが、どこかで自分を逃がしてあげるところをもたないと、くたびれてしまう。使命感も大事だけれど、自分自身も大事にしてほしいなあ、と思います。自分がだめだと人を助けることもできないので。
 自分の状況を話せる人がいると言うのは大変大きいですね。いいことでも悪いことでも。一人だったら耐えられないでしょうね。

武山 義之 40代 男性
 矢本消防署勤務
(平成25年11月12日 図書館にて取材)
被災体験談
 地震発生時は、ちょうど非番で石巻の湊地区を車で走行中でした。家が渡波ですぐ近くでしたが、その時は早く署に駆けつけなければという気持ちでいっぱいでした。子どもが小学生、中学生、幼稚園と3人いるので気になってましたが、とりあえず矢本に向かいました。
 津波浸水区域から避難してきた人から、一人暮らしの老人がいるとか、家族と連絡が取れないから何とかしてくれといった救助を求める声があったので、そちらに徒歩で向かいました。車は入れないので人力で水をかき分けて行くしかありませんでした。市営グラウンドには30人ほどの人が避難していました。寒さで亡くなったお年寄りに心肺マッサージとか人工呼吸をしました。搬送する手段もありませんでした。一人で逃げてきたという小学生もいましたし、いろんな方がいました。
 水深も腰くらいの高さまで下がったので、徒歩で深夜近く署に戻りました。その後は取り残されている人がいるということで民間のボートを借りて救出に向かいました。
 私は消防官であるとともに救急救命士でもあるので、その当時は救急車が専門でした。ですので、その後は救急出動をずうっと続けました。震災後はサイレンと救急車の音がずっと響いてたと思うんですけど、避難所から病院へ、次の日水にぬれていた方を日赤病院に搬送したりをピストンのように繰り返していました。救急車が出動している場合は、他にある車両を使うしかないので、広報車でけが人や病人を搬送しました。
感謝のメッセージ
 例えば救急車の中でも「毎日救急車の音が鳴っているけれども休んでますか?」とか、患者さんや患者さんの家族から気を遣ってもらいました。中には「子どもさんいるんですか?」とか聞いてくる方もあります。「お会いしましたか?」と聞かれて「まだです」と言うと「無事でいることを祈ってますから」など、やさしい人たちが・・・。こっちも励まされたりしました。 
未来に向けて
 消防官の仕事はやりがいがあるんです。反面、震災や火災現場では危険が伴うことがあります。私たちは、地域住民の生命、身体、財産を災害から守るというのが仕事です。その使命感が大切で、もちろん体力や専門的な知識、技術を身につけることが大切であるんですけれど、一番大切なのは、人を思いやる心かと。それがなければ消防官は務まらないんです。
 私は社会人になって、民間の企業に勤めましたが、やっぱり小さいころの夢があきらめきれず消防士にチャレンジしました。
 だから消防士になりたいという中高校生がいましたら、夢はあきらめないでくださいと言いたいです。

松 幹太 20代 男性
 東松島市矢本字三間堀
(平成26年1月23日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は仕事でした。渡波(石巻市)の業者さんに呼ばれていたので、車の引き上げで向かっていたんですね。「雪だな」と思いながら走って、いつも通り着いて、右折で入るのでウインカーを上げたんですよ。それからドーンとなったので「あ~、事故だ。やられた」って思ったら、前も後ろも人がいなくて。「え~?事故じゃない?」って思った瞬間に、車が揺れている、って気づいたんです。揺れが収まるまでは、車を道路の真中に止めたままにして、少し揺れが収まった時に車屋さんの中に入れました。「どうする?」って車屋さんの中で話していた時に、たまたまいつも車屋さんに来るおじさんに「万石浦の水が全部無くなったぞ。津波だ!!」と言われて初めて「あ、津波が来るんだ」って。「とりあえず電気もつかないから、避難しよう」って言って、私は祖父の実家が湊(石巻市)にあったので、何かそっちがすごく気になって向かいました。
 「いたかな?もう避難してたかな?」と思いながら、おじいさんちに入ろうとしたら、旧日赤(旧石巻赤十字病院)が、ちょうど取り壊しが終わったあとに、老人ホームの施設を建てていたんですね。まだコンクリートだけだったんですけど、働いている人全員と、その辺にいる人が上に集まって、すごい騒いでいたんですよ。「津波だ」みたいな。でも全員がばらばらに喋るから、「何を言ってるんだろうな?うるせえな。」くらいにしか思ってなくて。おじいさんとおばあさんと、その他に親族の女の子がちょうど来ていたので、俺が交って4人になったんです。「もう駄目じゃない?小学校に逃げない?」って話をしていたら「大丈夫だ。津波のために嵩上げて家を建てたんだから」って言ったんです。「(津波が)来たらもう駄目だよ。いいから、逃げっぺし(逃げるよ)」って言っていたら、向いが自転車屋さんだったんですけど、その自転車屋さんのおんちゃん(おじさん)が走って来て「津波だ~」って。走ってきたから「何したんだい(何ごとだろう)?」と思ったら、そのおんちゃんの足をスーッと津波がさらっていって。そのおんちゃんは助かったんですけど、そこからダアーっと水が来て「とりあえず、2階に行こう」って言って、2階に行った瞬間に、もうしっちゃかめっちゃか。津波が入って来て。おじいさんちに来て、5分くらいで津波が来たもので「セーフだったな、幹太」って言われて。「どうする、どうする」っていう話になって。車がいろんな方向に流されて行ったり、もう飛んでくるように流れてきたりしていたもので。

清水 好和 40代 男性
 東松島市矢本字新沼
(平成26年5月28日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 震災当日は、自宅工場で父と叔父と3人で作業をしてました。大きな揺れだったので、普通ではないと工場からみんなで外に飛び出したところ、工場にあった製品すべて引っくり返ってました。外に全員出たために誰も怪我しないですんだのですけれども、揺れが尋常でなかったのでとにかくみんな避難所に避難しようということになりました。わたしは消防団に入ってたので「俺は消防団の方に行くから、津波は自分の家の方までは来ないだろうけど、来るかもしれないからなるべく海から離れた避難所に避難したほうがいい」と家族に話をして、わたしは消防団に行きました。それからは、消防団の活動の方に入ってしまったのですが、積載車に乗っていても津波が来るっていうのを我々も意識してなかったんです。自分たちの地区の自衛隊の近くの田んぼに差し掛かったところ何かやっぱり様子がおかしく、まわりのみんなから「津波が来た」っていうのを教えられて、自分たちもはじめて「あっ、これ津波なんだ」っていうのがわかりました。周りにいる住民の人達も逃がさなきゃないし、我々もすぐには逃げて来るにはいかなくて、あっち回ったり、こっち回ったりしながら、何とか自分たちの車で、水没しないまま津波が来ない所まで逃げきれました。
 それから、その日は夜通し消防団でいろんな作業をしてたわけなんですけども、当然自分の家族とも連絡とれなくなったし、一緒にいる消防団の方も家族と連絡とることもできなくなりました。自分の家は浸水地域になってしまって、そこまで自分たちも戻ることもできなくて「家族はどうしただろうな」と周りのことも心配だけど、自分の家族のことはものすごく心配でいたんです。その日の夜中くらいに、やっと水の中を自分の家まで戻ったら、やっぱり工場の中は水浸しになっていて、「やっぱり、ここまで来たんだ」とその時初めて自分で見て、実感したんです。そこでたまたま、近所のおばちゃんが声をかけてくれ「みんな、ゆぷとに避難してたから大丈夫だから」と聞いて、自分も安心して家族とそこで会いはしなかったんですけど、そのままずっと消防団の方に行くことができました。全然仕事のこととか、工場のことっていうのは考えられなかったっていうか、しばらくは仕事のことよりも他に今やるべきことが当然いっぱいあるわけで、そっちの方に目が行き、工場の片づけも家の片づけも全然できないまま、1か月近く過ぎてしまったんです。
未来に向けて
【質問】
清水さんは、震災の前から畳の良さを知らせたいということで、いろんな場所で体験教室を開いてくださったりしてましたよね。この震災を通して清水さんご自身は、畳の良さなりを再確認したり、いろんなこと感じられたと思うわけですけども、その辺についてはいかがですか?


一番は、仕事の依頼を受けて畳を入れに行きますよね。その間に避難所にいて、「やっと、畳が入ってきたからやっと畳の上に帰って来れた。避難所の体育館の床硬くて、寝てても体痛かったな。やっと畳で寝れるな。」っていうような話をしてもらうと、やっぱりそういう気持ちを持って畳を使ってもらうと、こういう商売やっていて良かったなと思うし。逆に我々が仕事を廻りきれないために、やむを得ずフローリングにしてしまった、フローリングで生活してみたら、「やっぱりもう少し待ってても畳入れればよかったな。」「フローリング硬くてな」という話を聞くと、畳の数って減ってきたけども、我々がやれるとこっていうのは、まだ残っているんじゃないかなと。硬いフローリングの上で生活して行くのがひどければ、フローリングの上に敷ける柔らかい畳っていうのも、今後は当然提供していかなければないだろうし、我々の技術を活かしてできることではないかと思います。それをやって行くことが今後、我々の生活のために必要なことだし、みんなのためにもなるのかなと感じはしてたんです。何よりも畳はあったかいって言われた時に、避難所っていうのは寒いし硬いし大変なことだったんだと思いましたよね。

阿部 晴(きよし) 40代 男性
 東松島市矢本字一本杉
(平成26年8月1日 佐藤商店にて取材)
被災体験談
 国道45号線の矢本交番の近くのスタンドにおりまして、スタッフ4人と来店されていた1台の車の給油作業をしていました。その3~4日くらい前にも大きな地震があって、「うん?」と思った時、スタッフの一人が「大きくなるんじゃないか」っていう声と同時に、中にいた事務の女の人が飛び出してきました。私の経験上、スタンドの上の屋根「キャノピー」と言うんですけど、鉄骨で建っているので、崩れるってことはないのですが、一応「キャノピーの外に皆、出ろ」と。立っていられなかったし、揺れもなかなか治まらなかったのですが、どうしようもないので、スタッフの人数を自分の視線の中に入れて地べたにしゃがみ込むしかなかったです。
 シャッターを閉めて、お店のお金は全部カバンに入れて、鍵をかけた状態で帰りました。次の朝は、シャッターはみんな流木でバラバラにされておりましたし、ガラスは割れてなかったんですけど、ドア閉めてもすきまが少し開くので、そこからヘドロが入ってました。奥にも扉があって、スタッフの休憩所があるんですけど、そのすみずみまで全部ヘドロ入ってました。もちろん電気もきてない、そうするとノズルひねっても、出るものも出ない。ただ、幸いにも震災の2時間くらい前に、地下のタンク満タンに(油を)入れてたんです。
 とりあえず、市役所の方に行きましたら、すぐ防災本部が立ち上がってまして、「油が、大変になるようであれば、地下のタンクにはほぼ満タンに入っているのですが、ただそれを汲みあげる発電機などを貸していただければ、軽油、灯油、ガソリン、レギュラー全部出すことは可能です」ということで詳しい備蓄量を報告しまして、3月13日から、地下からくみ上げて、ガスの車とか、市役所の緊急でどうしても動かさなければならない車とかを入れてました。
 そうこうしてるうちに、一般の消費者のお客様が、ガソリン入れたいけどどこも閉まっているということで、震災の次の次の日くらい(13日)に、隣のスタンドは開けたんですよ。たぶん手回しでやられていて、「菅原さんどうなの?うち、たぶん今日で油なくなっちゃう」と言われ、「うちの方は、油はあるんだけども、上げる術がないんだ」と。この界隈は、それ以上開いているスタンドがなかったんです。
 うちは発電機入ったのが3月の末、25日か26日に電気きましたけど、その1日くらい前だったんですよ。発電機入った次の日に電気来たんです。でも、計量器が津波かぶったもんで、モーター全部焼けちゃったんです。せっかく電気来て、よしこれで入れられると思ったら、みな煙出ちゃって、焼けちゃったんです。たまたま、天井から2本ガソリンと軽油用のホースを吊ってたんです。それは津波の影響なかったので、電気さえ繋げれば動いてくれました。その2本でガソリン1本と軽油1本で、1日小売は100台と、プラスアルファの緊急車両を、3月の末にはそういう給油活動やってました。
 うちら、毎朝6時頃行くと、100台やってない頃も、50台くらい並んでいるのね。うちの方の国道に50台くらい、道路の向こう側の店に渋滞100台くらい。それが終わる頃、他店の渋滞が大街道の方までずっと。ちょうど、ゆぷとの前が、向かいの渋滞とうちの渋滞で自衛隊さんが大きい車で入って来ているのに、入って来れないので、ポール引っこ抜いて通してました。自衛隊さんが、どんどん入ってくれるようになって、自衛隊の車を見るととても勇気が出たっていうか、見捨てられてないっていうか。渋滞が申し訳ないと思って、渋滞をなんとかしなくてはと思って、うちは早くやったんですよ。

八木 敬(やぎ けい) 50代 男性
 東松島市矢本字北浦
(平成26年9月26日 給食センターにて取材)
被災体験談
 3月11日、あの日は金曜日で議会の最終日だったんです。正直言ってこれで今回の議会もやっと終わって、ほっとしたところでした。週末の金曜日だったので、かなり開放感、安堵感はあったんですけども、14時46分のあの揺れは、宮城県沖地震とか北部連続地震は我々は経験しているんですけども、それとも比べものにならないっていうか格が違うっていうか、そういう揺れでした。私は当時下水道課にいて鳴瀬庁舎の2階にいました。激しい揺れだったので、天井と梁と壁の間が開いたり閉じたりするような、建物がこれで倒壊するのかなという恐怖感を覚えたのは、始めてですね。けっこう長く続いた揺れだったもんですから、停電、断水ということになりました。よその状況がどうなっているか全くわからないということで、職員全員駐車場に集められて今後の対応どうするかということで、指示を受けました。
 私は現業課という現場を持っている課の1つであったので、現場を確認して来いと割り振られました。私は野蒜海岸の崖崩れの危険個所があるので、そこが崩落してないか見てこいと指示を受けました。そこは、ちょうど下に市道が通っているので、落石で道路が塞がっていないか見てこいということで、車で向かいました。それが3時15分か3時半前だったと思います。鳴瀬大橋の方は目に見えた被害はなかったのですが、通行止めになってました。三陸道に通じる鳴瀬奥松島大橋を通って、左折して河岸を河口に向かって野蒜方向に向かいました。外部からの情報は車のラジオで「津波警報」とかという言葉を、切れ切れに断片的には聞こえたんです。津波と言ってたのか、大津波と言ってたのか記憶は定かではないんですが、ただあれだけ大きな揺れだったので、注意報ということはないんだろうなというふうに自分では思ってまして、警報ということなんだろうなと。ただ警報と言っても、沿岸部で5メートルとか6メートルと言ったような気もするんですが、それが実際にどの位のものなのか、あるいは威力というか破壊力というかそういうのが全然イメージできませんでした。大曲浜地区とか野蒜地区が津波に襲われたとしても、大した被害にはならないんじゃないかなと、変な思い込みがありました。
 二人組で車を運転して行ったのですが、左手に川があって河口に向かって行くという中で、ふと左手の川を見ると川底が見えるんですよね。見えるはずのない川底がすっかり見えまして、一緒に運転していた部下に「おい、川底見えるぞ」と言ったら「まずいですね、これ。確実に津波来ますよ」と。「どうするの?1本道じゃないの」ということで、ちょっと走って目線を上に上げて河口部の方を見たら、松林の高さくらいにもやと言うか霞というか、ぼうっとかかったような感じに見えたんです。その日曇り空で小雪も散らついてましたので、天気が悪いから視界も悪いのかなと思ったんですけど、相方の彼は「これは、まずいですよ、絶対まずいです」ということで、「逃げましょう」ということになって、ちょうどその時に1本道であったにもかかわらず、右へ抜ける道路がちょうどあったものですから、そこから田んぼの中を抜けて山に登って難を逃れたという形です。その直後にその辺りを津波を襲ったという、間一髪だったなということだったんです。

堀籠 恭子 40代 女性
 蔵しっくパークで被災
(平成27年1月28日  東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は蔵しっくパーク(矢本字北浦)で、普通にパソコンの前で仕事をしてました。グラッときたのでこれは尋常でないと思い、私はまず火を止めようと思いその場を離れました。もう1回大きな揺れが来たのでみんなで固ま   って、揺れをやり過ごそうとしました。大きな揺れだったのですぐ近くにあった土塀がバタンと倒れて、でもその時には土塀の近くには誰も人がいなかったのでほっとし、その場はまずはけが人もなくっていう形だったんですね。いったん揺れが治まった後に家に戻りました。
 家(自宅)は、そこ(蔵しっくパーク)から1分弱、本当に近い所です。義理の母とまだ幼稚園に入る直前の娘がいたので「大丈夫だった?」という話をしていたら、雪が降ってきました。うちのお向かいの方のご実家が大曲なんだそうですね。そこの大曲のお父様が車に乗っていらしていて、「そこまで津波が来ているから、逃げた方がいいよ。」と言われたんです。「津波?こんな所に津波?」まさかと思って、「ほら、本当だよ。」と見せてもらったのが車のタイヤの真中へん位まで水のラインがついていたので、「これは、いかん」と思って、そのまま母親と娘と私で車に乗って大塩に逃げました。
 一晩明けて、ちょっと様子を見に行こうと思って自宅へ帰ったら、もうこりゃなんじゃこりゃの世界で。あっちに丸太が転がっているし、こっちに何だかわからない物も転がってるしで、泥だらけの中を帰りました。
 自宅に戻った後、何かできないかなと思って(ラジオ局に)行ったんです。その時は、ラジオ石巻と日和山に受付が作られていて、無事な方は誰かに向かって「どこにいますよ」みたいなメッセージを読んでました。
感謝のメッセージ
 大塩市民センターで印象に残っているのが、スタッフの方の対応の早さです。5時前ぐらいだと思いです。それでも、水の確保だったりとか受付がしっかりできていて、受付の所にホワイトボードも置いてあったりそこにいろいろ書けるようになってたりしました。あとは水が来なくなると予測されていて、お手洗いに行くと個室の中にゴミ袋が貼ってあり、「小さいのの時はここにゴミを捨てて下さい。水は流さないで下さい」とちゃんと1個1個に書いてありました。
 大塩市民センターの近くにデイサービスセンターのような所があるらしくて、そちらのご高齢の方専用のあったかい部屋もちゃんと用意されていたりして「すごい対応が早い」と思ったのが、第一印象です。
未来に向けて
 ラジオとしては、企業なので利益を生まないと動けない部分っていうのがどうしてもあ るんです。個人に立ち返ってこういうことが出来るかなっていうので、支援をいただいて、東松島市図書館と同じようなアーカイブをして行こうってことになりました。後世に伝えるということや記録をとっておくということもすごく大事だなということで、音声でそういった体験ですとか震災から1年後、震災から2年後というような状況を記録しておくというような意味合いを込めて、「石巻アーカイブスプロジェクト」というのを仲間でやって ます。月に1回30分の番組を作って、配信したりホームページで紹介したりというようなことをしています。やっぱり今しかできない、記憶が薄れる前にこの方がいらっしゃる時にお話を伺ってそれを保存する、記録するっていうのはすごく大事なことなんじゃないかなと思っています。

渥美 裕介 (HOPE みらいとし機構)30代 男性
福嶋 正義 (HOPE みらいとし機構)30代 男性
A.Y(ステッチガールズ会員)50代 女性
(平成27年3月18日 あったかいホールにて取材)
未来に向けて
渥美さん 
 復興という形は今まで誰もやったことないことばかりなので、絶対これが正しいという答えはおそらくないんだと思います。なので、我々のようなHOPEといういろんな人たちの間に入る組織があることによっていろんな立場、いろんな人たちが募ってそこで対話をしながら、未来の東松島というのは「どんな姿でありたいか」っていうところを話し合いながら、それに向かって一人一人が出来ることをやって行きたいと考えています。そういう対話をするための場としてHOPEが活動していく必要があるだろうなと思ってます。震災から丸4年で、国が定める復興集中期間というのも来年度で終わります。だから一過性のものでなくて、住民が主体となった街づくりというのがこれから求められて行くだろうなと考えてます。そういう時に、町の人がどんなことを考えているのかとか住民の人はこんなことを今悩み課題があって、それを解決してほしいなとかそういうニーズとシーズが、HOPEでうまくマッチングできるような組織にして行きたいなと考えています。
福嶋さん 
 常に目標の一つに掲げているのが、東松島を刺繍の町にするというところです。東松島市民に限らずですけど、皆さんには誇りを持って仕事をしてもらえるように子育ての合間であろうが、本業を持っていようがどんな形でもいいのでこの事業には携わり続けてほしいなと思います。 あとは並行して技術研修会みたいなもやって腕を上げてもらう、っていうのをやりつつ全員にメンター資格っていうのですが、人に刺繍を教えられる資格を全員に取ってほしいなと思ってます。そうすると東松島の人が外に行って、クロスステッチを教えるとそこもまた刺繍の町になるみたいな感じで、広がりをみせるといいなと思ってます。
A.Yさん 
 私は去年の秋に入ったばかりなので、まず自分の腕を上げたいなと腕を磨きたいなと思います。仕事をさせていただく上で自分のスキルを上げて行きたいというのがまずの目標です。こういうのを通して、いろんな経験させていただいているのですごくありがたいことだし、今から次どんなお仕事が来るのかわくわくしてます。

小野寺 香弥 40代 男性
(平成27年3月26日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
(震災)当日は普通に集配業務をしていて、鳴瀬地区を配達していました。その日は小野の町から入って、ひびき(工業)団地に行って野蒜小学校付近に入る所で時間指定の荷物があったのでそこは飛ばし、新東名、宮戸に行って野蒜海岸の方を走ってたんです。新町あたりに来たそのタイミングで地震が来ました。風が強いのかなと、そしたら急にラジオが止まって「何だろう?」と思ったら、急に緊急(地震)速報が入りました。ずっと揺れが治まるまでトラックの中で揺れて、海辺の方にいたので周りの状況とか全然わからなくて、地震の揺れが治まってからも普通に配達を続けたんです。そこまでひどいとは思わなくて、車の中だったので下に降りて立っていれば「大変だ」とは思ったでしょうけど、凄い揺れているなというぐらいでしかとらえてなかったんです。走っていてパンクしたのかなという感じになるんです。
その後、会社に戻ろうと思って、土手を通って鳴瀬大橋を渡って(国道)45号線走って、滝山の脇を通って大塩に抜けようとしたら土砂崩れで通れなかったんです。とりあえず戻ろうと思って自衛隊の脇を通って真っ直ぐ向いた時、川を渡ったあたりで真っ黒い津波がこっちに向かってダダダッダーって来ているのが見えたんです。けっこう遠かったしスピードも遅かったので「あっ、これまだ大丈夫だな」と思って、ちょっとの間5秒~10秒位「すごいなあ~」と冷静に見てたんです。津波の先で丸太みたいのがぴょんぴょん飛び跳ねているのが見えました。
感謝のメッセージ
やっぱり物を届けて喜んでもらえるっていう、普通に配達していても「ありがとう」は言われますが、今回は本当に「ありがとう」って言ってくれるのがわかるんですよ。送られた方の気持ちも伝わるっていうか、こういう思いで自分たちに荷物を預けて届けてよって。その顔が見えるって言うか。「あっ、誰々さんからだ。ありがたい。」とかっていう顔は、とても印象的でした。だいたいそういう荷物ばかりだったので、やっていて良かったと思うのはそこですかね。
大塩市民センタースタッフ
(平成24年6月15日 大塩市民センターにて取材)
被災体験談
佐々木 美香子 50代 女性
 大塩市民センター 職員
 大塩市民センターで被災
 わたしはあの日、息子を大和町の自衛隊に送って、6時間ぐらいかかって大塩市民センターに戻ってきました。その時、ここには車が入りきらないほどでした。避難してきたんだろうとは思っても、津波がくるのは頭になかったですね。無線で「今から40人ほどいいですか?」と言われ、もうそれだけでここはいっぱいになるんですけど・・・と言う状態でしたが、受け入れるしかないって感じでした。バスで来るはずが、歩いてきたんです。来た人もどこを通ってきたかわからないと言っていました。ぬれている人が多かったです。最後に来た人たちは牛網保育所ですかね。子どもと先生方と一緒に来たの。子どもたちも見れば泥だらけで。大塩保育所の先生方がちょうどいたので、着替えからオムツからみんな持ってきてもらって。震える子どもたちの服を脱がせて着せて、ストーブの前で温めて、タオルでくるんで。朝になって親が聞きつけて迎えに来きて、感動の再会を果たしました。最後に来たお母さんは、ここについて子どもの顔見たら安心して倒れてしまって。子どもはそこで全員引渡しができました。いろんなドラマを見ました。
山田 健  40代 男性
 石巻市中里で被災
 大塩市民センターにて支援活動
 あの時は仕事で中里(石巻市)にいました。大塩小学校に子どもを迎えにいこうと戻ってきたら、もう会社は1mぐらい浸水していました。金港堂(石巻市蛇田)で車が浮くくらい水がきていたかな。ふつうならここ(大塩市民センター)まで来るのに20分しかかからないところ、1時間10分かかったね。
 ここには、2日か3日くらいいましたかね。メガホン片手に、避難者の対応をしました。いろんなものがそろっていたけど、後になると人手が足りなかったです。支援物資も各県から2日後くらいから届くようになったものの、みんな大塩に来るんです。「ここは間に合ってるからいいです。」と言っても、「われわれはどこに(支援物資を持って)行けばいいんですか?」と聞かれるような状態でした。ここで、無線連絡して、災害対策本部に行けとか赤井小学校に行けとか指示を出しました。ところが、静岡とか関西方面から来た運転手は道もまったくわからないんです。それを夜中に案内するというのが大変でした。

木村 喜宥(きむらよしひろ) 男性
 大塩市民センター センター長
(平成26年8月19日大塩市民センターにて取材・仙台放送DVD)
被災体験談
【質問】3月11日の夜、皆さん避難されて来たと思うんですけど、当時の状況っていうのはどうだったんですか?
 ここで仕事してました。海岸の方で何があったのか全然知らなかったのですが、あまり(揺れが)強かったので避難してくる人いるかなと思って、ホールの方ににじゅうたんを敷きました。施設の中、壊れている所を確認して、そうしているうちに、だんだん避難してくる人が来るんだよね。泥だらけの長靴履いて来るんです。「何あったのかな?」と思って、ずっと知らなかったんだけど、夕方になってどんどん来て、その時初めてわかったんです。「津波って、ものすごいな」って。

【質問】多くの方が避難されて来たということで、いろいろな支援物資などが必要となると思いますが、その点については、どういう対策をされていたのでしょうか?
 支援物資というか、備蓄されてた物が倉庫の中にあったので、その晩は備蓄の食料で何とか対応しました。大きな鍋にお湯を沸かして。

【質問】その後はどうされたんですか?
 そのあと、9時頃になって地元の人が米持ってきてくれました。「明日の朝、どうするかな?」と考えていた時だったので、「じゃあ、おにぎり作ろう」と各地区から女性の方、二人くらいずつ頼んで、10何人くらい集まったかな、次の朝はおにぎり作ったんです。
感謝のメッセージ
 地域性っていうか、例えばストーブつけるにも油ないとね、近所の人が家から少しずつ持ってきてくれたんです。あと、家にあるとりあえずの食べ物を持ってきてくれて。何となくそういう雰囲気なのね、この辺の地区は。
 知らない人にいろんな物いただきました。次の日(3月12日)の朝、軽四輪で山盛いろんな食料を積んで山形から来てくれた人がいるんです。その人名前も聞かないでしまったんだけど、すごくうれしかったですね。みんなで何とかしようと、そういう気持ちで来てくれたと思うんです。やっぱり、常日頃いろいろと人の付き合いとか、人の関わりとかを大切にしてれば、こういうふうになると思いますよ。急にはできないのね、こういうのは。
佐藤 正巳  70代 男性
 赤井南4区 行政区長
 東松島市赤井の自宅にて被災
(平成24年6月7日 赤井市民センターにて取材)
被災体験談
 当日、14時46分は自宅にいてテレビを見ていました。わたしは地震のときはいつも南側の窓を開け、といっても外に出るでもなく内にいるわけでもなく、その中間のようなところでやり過ごすのですが、その日の揺れはあまりにすごく、戸と一緒に外に出されたような格好になりました。すぐに近所にいる息子が「大丈夫ですか?」とやってきました。おそらく震度5以上の地震だから、即、自主防災本部を立ち上げようということになりました。すぐ裏に防災倉庫があるので鍵を開け、中に入っているものを全部公園に出し、テントを持って南小(赤井南小学校)の校庭に向かいました。校庭に南4区の防災テントを立てたものの、かなり寒かったので、これでは外にいられる状況じゃないだろうということで学校に体育館を開放してくれるように言ってほしいということを息子に頼み、わたしは自転車で行政区内に避難を呼びかけて回りました。それが約3時半頃から40分頃までかかったでしょうか。
 小学校に戻ったとき、線路から水が来るのが見えたんですね。「これはだめだな」と思い、そのまま校庭を自転車で突っ切ろうと思ったのですが、半分ぐらい行ったら自転車が水で動かなくなってしまい、後は自転車をその場に置いて走って体育館に逃げました。体育館にはすでに30~40人くらいいたのかなあ。その後、2階から、水かさが増してくる、車が浮かんでいる、材木が流れてくるといった様子を目にしました。水が一番高く上がったのが、校舎1階で1尺位のところまでですかね。あの地域は線路がかなり防波堤になったようで、排水路を逆流してくるため、急には水は増えないようです。ただ、最高のときは線路が見えなくなりましたからね。車が線路を越えて流されてきました。
 夜8時ころには、石巻方面の空が明るくなっており、「パルプ(日本製紙の工場)あたりが火事になってるのかなあ」なんて話していました。体育館には200人くらい来ていたのかな。自力で動ける人は赤井小学校や大塩方面に移る人もいました。かなり寒くて、体調を悪くする人もありました。ただし、無線が1本でなかなか連絡を取ることができませんでした。救急車を要請しても学校まで車が入れない状態でした。4~5人を救急車が来られるところまで船で運びました。水は深いところで胸あたりまでありました。2~3日は荷物や食べ物が来てもその行ったり来たりの繰り返しでした。
未来に向けて
 自主防災作ったり、防災備品をそろえたり、うちの方では100万円以上のものを備えたりしたものの、それが全部水没でだめになりました。ということは逆に言えば津波のことは一切想定しない防災訓練だったし、3月11日にはわたしも津波警報が出ていたことを知っていながら「浜のほうで止まっぺがら(止まるだろうから) こっちまでこないから」なんて、わざわざ校庭にテント張ったりしてたんだから。やっぱり津波のことを想定していなかったことが一番の反省です。防災倉庫も機能しなかったので、これからは避難所の2階以上の高さの所へ、非常用食料とか毛布とかを置くようにしないと。
 あとは連絡手段。無線1本では言いたいこともいえないんだよね。病人が結構出ました。1つしかない無線で病院の手配までというのはかなり至難の業でした。車が水没してしまったこともあり、連絡手段は今後、大きく改善してもらわないと。それから、排水が問題の地域なので、ポンプでくみ上げる必要あり。今回の地震で1mほど地盤沈下しているので、ますます状況がひどくなっているのでその対策だね。
 あと避難所に関して言えば逃げられる人、元気な人は皆赤井小学校に行ったんだよね。だから、赤井南小に残った人はみな逃げられない人、どこにも行きようのない人だった。わたしもひとりで孤軍奮闘するしかなかった。今回のように一時的に避難場所が分かれるのはしかたないが、津波が引いたらやはり地域の人は同じ場所に避難しないと協力体制がとれない。そういうことを考えると、やはり同じ地域の人は同じ避難所に戻って協力していくのがいいです。

青戸 力弥 60代 男性
 赤井南5区行政区長
 東松島市赤井の自宅付近にて被災
(平成24年6月7日赤井市民センターにて取材)
被災体験談
 あの日は仕事の帰りに被災。ちょうど自宅まであと100mというところでした。前の車が突然右側に飛ばされたのを見ましたが、何が起こったのかわからない状態でした。右に飛ばされた後、左の縁石で止まったので、危ないと思った瞬間、大きな揺れを感じました。自分の車の中でもあちこちにぶつかり、とにかくこんな地震は初めてだと思いました。家の中もひどいことになっていて、とりあえず扉を直し、家内を車に避難させました。そこから、行政区に避難命令の声がけをして歩きました。
 その時、ちょうどアパートの住人が「どこかに10mくらいの津波が来るそうだ」と話しているのを聞いて、それからもう一回避難するよう言って回りました。ひとり暮らしのお年寄りがいるはずの家に行ったものの家の中のどこにもおらず何かの下敷きにでもなっているのではと思い探したけれども見つかりませんでした。そこに帰ってきた息子が「津波に追われたからとにかく逃げなきゃだめだ」と言うので避難することになりました。私の地区は矢本二中(矢本第二中学校)が避難場所となっています。お年寄りも多い行政区で二中に行く前に、もうすでに水は来ているということで、自宅に戻って来た人もいました。
 私も車で逃げたものの、大渋滞にはまってしまい、河南中央公園まで行きました。うちの行政区の人も何人かいました。そこで一晩過ごし、次の日の朝、食べる物が何もないため、さしあたって何か調達しなければということで、近くのローソンに一時間半並んで店の物もほとんどなくなっていたが、ポテトチップスや残っていた物など1万円近く買って、野球場の駐車場に並べ、車に乗っている人を呼んで、「これから何日こういう状態が続くかわからない。これだけしかないが、みんなで少しずつでも食べましょう」と分け合いました。
 そこにはもう一晩いて、2日目に様子を見てくるといって、ここ(赤井市民センター)に来ました。2日目からは赤井小に行きました。次の日から、毎朝5時起きして、公用車のガソリン、灯油、発動機を回すための軽油、トイレットペーパー、オムツとかを毎日一番でもらいに通いました。行政区に戻った31日まで毎日、赤井小と市役所を往復しました。そうしないと混み合って物がなかなかもらえない状態でした。そのころから物資運びが始まりました。二中には物資を運びたくても水が多くて運べない状況でした。ちょうど大曲の方から流れてきたボートがありましたので、そのボートを借りて、物資を運ぶことにしました。二中には避難していた中学生もいて、物資を下ろしたあと、子どもを乗せてきたりしました。
未来に向けて
 自助共助ということをいつも言うんだけれど、自分のことはともかく、共助は難しいんだよね。特に近所づきあいのない人は難しい。ひとり住まいのお年寄りがいて、息子もいるんだが、その息子もまた近所づきあいがない。だから、何かあっても声をかける人がない。その息子が「うちのおばあさん、一人だから何かあったらお願いします」とかあればいいのに。今からは、その近所づきあいから教えていかなければならないです。
 なんといってもうれしかったのは、自衛隊員さんと一緒に活動したことでした。不明者を捜索する自衛隊さんと共に、マンホールの点検などを兼ねて地区の巡回をしました。10日目にわたしはゴムの胴長を手に入れました。足もとがずっと水につかりっぱなしの自衛隊さんが気の毒になり、水の多いところは自分から入るようにしました。ボートで人を運ぶとき、さすがに足がはれて歩けなくなってしまい、校舎から子どもを背負ってくるのを若い人にお願いしました。ボートで運搬していると孤立した住人から避難所に連れて行ってくれるようにお願いされました。
 生きているうちにもうこんな経験はないと思うけれど、自分の息子や孫には「人助け」ということを忘れてはならないと教えたい。自分を守ることと人を助けること。水に流れてきたパンの袋をあけて食べたこと、二中の避難所でバナナ半分で一日過ごしたこと、それを忘れるなと言いたい。ああいうときは我慢だぞと。私も人を助けたが、私も山形の兄に助けられた。顔を見るなり、生きててよかったと泣いたあの姿はありがたい。忘れられない。だから何かあったら今度は自分が倍にして返さなければと思います。一人一人、人に助けられて生きている。初心忘れず。助け合って生きることを忘れなければどんな災難にも立ち向かえると思います。あとは、こんな災害が来ないことを願うしかありません。

玉山 軍三  60代 男性
 赤井南 行政区長
 東松島市赤井の自宅にて被災
(平成24年6月14日 赤井市民センターにて取材)
被災体験談
 地震発生時は自宅におりました。南区で作っている自主防災会規約では震度5強以上になったら、自主防災本部を立ち上げるというのがあったので、地震の中、区長の立場として自主防災会を立ち上げようと自転車で南区地区センターに行きました。二区の区長さん、事務局次長と3人が集まりました。余震もひどいし、赤井地区体育館に避難させるには危険だから、矢本二中に避難させようとしました。ハンドマイクで「矢本二中に避難して下さい」と自転車で回っていたら、津波が来て行けないと次々戻って来る人がいました。急きょ、体育館に避難させないといけないけど、市に連絡はしなくてはならないし、管理人さんに鍵をと思っても連絡がつかず、でも行ったら脇の入口が地震で開いてたので、泥まみれのままみんなを入れました。体育館にも水が入ると思い、卓球台や舞台を並べてその上に座ってもらいました。それでも、だんだん水が上がって来て、二階の直角な階段を元気な人は登ってもらい、踊り場に避難してもらいました。体が不自由な方は卓球台の上に避難し、271名の方がいました。その時は電気もつかないしストーブもありませんでした。
 3日間は水もたまっていて、体調の悪い人は言って下さいと言いましたが、救急車も来られない状態でした。救急車は農道まで来ますが、そこまで連れて行くのに水が深くておんぶしても水に浸かる状態でした。そこで、4人の方が流れてきた発砲スチロールや船の浮きを体育館の長机の下に4つつけて浮かせるように、いかだを作ったのです。4カ所にロープをつけ、患者さんをいかだの上に乗せ、4人でひっぱり、救急車の来る所まで運びました。近辺の人70代~90代の人が主に避難してましたが、入院したとか重い病気になった人はいなかったです。一番重症だったのは、子どもさんを産んで間もない人で、旦那さんが石巻にいて連絡がとれず心配で苦しんでいたので、たった1つあったストーブの側に毛布をかけて安静にさせ、救急隊員が来て診断してもらい「過呼吸だから命は大丈夫ですから、救急車が来るまで我慢して下さい」と言われました。おっぱいもあげることもできず、でも中にやはり乳児がいた方が代わりに飲ませてくれました。でも、旦那さんが迎えに来て、無事、避難所をあとにすることができました。
未来に向けて
 今後どこに食料を備蓄するか、ここは平地で津波の場合は避難場所がないのが課題です。地震がきて津波警報が出たら、車に大事なものを積んでおいて、すぐ赤井小学校の方に逃げ、自分のことは自分で守るってこと。問題は寝たきり老人とかを家で見ている人たちをどうするかです。そういう人たちは、2階がある家は2階に逃げ、3日間くらいの食料や水を常に用意して置くことですね。3日間過ぎると支援が来ますから。2階のない人は近所の普段の付き合いで、助けてもらうとかですね。隣近所の付き合いが大事だと思います。家族だけでは、限界がありますから、やはり、隣近所が仲良く会話して普段の付き合いが大事なんですね。
 この前、雨が降った時も避難して下さいと放送がありましたが、避難する人は少なかったです。(震災のことを)だんだん忘れて、もう大丈夫だという風潮があるのです。時間がたつと緊張感が薄れ、(津波は)来ないよっていう気持ちがあって、とっさの行動がとれないから、普段からそういう訓練や気持ちでいないと、また同じような犠牲者を出すと思います。釜石の小学校で犠牲者がいなかったのは、普段から避難ということを教えられ、訓練していたからだと思います。普段から準備しておくという事を考えさせられました。絆、助け合い、隣近所が会話をするような社会であって、「隣は何をする人ぞ」ではなく、声を掛け合い、会話が大事だとつくづく感じましたね。そういう社会になってほしいと思います。

赤井南保育所 保育士
(平成24年6月15日 矢本中央幼稚園にて取材)
被災体験談
山口 千寿子 50代 女性
 赤井南保育所 保育士
 赤井南保育所にて被災
 あの日は、子どもたちが昼寝をしていて、私達が休憩を取ろうとした時に地震が来ました。先生たちがみんなを起こし、20人くらいずつの5グループを組んで、自分たちの側に寄せ、布団をかけて守りました。「大丈夫だよ、もう終わるよ」とみんなで声をかけるのですが、少し治まるとグワァーと揺れるので私たちも女性だけの職場なので悲鳴半分、子どもたちを励ましながら何とか地震は乗り切りました。大きく壊れたり、物が落ちたりはなかったです。
 避難体制を取った方がいいと思ったので、「それでは急いで、南小に行きましょう」と先生たちは練習通り準備をしてくれました。南小の体育館に着いたら小学生がいて、その隣に私たちも陣取り、来た親には引き渡しました。お母さんたちが迎えに来て帰って行く子を見て、自分はどうなのか不安な表情する子は何人かいましたが、先生たちがうまくカバーしてくれました。あと19人という時に教頭先生が「津波が来たようです!!」「2階のギャラリーに上がって下さい」と叫んでくださったので、みんなで上がりました。2階のギャラリーは比較的広かったので、端の方に19人の子どもたちと私たち職員15人でいました。
 子どもたちは「おやつのプリン食べなかったの。おやつまだ?」と聞かれました。お腹がすいていたのですね。小さい子は「お父さん、お母さん」と口にしましたので、先生たちが携帯の画像を見せたり何とか気を紛らせたりしていました。お腹がすいてはいたのですが、大変な事が起きていると何となく感じていたのか、泣いたり騒いだりする子はいませんでした。暗くなって来て、小さい子どもたちを職員が一人ずつ抱き丸くなり、大きな子どもたちをまんなかに寝かせました。子どもたちも疲れていたのか、寝入りは早かったです。布団もあったので寒さはしのげました。そこで一晩明かしました。
 次の日になって親が迎えに来てくれ、お父さんが水の中を漕いだり、背負ったり抱いたりして連れて帰りました。又はお母さんが迎えに来て、そのまま一緒に避難したりしていた人もいましたが、最後の19番目の子の親が来たのは4日目の夜でした。
松谷 多加子 20代 女性
 赤井南保育所 保育士
 職場から帰宅中に被災
 その日は勤務が終了し、買い物をして帰る途中、車に乗っていて一人で地震にあいました。いったん家に戻って、子どもが泣いていたのですが「ごめん。ママ職場に戻らなきゃならないから、遅くなるかもしれないけど、ばばと留守番していてね。」と置いてきました。
 母からの1回目の電話が「今、波が家の中にも入って来て車出せないから、屋根の上に上がったよ」とあったのですが、え~と思いながらもまだぴんと来ない自分がいたんです。8時位に電話が来て、「また津波が来たんだけど、どうしよう。」と。保育所の子どもたちをトイレに南小の体育館の裏まで連れて行った時に、向こうはすっかり海で2階の屋根がぽつりぽつりとしか見えないので、実家はもっと海の方なので流されているんじゃないかとか、でも現実を受け入れたくないっていう気持ちが強かったのか信じられない思いでした。あの時、先生たちや子どもたちがいなかったら私はもうパニックになっていたと思います。
 次の日水が少し引いて、主人も水の中を漕いで実家に辿り着いたので、母と主人が一人ずつ子どもをおぶって、長男は自分で水に浸かりながら南小まで歩いて避難して来ました。南小まで来る間に、亡くなっている方もいたり車もすごい状態だったりしたので、子どもたちに見せないように気をつけながら来たそうです。長男はもうすぐ5歳っていう時で、避難所で5歳の誕生日を迎えました。その時の母の顔は尋常じゃなかった、何かが抜けてしまったような感じでした。とにかく私の所まで3人を連れて行くまでが、自分の任務だと連れてきてくれて、その後で具合が悪くなって、本当に恐ろしい思いをしたんだなというのが、すごくよくわかりました。会った時も、「あっ、来たんだ。」と泣き崩れるゆとりもないっていうか、向こうは必死で連れてきてくれたのに、それに対して私が本当にありがとうっていう思いを伝えられなかったです。ただもう混乱していました。母は4歳2歳1歳の子を守ってくれたのに、その思いに私がついていけてなかったというか、あの時なんで子どもたちを連れてこなかったんだろうと悔いが残って、立ち直るのにずい分時間がかかりました。
感謝のメッセージ
山口 千寿子
 一番印象に残っているのは、保育所で泥かきをしている時に、突然トラックが止まり、トイレットペーパーやティッシュとかオシメとか手作りのパンを持ってきてくれたんです。何の団体とかじゃなく、東京から近所のみんなの物を集めて持って来てくれました。有明の集会所に避難している方々にも分けたりしました。東京でもあの時は物がないのに、スーパーに並んでいたら、被災地に行くという話を聞いていた方々が、買った物を持って行って下さいとよこしてくれたそうです。その方が1年の間に何回も来てくれたんです。届けてくれたものを、保護者の方に分けたり、私たちも何もなかったので使わせていただきました。見ず知らずの方ですが、そういう支援が本当にありがたかったです。
未来に向けて
山口 千寿子
 子どもたちが変わりなく元気に保育所に来てくれたのが、何の支援よりも大きかったです。特別な1年間でした。子どもたちは最初の頃、話題の中で地震、津波の話が出ていて、「地震ごっこ」「津波ごっこ」をしていました。それが、だんだんとなくなってきました。子どもたちの中には家族や親を亡くした子どももいたので、そのお母さんと子どものケアには気を使っていました。担任も時々声掛けして様子を伺ってくれました。そして、先生たちのことも正直、心配でした。いろんな事があってげっそりやせてしまったり、職員の中にも家族を亡くした人もいましたが、何とか頑張ってくれました。何よりみんな元気になってくれて良かったです。
松谷 多加子
 職場では先生たちとの絆っていうか、苦悩を乗り越えた仲間っていう意識が強くて、これからもあの時のメンバーって覚えていくのかと思います。先生たちがいたから、我を保っている時間があったっていうか、仕事があったから逆に家族を守れなかった思いもあったんですが、仕事があったからこそ人間らしくいられたのかと思います。

阿部 としゑ 50代 女性
 東松島市議会議員
 議会中に被災
(平成24年6月22日 自宅にて取材)
被災体験談
 3月11日は議場で地震にあって、解散してうちに慌てて帰って来たら、サッシもみんな飛んで茶ダンスとかテレビも冷蔵庫も洗濯機も全部吹っ飛んでいて、ぴーちゃん(曾おじいさん、としえさんのお舅さん)が部屋から壊れたガラスで血だらけにして外に這って来てました。うちは全然片づけようがないけど、娘は(荷物を)積んだんだっちゃ、ぴーちゃんいるから。着るものとか毛布とか。積む位積んで、思ったより早く赤井小学校に着いて。体育館じゃなく、校舎に入れられたの。体育館耐震なってないからって、危険だって判断で教室に入れてもらって。私達も、ぴーちゃん支えなければ駄目だったから、支えて連れて2階さ。どの教室も廊下にも人は一杯いたから。寒い中、余震の中一晩過ごして、みんなで、全然知らない人たちと一緒に。
 そういうふうにして始まって、聞いてみたら石巻とかいろんな所の人が避難していて2日位は食べるものはあまりなかったかな。でも、北赤井地区は被災してないので、発動機で米ついて、中区分館で炊き出し始まって。それさみんな手伝いに行くべしって行って、よく考えてみたら私達もほとんどの人たち蔵に米あっちゃ。米ついてもらって、何日後だか、3日後か5日後か忘れたけども、私炊き出し班長やるから手伝ってと言ったら20人位の人手伝うからって。電話して呼んだり、北赤井地区の人みんなに味噌持って来てもらったり、梅干しや海苔もらったりして米はいくらでもあっから。五升釜こんなおっきいのがあったんだけど、なかなかそいつ(それが)あるって使うってひらめくまで時間かかったのね。正直、動転してたんだべね。
 5日目あたりか1週間目か忘れたけど、保冷車11トン車で魚もらってくれないかと私の所に電話はいったのね。その車もいい物積んで関西だか関東だか上るのにガソリンないから痛まないうちに食べて下さいって、それが11トン車で2台だもの。すごい量なの。はんぱでないの。さつま揚げやちくわ、筋子にたらこに明太子、生魚もあって、さんまとか紅サケやありとあらゆるもの。そんなに調理できないから隣近所の人たち呼んで、持って行ってもらって、その代わり別の物で交換してもらったりして。それを北赤井地区の人達はトラック持っているから配ってもらって。野菜とかに交換してもらったりして。
未来に向けて
 私達、「劇団ころっけ」っていうのをやっていて、うちで交流会してすっごく元気のないおばあさんがいたの。旦那さん亡くして死んだようにして「さっぱり、おもしくない」って来たのね。ミュージカルして、みるみる元気になったんでねえの。最後には「あはは、おほほ」って。「なんで、あんなにおらさに来るのもいやだって言ってたのに、どこさ行ったの。その気持ち」って言ったら、「さっぱり、死にたくねえわ。楽しくて。友達もいっぱいできて」って。ミュージカル終わった次の次の日あたりうちさも来てくれて、「私うんと元気になったからミュージカル終わっても友達でいてね。」本当に元気になったんだ。そんなに元気になった人いっぱいいたのね。最初は東松島市の人ばかりじゃないんだもの、まるっきり知らない人ばかりで、でもいつの間にか仲良くなんだものね。一番感謝したのはね、高校生のお兄ちゃん、お姉ちゃん。いい子なのね。鈍いおばちゃん達に手取り足取り教えてくれるのね。何十回でも教えてくれるの。みんなさ、終わってから教えてくれるの。あら~まだまだこれ捨てたもんじゃないって思ったね。みんな素直でいい子たちばっかり。すごく感動した、あの高校生には。高校生のお母さんに会ったとき、「みんなの中で成長した」って感激してたの。みんなで感動して最後にみんなと離れるのも寂しくて泣いてたね。
 やっぱし、自分たちの被災の体験を言うセリフだから、生の声を孫なんかも聞くことができた。ここにいるとここの体験しかわからないから。赤井小学校に避難したそういう体験しかわからないし、みんなのいろんな話聞けたし。本当は東京に行って、もっとのんびりできると思ったらしいけど、もう駆け足だものね。朝早いし、夜遅いし。2ステージして1日で帰ってくるんだものね。だから孫は帰って来た日は朝から夜まで寝てたかな。疲れたんだべよ。ただ歩くとね、「なんで東松島市でして見せてくれないの?」って言われるの。1回だけ小野市民センターでやったのね。セリフとか言わないで歌ったり踊ったり。あと、日和山で1回やったのね。20~30人くらいだったんだけど、近所の人が見てて、「としゑさん、ミュージカルってすごいね。あの中にとしゑさんもいたんだっちゃ。歌も踊りもすごく良かったよ」って感激してたの。

矢本第二中学校学生
(平成24年8月2日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
小野 大輝 高校1年生 男性
 矢本第二中学校で被災(当時 中学校2年生)
 私は、卒業式の準備が終わって、さあ帰ろうって鞄を背負って階段を下り始めた時に、誰かが「揺れてる」って言って、「そんなわけないじゃん」と言っているうちに、大きくなって、2階と3階の間のところで、身動きが取れないくらいの揺れになって、そこに2~3分いました。隣に女子が2人いたんですけど、パニック状態だったので、大丈夫だよと言いつつ、自分も焦っている状態で、ずーっと天井しか見られなかったです。上が落ちてこないかとか、上の階段が落ちてこないかしか考えられなかったです。学校が壊れるだろうという感じでいました。
 3日目にやっとお父さんとおじいさんが来て、靴とか食べる物を持って来てくれて、そのまま水に浸かりながら赤井の実家に帰りました。避難していた学校で、自分が辛いと思ったのは、何も出来ないことですかね。することがない、ただ時間が過ぎていくのを待つだけで、自分に出来ることが無いというのが非常に辛くて、一日という時間の長さを実感しました。ただ起きて、ただ過ごして、ただ寝るだけというのが凄い苦痛でした。
 帰宅してから数日経って、矢本二中の片付けを手伝いに友達と1回行きました。体育館の泥を出したりしました。そうしたら体育館に隙間が出来ていて、地震と津波の凄まじさが見えました。校庭には生きた魚がいたりしました。地震の次の日は、本番(卒業式)だったので、楽器を全部1階に置いていたんです。金管楽器は金属なのでぎりぎり大丈夫でしたが、木管楽器と打楽器は全部駄目でした。
髙橋 里奈 高校1年生 女性
 矢本第二中学校で被災(当時 中学校2年生)
 次の日の卒業式のために吹奏楽部で練習があったので、それに向かう途中で、私も階段にいたんですけど、その時に地震に遭いました。地震が起きたら、まず校庭に逃げろと言われていたんですけど、どうしてかみんな上に逃げろとなって、パニック状態でした。校庭に逃げた人もいたんですけど、結構、みんな校舎に戻っていました。矢本二中には3日いました。家族に会えないのが一番不安でした。3日の間に家族が来た人は帰ったので徐々に友達が減っていって、凄く不安でした。家族に会えないとか、何も情報が無いのが凄く不安でした。いつ死んでもおかしくない状況だな、みたいな感じでした。
大柳 桃子 高校1年生 女性
 矢本第二中学校で被災(当時 中学校2年生)
 卒業式の準備をしていて、みんなが帰っていった時に、体育館のステージで、残ってもう少し作業をしようとしていたら、物凄い揺れが来て、その場で身動きが取れなくなりました。体育館にいた時に、先生が指示して、取り敢えず外へ行ったんですけど、地震が強すぎて、校庭が地割れしていて、そこから水が出てきていて、みんなパニックになって、気づいたら先生が誘導して上の教室まで行っていて、そこから避難生活が始まったんです。最初、いろんなクラスにいっぱい人がいたんですけど、段々帰っていくので、1クラスで足りてきている状況でした。家族がどこにいるのかわからないし、校庭は海のようになっているので怖かったし。トイレから自分の家が見えるんですよ、隣のおばあさんの家を見たら崩れていて心配でした。これまで学校では夏休みを楽しみにしてましたが、今回は逆でした、休みすぎて早く学校に行きたい、普通の毎日がいいと思いました。私は、少し落ち着いてから矢本二中の清掃に行きました。私はバスケ部で自分たちが毎年、中総体で着ているユニホームが全部どこへ行ったかわからなくなって、学校中探したんですけど見つからなかったので、思い出とか詰まっていたユニホームが無くなって悲しかったです。
未来に向けて
小野 大輝
 将来については、まだ決めていないですけれども、一応は、教職に就きたいなと考えています。矢本運動公園の仮設住宅の自治会長として一生懸命活動している私の祖父については、他人のために何か出来ることは凄いなと思う。自分のことよりそちらを優先してやっているので、そういうところは自分も受け継ぎたいなと思っています。震災を経験して一番感じたのは、普通にこうやって生活出来ていることが幸せだということです。何気なくやっている一つ一つがすごく恵まれているなと感じます。震災を経験しての感想を一言で言うなら、非常時に備えてほしいです。
髙橋 里奈
 将来については、ちっちゃいころから動物が大好きなので、動物の生態を研究する研究者になりたいです。震災を経験して、震災で亡くなった人も多かったし、友達も亡くなったので、その人達の分まで、ちゃんと辛いことがあっても乗り切らなくちゃいけないなと思いました。震災を経験しての感想を一言で言うなら、周りの人を大切にしようです。
大柳 桃子
 パティシエになりたいです。お菓子を作るのも見るのも好きです。食べ物がおいしいと幸せじゃないですか。食べてくれる人にそうなってほしいからです。震災のあと、外から支援してくれた人のおかげで、普通に体育祭とか文化祭がいつもどおり出来ました。出来ると思っていなかったので嬉しかったです。普通の毎日が楽しいです。震災を経験しての感想を一言で言うなら、震災を忘れないようにしようです。

安田 淳 40代 男性
 東松島市矢本第二中学校 教諭
 職場で被災
(平成24年9月14日 矢本二中にて取材)
被災体験談
 津波が来るってみんな半信半疑なんですよね。チリ沖地震とかスマトラ島の時も何メートルも来るって言っても、2センチしか来なかったとかで、まさかここまで来ることはないどろうとちょっとたかをくくっていたものですから。9メートルと言われてもそんなもんなんだろうなと思って。そしたら、「先生も危ない!」という声が聞こえたので校舎の中に向かって行ったら、海から津波が来るというより、津波が川をさかのぼり堤防が決壊し、そこから黒い波が、わあーとざあーと流れ込んできました。足の不自由な方やお年寄りの方とか何人かで校門の入口の所にいらっしゃたので、ここから逃げるのは無理だと思い「体育館に入って下さい」と体育館に入ってもらったんです。体育館にも水が入って来るので、ギャラリーに上がってもらいました。そこに55人ですね。うちの体育館は小学校サイズで古いので、窓もしっかりしたのでなく、隙間風びゅーびゅー吹いて、すごい寒かったです。みんな濡れてて、震えながら一晩、もちろん寝れないです。ギャラリーが70~80センチしかなくて細長いので横一列にみんなずらーと並んで、体育館の方を向いてました。ステージにあった暗幕とか引っ張ってちぎったんですけど、毛布代わりにした暗幕もほとんどみんなにいき渡らなくて。
 だいたい1週間から10日近くは水が引かなかったです。徐々には引いたんですけど、腰くらいまであって、黒い水なので下が見えないんですね。場所によっては浅い所もあるんでしょうけど、どこが浅いか深いかよくわからないんですよね。10日位たってようやく自衛隊の方に泥をかいで(よけて)もらって、昇降口の所まで車が横づけできました。1週間は外に出られなかったですね。救援物資は、3日目にパンの8枚切りが1食(1日分)です。次の日もこれと、バナナ3本を15人で分けるとか、みかん2個を9人で分けるとか、そんな感じでしたね。水もないので、理科室からスポイト借りてきて生徒たちに横に並んで、口を開けてもらい、ピュ、ピュって入れて1日1回それで終わり。徐々には入ってくるんですけど、結局今日入ってきたからといって、明日入ってくるという保証はないんですね。ある程度はストックを残しながら、8割くらいは出していくんですけど、要求しても全然届かないので。水没しているので自衛隊が入れないんです。近くまで来てそこからボートで運ぶんです。そのボートに量が積めないので入ってこないんです。1週間後くらいに、中学校のすぐ後ろの線路の上は水が足首ぐらいまでになったので、自衛隊の方が来て、近くの南小学校から手で物資を運ぶぞって。避難者の方と我々が一列に並んで、バケツリレーで運んで徐々に量は増えてはいったんですけど、それでも微々たる量なので・・。トラックで運んでくれれば何ぼでも(好きなだけ)食べられるんですけど。
未来に向けて
 子ども達が大きく成長したと思う点は、物がないから知恵を使って工夫しようという事が大きかったですかね。物がないのでベストな活動はできないんだけど、知恵を使えばベターなことはできるよねという話をして、なるべくベストに近づけよう、物があった時と同じような事、同じような考え方、同じような学び方、見方をしようよとやってきたので。そういう面で子ども達はたくましくはなったかなと思います。これまで部活動面で、矢本二中は(このあたりの学校の規模としては)大きい方だと思うんですけど、中総体、新人大会にしても殆ど華々しい成績っていうのはなかったんです。ところがそういうのって運動部に表れてきたりして、ここ1~2年はいっぱいカップを持って来たり、東北大会に行ったり、全国大会に行ったりが増えたりしました。体育祭を見てもらっても、感謝の気持ちを表すし、子ども達も実行委員長をはじめそういう事を言いますし、気持ちを伝えようというような表現活動だったり、頑張り方だったり。子ども達の部活動面、行事面では特に、感謝の気持ちを持ちながら地域に恩返しをしようとか、そういうのがあります。合唱コンクールなんかで、子ども達が一生懸命歌って、そこに来られていた地域の方とか保護者の方なんかが、会場から出て行かれる時に「ありがとう」と言って出ていかれるんです。こういう言葉って今までは聞いたことがなかったです。そういう所が変わったかなと思います。

渡部 恵子 50代 女性
 東松島市大曲小学校 教諭
 職場で被災
(平成24年9月27日 大曲小学校にて取材)
被災体験談
 3月11日は、赤井南小学校ではちょうど6年生が先生方との感謝の会っていうか、そういう方をお招きしてパーティーを開いてくれるっていう企画の日だったんです。長い揺れがやっとおさまって、子ども達を避難させました。体育館は避難場所になっていましたので、地域の方々も次々に避難していらっしゃり、たくさんの方が集まって来ました。しばらくして教頭が、津波が来るっていう情報を伝えてくれました。停電になって情報は入らなかったので、たぶん車のラジオか何かだったと思います。6メートルだという情報を得まして、どうしようかと。そうしましたらやはり津波が来まして、私は校庭側しか見てなかったものですから、ひたひたという感じでどんどん水が来るっていう見方しかできなかったんです。後で用務の方が、裏側の校門の方を撮影した画像を見たんですけども、南小前の道路が凄い勢いで水が上がってきていたみたいです。
 真っ暗だったので、理科室から実験用のろうそく、マッチ、乾電池などを持ってきて、ろうそくで一晩過ごしました。多目的ホールの方からは石巻の方が赤くなって燃えているのが見えて、石巻地区に住んでいる先生方もいたので、みなさんご自宅はどうなっているか心配なさっていましたね。ただ寒かったです。学童の小さい子達には、子ども達の運動着だったり、2階にあるのを全部持ってきて、かぶせて暗幕も全部はずして寝かせてあげて。子ども達はもう疲れたみたいで、一晩ぐっすり眠っていたみたいです。大人たちは、イスに座ったままで過ごしていました。この時くらい夜明けが待ち遠しかった事はなくて、夜が明けて、ちょっとほっとしたかなという感じでしたね。でも、携帯ももちろん繋がらなかったので、いったいどうなっているんだろうと思っていました。ラジオが聞こえたんですよね、朝方のラジオで、名取の浜、荒浜で200人位のご遺体がって聞いてみんなびっくりしたんですね。何でそうなったんだろう、何が起きたんだろうって。ひたひたと水が上がって来たのは拝見していますけど、遺体がそんなに上がるくらいの津波が来てるとは、その時は全然思いませんでした。
未来に向けて
 子ども達は学校があるという事が支え。支えって言ったら変ですが、学校での普通の生活がね。大曲小学校は一階は使えなかったんですが、クラスは全部無事だったんですよ。2階に自分達の教室があるので、学校で友達と会って普通に勉強するって事がすごく子ども達の心の中としては良かったのではないかという気がします。普通の事ができる。かなり普通でないんですけども、友達がいて、先生がいて勉強をしているっていう生活が実は子ども達の心の健康を保つのに、すごく良かったのではと思います。帰れば仮設だ何だって今までとは違う、すごく違う状況にいるのに、学校に来ればあまり変わらない友達がいて、先生がいて。ただもちろんいるはずの友達がいないって状況もあって、その辺は大変だったと思うんですけど、子ども達は健気でしたね。そういう意味では。逆に明るかったかな、っていう気はします。学校が始まるのを待っていたと思いますね。

斎藤 英彦 40代 男性
 農家/東松島市消防団員/東松島市教育委員
 涌谷町の国道を車で帰宅中に被災
(平成24年10月31日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 大震災の発生時は、仕事の関係で美里町から自宅に戻る途中の涌谷町の国道108号線で車を運転中でした。急いで自宅に戻ったところ、家族は無事でした。私の地区は、上区(じょうく)の地区センターが避難所になっていて、私は消防団員でもありますので、すぐそこに駆け付けました。お年寄りを中心に地域の方々が集まり始めていまして、主だった方々が発電機や暖房、照明などを用意してくれましたので、夕方までには避難所としての機能を果たしておりました。消防団員が数名集まったんですけれども、防災無線とラジオの情報しか入ってこないという状況でした。反省すべきところは、団員の何名かを市役所に派遣して、じかに情報を聞けばよかったと思っております。
 午後4時ごろ、川の水が急激に引いて、津波の第1波と一緒に定川の河口の方から小型の漁船がかなりの数さかのぼって来ました。これは、えらいことになっていると、もし定川が切れるようなことがあれば、大塩や広渕の新田(石巻市)が多少高くなっていますので、そっちに誘導しようかなどの話をしながら、一晩中、川の警戒をしました。津波は、何波か押し寄せてきて、上区は、あと50センチぐらいで堤防を越えそうだったんですけれども、後で聞くと定川の河口の方の柳区で堤防が決壊したとのことで、こちらには大きな津波が来ませんでした。消防団員は、午前2時か3時に自宅に一旦戻り、休んで翌朝またということで自宅に帰りました。
 翌日になっても正確な情報が入ってこないので、上からの指示により2日目の午後から、消防団としては大曲地区の捜索活動に入りました。大曲市民センターの西側から矢本運動公園前、ウッディゴルフ練習所の付近まで捜索活動をしました。それから1週間連続の捜索でした。その後は、消防団員はそれぞれ仕事を持っていまして、会社から出社命令が出ていましたので、参加できる消防団員と交代しながら、3月末まで捜索活動をしました。
 捜索活動の中身は、ご遺体の収容なので、最初は精神的にかなりつらい面もありました。ご遺体を市の体育館にお運びして、行方不明のご家族の方々は、そこで市の職員に安否をいろいろ尋ねているわけですね。我々に対しては、頭を下げていただいたり、手を合わせていただいたりしていましたので、自分たちがやらないと、ということで、行方不明になられている方々、ご遺体ですけれども、一日も早く家族の元へ返してあげたいという思いで捜索活動を続けました。最初にご遺体を発見したのは、大曲地区で40代の女性の方だったんですけれども、その人の人生を考えてしまうんですね、私と年齢が同じぐらいなので。例えば、子どもさんを迎えに行こうとして犠牲になったのかな、家族いただろうな、いろんなことを考えるとどうしても涙が流れましたね。現場では、寒いところにご遺体がたくさんありましたので、早くあたたかいところに、遺族のところにという思いで活動しました。泥が堆積していますので、棒で探すことについては、ご遺体でなくても、衣服があれば感触で分かる場合があると、棒が刺さらなくなるということなんです。それで泥をよけたときに、ただの服だったりしたことはたくさんありました。
未来に向けて
 子どもたちの震災後の将来の夢で、自衛隊とか消防署員とか警察とか、とにかく人の役に立ちたいという夢を語る子が多くなりましたよね。その気持ちは非常にうれしいですね。矢本二中の体育祭や文化祭に行っても、実行委員長の生徒会長が「地域に元気と勇気を届けたい」自分たちが一生懸命やることによって地域を元気にしたいと言うんですね。そういう姿を見ると非常にうれしくなりますね。子どもたちへの将来のことでは、社会ではいろんな仕事があってはじめてうまく回っていると思うんです。ですから直接的に人のためになっていなくても、それぞれの仕事というのは意味があると思うんです。音楽を目指したいという子も音楽を通じて人の心を癒したりとかできますので、どんな夢でもいいから自分の好きなことをとことん、諦めないでやってほしいなと思います。
 震災後の子どもたちのケアについては、今回のような大きな試練があって、子どもたちにはたくましくなってほしいし、精神的にも強くなってほしい。そのうえで、思いやりとかやさしさというのは忘れないでほしいと思います。私自身は、親戚を亡くしていますけれども、家族は亡くしていませんので、その人の気持ちを推し量るのは、なかなかできないんですけれども。子どもたちの中には、道をはずすような行動が見られますが、震災で同年代の子どもたちがもっとたくさんやりたいこと、楽しいことがたくさんあったはずなのに、突然命を落したと、そういう人たちの分まで生きなくちゃいけない。生かされた意味を考えて、生きてほしい、忘れないでほしいと思います。

那須野 康浩  50代 男性
 写真店経営
 赤井店舗で被災
(平成24年2月20日  ナスノ写真店にて取材)
被災体験談
 当日は店の中で作業をしていました。最初、ゆれが強くきて1回収まったかと思ったが、いろんな物が落ちる音とか倒れる音とかすごくて、私は機械とパーテーションの間に挟まって動けなくなった状態で、「あれ、どうすっかなあ」って感じでした。いろんな物が山積みになってぐちゃぐちゃで。。
 自宅に帰ったら、地域の人が公園の辺りに出ていて、ああでもないこうでもないと言っていたような状況でした。自宅には母が、たまたまいて良かったですけどね。針岡(石巻市)っていう所に友達がいて行く予定だったのが、行かないことになったのが不幸中の幸いでしたね。家の中はいろんな物が散乱していて、家具はその時は倒れてはいなかったですね。後から水が入ってきて家具が浮いて倒れた状態だったんですよ。台所も冷蔵庫なんか移動していたけれど、倒れてはいなかったです。
 家には母と近所のお婆さんがいたんで、説得して一緒に連れて行きました。矢本二中迄まで行ったらものすごい人だったんですけど、最初は体育館の方に先生方が誘導していたのかな。とりあえず「後で来るから」と母とその方を残して、私は何か必要な物があるかもしれないから、って家に戻ったんです。
 その途中、家の手前で津波が来ました。周りを津波に囲まれて、そこにいた30代位の女性のアパートの二階の踊り場に、逃げるように上がったんです。もう少しで家だったんですけど、たどり着けなかったんですね。その女性はいったん矢本二中に避難したけど、人の波に酔って、具合が悪くなって帰ってきてそこにいたらしいです。その時は足元にヒタヒタ水が来ていて、アスファルトの道路の上を小さい波が立ちながらばあーっときて、そこからぐーっと上がってきました。そこからは、流れが速い状態でしたね。そこの踊り場から「あー、水が来たな」と見ていると、物が流れてきたり、遠くの方を見ると自転車で立ち往生している学生さんがいたりしたので、呼びました。学生さんはすぐ近くの人で、最初は女の人、学生さん、私の3人でいました。
 ちょっと小高い所なんだけど、車の屋根の上で人が震えているので、「大丈夫か?」と聞くと「大丈夫ですけど」ってフードかぶって荷物持っていて。でも津波の波が何回も来たり収まったりの繰り返しだったのね。何かの話で津波は3~4回は収まって、又来るって聞いてたんで。3回目の流れが一番水位が高かったので、それが弱くなったんで「今のうちだから、こっち来い」って来てもらいました。電気も何もなかったので、サラダ油のランプをつけて、ぬれながらアパートの踊り場で朝まで4人で過ごしました。
 何とかかんとか矢本二中までは行きました。武道館の前には船がありました。前の夜に船が道路を走って行ったのを見たやつが、まさかあるとは思わなかったので驚きました。ドアが重くて入るのが大変でした。1階は2メートル位の水位でした。2階に行ったら家の近所のお爺さんがいて、「お母さん3階の音楽室にいたから」と言われ、3階に行って顔出して、着替えました。
 それから2階の先生方がいる対策本部に行って登録して、その日の記憶はあまりなくて、寒かったっていうのだけ覚えています。先生方がすべての教室からカーテンを取ってきて、それをある程度の長さに切って3人で1枚ずつって渡してくれたんです。毛布も何もなかったんです。後から来ましたけど。電気も発電機もなかったです。発電機は次の次の日には来たかな?
先生方が対策本部を立ち上げて、各教室から代表を選んでっていうのは次の日あたりじゃなかったかな?無線もないんで。確か先生の一人が赤井市民センターまで歩いて行ったらしいですね。そうして無線を借りて来たんじゃなかったかな?どっかから船を借りて。その辺は私もよくわからないんだけど・・・
母親は水が引いてからは帰ることになったんですけど、私は先生方から本部長をお願いしますと頼まれ、先生方は卒業式の準備で、卒業証書がぬれたんで干したり、いろんな作業があるので。地元の人に引き継ぐってことで。区長さんとかいたんだけど、できなかったようで、私は写真屋だからフリーだし。先生方といろいろやっていたもんで、お願いされたんですね。
その後、1週間後位から4月の中頃、授業が始まるまで学校にいましたね。
感謝のメッセージ
 震災の経験があって変わったことは、月並みにはなりますが、生かされたわけだからとにかく頑張らなきゃならないなと思います。
 友達に感謝ですよ。この店も、飛行機関係の友達とかが一緒にやってくれたから、何とかかんとか、泥とかそういうのはなくなったんで。それはそれで感謝しなきゃならないです。何だかんだ言っても、地域の人と一緒にならないと難しい、ってことですよね。あそこ(避難所)で一緒に生活していた人が、お客さんで来てたりしますからね。娘さん成人式だって、今回撮りましたからね。そういうつながりができましたね。
未来に向けて
 水が引いたころ、3月20日頃に飛行機関連のお客さん兼友だちが桃生から来てくれたんです。その前に電話があって、「何か欲しいものないか?」って。「煙草とカメラ貸してくれないか?」って頼んだんです。あの日、私のカメラは、椅子に置いていたので水に浸かっちゃって。カメラを持ってきてもらって、次の日、朝早く6時に起きて、長靴を履いて歩いて、ブルーインパルスの格納庫が見えるあたりまで行ったんですよ。大曲の橋を越えて行きましたけど、もう声が出なかったですね。そこの定川の橋を渡って行くと、だんだん車がぐちゃぐちゃになっているわけじゃないですか。大曲小学校を抜けて行くと、途中、水があって、車が重なっている。ずっと行って、大曲の町並みが消えて、田んぼ両脇で大曲浜に行く長い直線あるでしょ。もうそこはアスファルトがはがれたり。水は長靴ぎりぎりだったし、少し待っていたら潮がちょうど引けてきたんです。あそこで潮の満ち引きが見られたんですからね。すごいですよね。あっちは堤防が3か所、決壊していましたからね。家がいっぱい、何で田んぼのここに(中に)家があるの?って。2階の家があるんですよ。声は出ないわ。ただね、職業柄もそうだけど、撮んなきゃなあ、記録に残さなきゃなという思いで撮っていましたよ。
奥田 あゆみ 40代 女性
 奥田理髪店仮設店舗(矢本運動公園)経営
 東松島市大曲浜にて被災
(平成24年6月1日  奥田理髪店にて取材)
被災体験談
 3月11日の震災の日は、たまたま老人ホームへの出張が入っていました。五味倉の施設なのですが、ちょうど二人目が終わったところで地震がきました。津波が来るという情報を聞いたのですが、まさか本当に津波が来るとは思わなかったので、そこから私は大曲浜に戻ってしまいました。家に着いたら玄関が閉まっていて、「ああ逃げなきゃない」と思いました。車は大曲小学校に向かう車が渋滞していました。そのため友達のうちに向かいました。友達の家は「八千代寿司(大曲字堺堀)のところを入ってくると、オレンジ色のアパートでした。「ここには津波来ないよねえ」と言うと、友達は「ここには来ないから」と。
 ところがすぐさま、隣のおばあちゃんが走ってきてドアをたたき、「あんだだぢ、津波きたからこっちに来て」と言われました。外に出たとたん、水がザーッと迫ってきました。おばあちゃんの家に入ってそこは2世帯住宅なんだけど家の中に二階に上がる階段がないんです。そのとき水がサッシの上まで上がってきました。そしたら玄関とトイレから水が入ってきて、それからは一気に入ってきました。畳が浮いて天井にすがっていた状態でした。私は「もうだめだ。体力を消耗するから、とにかくここから逃げよう」と言って、外を見ると目の前に木があり、80歳くらいのおばあちゃんが泳いで高い木につかまり、その後、友達が物置まで泳いで屋根の上に上がりました。友達が私にも「こっちに来て」というけれど、目の前をいろんな物が流されていくのを見ているととても怖くて、泳げないでいました。さらに窓に足をかけて迷っていると、友達が「そこにいると危ないから、後ろに回るとアパートの二階に上がる階段あるから」と言うので、思い切って水に入りました。真っ黒い水で足元は全然見えないのだけど、恐る恐る足を入れるとなんとなく足がついたんです。靴も脱いで水に入って階段の柵をよじ登り、何とか二階に上がりました。上がれたのはいいものの上の階には三世帯あったので呼び鈴を鳴らしたけど、どこも人はいませんでした。とにかく寒くて靴下の水を絞ってまたはいて、しばっていた髪もほどいて、いくら足をさすっても揉んでも体温は戻ってこなくて、身体はどんどん冷えるし、三人で「もうだめだ」と震えていました。
 どうしようと思っていたら、向こうに夫婦で避難し、二階から何度も下を眺め、水の様子を確かめる人がいました。私たちのほうを見て、気づいていたものの、どうしようもないと思っていたんだと思います。でも、だんなさんのほうが見かねて水に入ってくれたらしく、奥さんに向かって「大丈夫だ、胸までだ」と話していました。そしたら奥さんが「うちに来てー」と言ってくれたんです。そしてだんなさんが私たち一人一人を誘導してくれて、私も暗かったんだけど、また水に入って、そのだんなさんについて行きました。家に入ると一階はすでに浸水していました。でも囲いの中にあるということはすごくあったかくて、みんなで「ああ 助かった」と喜びました。
 次の朝、ここにいても情報も入ってこないし、ということで、替えの靴下とバスタオルだけ持って、靴もないので裸足のまま、大曲小学校まで歩いて移動しました。水は引いていたけど、泥だらけで歩くのは大変でした。
 その後、だんなさんとは3日目に大曲小学校で再会。だんなさんは既に奥さんの車を発見していた。それまでは75パーセント位はもう生きてないと思っていたが、他の車の上に乗り上げているし、ここまで来ていたなら助かっていると思ったそうです。
感謝のメッセージ
 大曲小学校から出た後はいとこの家に1ヶ月ほどお世話になりました。その後、矢本運動公園の仮設に移りました。今回の津波の教訓としては、やはり津波てんでんこ。自分の命は自分で守ること。とにかく逃げること。海から少しでも離れること。
 あの時、「助かった」と思ったとき、命さえあれば何もいらないと本気で思いました。 助けていただいた命なので、助かったときのあの気持ちを忘れることなく生きていきたいと思います。街が震災から一日も早く立ち直ればと思います。この震災で気づかされたことはいっぱいありました。震災が私たちに大事なメッセージをくれたように思います。そのことを忘れずに生活していきます。
未来に向けて
 店にあったものはすべて流されましたが、あの日、出張に行ったことで車には道具一式が入っていました。車をこじ開け、道具を取り出しました。一時は店も流されたし、この仕事をやめることも考えました。でも、周りの人には「床屋の道具が残ったということは床屋を続けろということだ」と言われ、やっぱり続けることにしました。
 お客さんは徐々に戻ってきています。仮設の人も知っている人は来てくれます。避難していた頃は仕事がないことが不安でした。二人でこうしているわけには行かないと思い、仕事を探しました。今は渡波の床屋さんに週3回から4回ほど通っています。

相澤 良太 30代 男性
 勤務中、移動中の車内(石巻市蛇田)で被災。その後大曲に戻る。
(平成24年6月16日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 あの時間はちょうど蛇田にあるラジオ石巻の前で、自分の会社の作業員と車に乗っていました。これはやばいなと思い、渋滞を避けて狭い道を通って会社に帰ったんです。従業員3人に1台のバスを預けて私は会社の車で大曲浜方面にとばして向かいました。大曲浜方面に行って45号線を突っ切って、重吉工業って会社があるんですけれど、そこにたどり着いたら橋が落ちていたもので、車が行けませんでした。それでちょっとしたブロックの隙間を渡って、大曲浜の方へ走ったんです。浜の橋を渡った、その時に、飛行機が飛んでいないのに、ゴーというジェット機のような音がしたのです。航空自衛隊が近いため飛行機の音はわかっていたので、飛行機が飛んでいないのにと思っていたら、ゴーンやバキバキという木が折れる音がしたので、これは津波だと思い、家の300m近くまで行ったのですけど駄目で、大曲小学校に向けて全力疾走で走って、そこも渋滞していて、みんなわかっていなかったようなので、ジェスチャーで津波が来るから逃げろと合図したら、片側だけ渋滞していたのが、対向車路線も大渋滞して、ちょうどそこに同級生が車でいるところ見つけたので、車に乗せてもらい、反対車線をぶっちぎって走ったんです
 大曲小から大曲浜までの真中の田んぼのあたりで、女房と子どもが乗っている車を見つけたので、同級生にここで降りるからまた学校でねと言って別れて、(家族が乗っている車の)運転席を開けて乗った瞬間に、波が押し寄せてきました。私の豆知識で、とりあえず車から降りたら家族が離ればれになるになるし、水圧がかかると窓が開かなくなると思って全部窓を開けて、あとはなすがまま、波にグルグル回されて、最初に津波が来たところから7~800mくらい、大曲の横沼の西田という地区まで流されて。運良く、車がひっくり返されず回ったもので良かったのですけれど、そこにどこかの平屋の家が屋根ごと流されていて、それが木にぶつかっていて、木のところに屋根があって、そこに車がうまく斜めに刺さって止まったのです。止まっている間に車に水がどんどん入ってくるので、とりあえずボンネットに子どもを乗せて、次に女房を乗せて、そうしている間に向かいの大きな木に50歳くらい旦那さんと20歳くらいのお兄ちゃんが2人で居て、そこまでは車から3~4mくらいの距離で、子どもだけでも助けてくれと言ったのです。その旦那さんが木と車の間にある屋根の上を伝って、子どもを受け取ってくれたのです。そのあと女房を先に行かせて、私もボンネットに上がり、滑り降りながら屋根まで行って、木に5人で居たのです。
 その最中に飛行機が飛んでいたのです。2~3回くらい飛んでいました。その時に、私たちは木に居たのですが、周りの民家の屋根の2階からおばさんと娘、年寄りとかの声が聞こえてくるのです。気が付いたのが3時50分くらい、そこから雪が降る中、みんなで声を交わして「助けてくれ」と言っていて、そのうちに「頑張れよ」とか「もう少しで助けがくるから」と1時間に1回くらいのペースで声を出して励まし合っていたのです。みんな死にたくないし、1kmも離れないくらい近くに自衛隊があるので、大丈夫だと。発炎筒・ライターもあったのですが、プロパンガスが回りにあったので、ガスが空気に流出していると爆発するから、火は使えず。だんだん夜中になってくると声も少なくなってくるのですよ。最後は呻き声とか…。その後も同じ場所に居続けて、朝の5時半、日が明けるまでなんとか耐えたのです。
未来に向けて
 私の仕事は建設業なので、震災後はやはり被災地に行くのです。気仙沼や南三陸、南浜町の日本製紙の工場にも行くのですけれど、よく田老地区に津波が何mとか取り上げられますが、それは津波に飲まれていない人が傍から見て言うことであって、飲まれた人にとってはどこも同じだと思うのです。全部が結局、酷かったのです。被害が緩くて大丈夫だろ、というところはないと思うのです。私も被災したので、その場所を通ると思い出すことはあります。一番印象に残ったのは、私が助けられた大きな木。わきに広い木でした。周りの木は伐採されましたが、その木は一般の家の敷地にあるので、残っているのです。それを見るたび、あの木があって良かったと思うのです。私が生きている間はあると思うのです。これからの夢というか希望は、小さい頃から大曲浜で育ってきたもので、引越しをしたくないということです。どうしても矢本に住みたいのです。大曲浜が酷い状態になったので、大曲浜に住むことは望みませんが、新しい土地で暮らすために今頑張っているので、家を建てて家族5人で健康に、普通に幸せに暮らしていければよいと思っています。

「のり工房矢本」のみなさん
(平成24年6月19日  のり工房矢本にて取材)
被災体験談
津田 清美 
 のり工房矢本代表
 大塩市民センターで被災
 震災当日は、私と妹と、あと二人の人に手伝ってもらって、加工の仕事をしていました。大きな揺れがあって、機械が扇のように波打って揺れたので、とりあえずブレーカーを落として逃げようということになりました。機械はだいぶ熱を持っているので焼けるかもしれないけど、ここなら畑の真ん中だしということで、揺れがおさまるのを待って逃げました。
 私は、嫁の実家が須江(石巻市)だったので、子どもたちと一緒にそちらに逃げました。 逃げる時も絶対に川沿いを走らないようにしようと、田んぼの中を走って、赤井のほうを抜けて須江(石巻市)に行きました。そのときはまだ車は混んでいませんでした。途中、電線が切れてトラックが止まっていたり、コンビニも電気が消え、買い物ができないような状態でした。
いつまでも嫁の実家にお世話になるわけにもいかないので、妹とその下の妹の家族と総勢12人で実家の田尻に行きました。実家は父親一人なんで、そこに12人で行ってもお世話できないので、避難所を探したら、すぐ近くにあったので、そちらに移りました。
本田 千佳子  
 私の家は赤井の川前で、赤井地区体育館の近くです。とりあえず逃げなくちゃと思いました。結婚している娘がいるので、娘に「津波が来るようだから、いつものところ(鷹来の森)に逃げるよ」と携帯で連絡しました。鷹来の森の駐車場に行っても、避難してくる人は少なく、車10台くらいでした。娘がなかなか来なくて、孫も一緒だったので心配でした。娘は、大曲から鷹来に向かいました。娘が来るまでは、30分ぐらいかかったでしょうか。心配と私自身も心細いのと両方でした。その頃には、駐車場もいっぱいになっていました。
 その後、私はジプシーのような生活をしてました。私は集会所に移動したものの、寝たのは友達のうちだったり、甥っ子のうちだったりで、布団に寝かせてもらえたんです。その点では幸せだったかと思います。毛布が足りない状況とか、お年寄りが、ブルーシートを敷いてるとはいえ、地べたのごつごつしたところに寝ていて。そこにいるのがつらいというか。日にちを重ねるごとにいろいろなものが入ってくるようになりましたが。
雫石 まき 
  わたしはその時、のり掛けをしてました。乾燥庫の中で。音はすごいし、機械は倒れるし、これは危ないと思い、スイッチを切りました。食べるものや毛布だの大きい車に積んで、孫たちも乗せて車を出しました。孫は4年生と1年生と9ヶ月の3人です。でも、新しくできた橋が車ですごく混んでいて、特に大曲小学校にいく方がすごく混んでたけど、自衛隊に行くほうは全然車通ってなかったの。小学校に行くほうは満杯で車がつながっていたけど、脇道を通って田んぼの中を走っていったの。誰も通ってなかったの。そこから内康の脇を通って、小松に姉がいるので、そっちに行きました。地震からすぐでした。後ろの川の水がすっかりなくなっていたからね。それを見て、お父さんが「これでわがんない。(これでは、駄目だ)すぐ津波来る。」って言いました。藤野整形(矢本字大溜)あたりまで行ったら息子が来て、自衛隊なのですが、その時で自衛隊の2階まで水が来てたって言っていました。本当に危機一髪でした。もう浜のほうは何もないよって言われました。
 姉の家に3週間お世話になって、さらにおばあさんのところに(矢本だったんですけど、水は床下だったんで)3週間お世話になったんです。それから息子のアパートをすぐ片付けてもらって、そこに1ヶ月半ばかりいました。あと仮設(運動公園)があたったので、6月5日にそちらに移りました。
平塚 和子 
 私は実家でのりの手伝いをしてました。姉といたんですけど、ほんとにあの時は腰が抜けたようになって、立とうと思うんだけど立てなくて、ちょうど機械屋さんがいたのでなんとか押さえてもらって収まって、外に出たらのりのタンクからのりがみんな出ていたんです。それでもすぐ避難しなきゃということで出たんですけど、自衛隊の前を通って、大曲小学校が避難場所になっているので、学校に向かったんですよ。
 「津波が来た」というので、校舎の1階はだめだから2階へ3階へ、結局屋上まで逃げました。その晩は学校にいました。2階だったかな、教室に入らせてもらって。カーテンをはずして床にひくにしても寒いですよね。そうしたら先生が「画用紙があります」と言って床に画用紙を敷いてくれました。画用紙1枚2枚でもだいぶ違いましたね。 義兄は大丈夫でしたが、姉はだめでした。その後、2ヵ月弱で工業港のところで遺体が上がりました。姉がいなくなったのがとてもショックでしたし。年が離れた姉で、母親みたいなところがあったので。
 今は仮設みなし住宅の貸家にいます。矢本の蜂谷浦です。
感謝のメッセージ
津田 清美 
 のりが手に入るんだったらこの機械がほしいと思い、九州のメーカーに作ってもらうよう、お願いに行きました。そうすると、次はその機械を入れる場所がほしいなあと。世の中も落ち着いてきたし。でも、まだ店舗として復活していないところもいっぱいあったから、もしかして、もう店をやらないというところもあるかもしれないし、まちんどの店長さんに、商店街にあき店舗があったら教えてくださいねってお願いしていました。
 そういうことなら、市に掛け合ってあげるからという人がいて、ここを借りることができたんです。妹が言うように、何もなかったらそういう人の好意とか受けることがなかったけど、震災をきっかけに、いろいろな人にお世話になって、自分たちがこういうふうになればいいなと相談すると、「だったら手伝うよ」とか「私がやってあげるよ」という人が出てきてくれて。
 こんなふうにやってるけど、「みんなに払える給料を出せるかどうかわかんないよ」「いつ休業になるかわかんないよ」なんて言いながら、みんなの笑顔に支えられながら、頑張ってやっています。このみなさんが、のり工房のメインキャラクターですから。ここに来て集まっていると、みんな笑って仕事ができるので。早く地元で仕事ができるようになりたいです。
平塚 和子 
 津田さんが一生懸命やっているのが見えるので、私たちも微力ながら頑張って応援しなくちゃいけないかなと思っています。私は誘われて、ここにいるうちは仕事をするので、いろんなことを忘れることがて、よかったなって思うんです。
 ここに入れてもらったんで、何とか頑張って盛り上げていければと。働くには笑ってやらないと。黙ってやるのも仕事でしょうが、笑ってやれば仕事も進むから、バカ言って笑わせています。
感謝のメッセージ
津田 清美 
 最初の頃は、亡くなった人があまりに多くて、会うと笑うっていうより泣くことだけだったんです。これじゃあ亡くなった友達に申し訳ないと。とても元気な人ばかり亡くなったものですから。泣いてめそめそしてるのは絶対喜ばないなって。いつでも活を入れられながらやってんだっていう気持ちでやろうねって。
 いっぱい儲けて大きいビルを建てるなんて全然思ってなくて、みんなで亡くなった人に、「ほら、わたしたちこんなに頑張って楽しかったんだ」ってあっちに行って自慢できるように、って思っています。  

池田 なが子 60代 女性
 石巻市で被災、その後矢本地区の会社に戻り津波を目撃する
(平成24年6月19日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 集金の帰りに友達の家に車が止まってあったので、お邪魔してお茶を飲もうとしたときに地震がありました。びっくりして、靴を持ちながら裸足で逃げ出し、家を建てるためにコンクリートで固められた、何もない場所に避難しました。その後の揺れがきたときは地面に這いつくばって耐えました。揺れが収まった頃、友達に危ないからここから動くなと制止されたのですが、車で会社に向かいました。
 会社に着いたときはみんなが外に出ていました。無事でよかった、早く会社に入れと言われ、専務が鹿妻から津波がくると言っていました。そして駐車場に着いた途端、国道の仙台方面から川のように水が流れてきました。津波にのまれましたが、車は浮き上がるほどではなくタイヤがすっぽり入るくらいの水かさで、私は膝下までぬれました。私は鹿妻ではなく大曲浜の津波がきたのだと思いました。そこで商工会のほうを見に行ってみると、大江酒屋の方向はあまりぬれていませんでした。
 会社に戻ると倉庫では社員の人たちが納品する品物をとにかく棚の上にあげていました。私は竹ボウキを使って入ってくる水を急いでかき出しました。倉庫の水をはきだし終わった頃、南側のいしがき金物屋の間から、初めて大曲浜の津波がバケツで水をまくような、ざぁーというかんじで、ゆっくり流れてきました。その時ここまでくるなら、大曲浜にあった自宅は、畳くらいまで浸水しているかもしれないとぼんやり思っていました。
 店を訪ねてきた方には「池田さん、大曲浜全滅だって。人もずいぶん駄目になったてよ。」と言われましたが、私は何を言われているのかわかりませんでした。まさか大曲浜が、岩手の釜石などのようなひどい状況になっているとは思わなかったのです。となり近所の人や兄が亡くなったことがわかったのは2日後でした。
感謝のメッセージ
 当時、私は兄さんも死んで、妹も石巻にいたので助からないと思っていたので、10日くらいで白髪も増えて体重も65キロまで減りました。それでも役所の人たちに一生懸命やってもらい、とても助かりました。(震災は)誰のせいでもないし、今は仮設に住んでいるんですが、(必要な物をみな)あてがってもらい感謝しています。もし文句がある人は、自分やってください、自分で土地を探して家を建ててくださいということ、それもできることではないので、政府に感謝、それを代行している役所はもっとありがとう、いつもそう思っているんです。

小野 竹一 60代 男性
 飯野川で被災
(平成24年6月20日  矢本運動公園 仮設住宅東集会所にて取材)
被災体験談
 地震が起きた時は飯野川の町の中で、むかし百貨店に勤めていた時代のお客さんとお茶飲みをしていました。車のラジオですぐに津波警報が出て、戻っては駄目だと思いました。
 すぐに三陸自動車道に乗りました。石巻港インターチェンジで降りたのですが、青果市場から工業港の間が渋滞で動けませんでした。工業港に向かうことはできなかったので、左に曲がって須江(石巻市)へ、運動公園の手前のローソンをまた左に曲がって、赤井小学校に向かいました。
 嫁さんは地震があった時、普通の揺れではないし、床下でも水の音がしていたので、大きい津波がくると直感したそうです。地震が起きてから5分で出発したので、大曲小学校のところまでは渋滞もなくスムーズに行けたそうです。でも、嫁さんは二中の孫も迎えにいこうと思っていて、三浦食堂の方に出ると、信号機が駄目になっていて、そこからすごく時間がかかったそうです。その後二中で嫁さん・女房・孫2人の4人が合流して、車で逃げようとしたそうですが、渋滞だし、津波がきているという話があったので、中学校の2階に避難して、助かったそうです。  
未来に向けて
 最初は、隣近所の人に「おはよう」と声をかけても返事が返ってこなくて、事情は色々あると思うんで、わかるんです。私の家は全員無事だったから良かったんですが、そうじゃない、心に大きな傷を抱えている人も仮設には集まってきているんですよ。これでは駄目だ、みんなが笑えるようになるにはどうすればいいのかと思い、12月の初めにクリスマスパーティーをやりました。
 4月にはお花見会をしようということになって、桜がある児童公園で4月11日にやったんです。でも、ただお花見に出てくるだけではなく、何か記憶に残るものにしたかったので、ギネス挑戦を考えたんですよ。120何人で腕を組んで座って、一斉に立ち上がるという種目とかえるのうたを225人のリレーでつなぐ、15人で並んで、1つの歌をパーツごとに歌っていく。かえるのうたが・聞こえてくるよ・げろ、というように、そのリレーを次々と、途切れずやっていけばギネスになる種目だったんです。ここの住民だけで600人以上は出てきていたと思います。これで元気をとり戻して、失敗したけれど、俺もギネスに参加したという気持ちになってもらえれば。みんなが笑顔になることが、私の役目だと思っていますから。
 7月中旬、まだ日にちは決まってないですけれど、北海道からコンテナで4つ、雪を持ってきてもらい、雪だるまを作り、8月11日には公園でカラオケとバーベーキュー大会、8月18日は青森からねぶたにきてもらって夏祭りをします。ねぶたに関しては、運動公園の仮設住宅だけの夏祭りにしたくないということで、仮設から関の内側の道路を通って、ウッディゴルフ場の前までの空き地で開催して、できれば全市民の人たちに知ってもらい、大勢の人たちに見てもらえる、ねぶたの夏祭りしようと思っています。今、色んな方面の人たちと交渉しています。
 8月25日には、市の商工会の元気フェスタに、年1回、上海公演をしている横浜の合唱団が来てくれることになったんです。それでこちらも合唱団の人たちに、郷土芸能のはねこ踊りと大曲地区の童謡会も一緒に歌ってもらうことになって、その後は夜店を見てもらう、という企画を考えているんです。

大曲市民センタースタッフ
(平成24年6月21日 大曲市民センターにて取材)
被災体験談
阿部 礼哉 60代 男性 
 大曲市民センター所長
 当日、市民センター職員4名はここに勤務していました。2時46分に地震が発生し、これは大変だが、大きな津波が来るということは想定してなかったので、職員は片づけをしていました。玄関の上にある表彰状の額縁が倒れ、そのガラスの破片を片づけをしているうちに、浜の方々中心に避難してきました。我々は防災無線も聞こえず、津波の警報が鳴ったのも聞いてなかったので、避難している人の「津波が来る」という大きな声で、津波が来たのが初めてわかりました。職員は、あの頃は完全にパニックになっていて、口の中は乾くし、足はガタガタ震えているのが自分でわかりました。目の前でどんどん津波が高くなっていき、そのうちに丸太が流れて来ました。丸太が玄関の右側のドアにぶつかって、ガラスが割れてかなりの水が入って来ました。
 その段階でもう駄目だってことで、私も逃げました。ホールのステージの上に40人くらいの方々がいました。感心したのは、若い方々が3~4人で、ステージの上に全部机を上げてくれて、それを2段に重ねてくれたんです。その2段の机の上に40人くらいの方々が乗って、私もあわてて逃げたらその段階ではすでにホールの中に水が入ってきて、水が中でうずを巻いてました。真っすぐ進めず、あっちに行ったりこっちに行ったり、ようやくステージにたどり着いて手を引いてもらって私も上がりました。その時は第1波で、やはり一番高かったと思います。約1メートル80センチありました。第1波が襲来したのが、15時50分。だから、ちょうど地震が来てから1時間位です。津波が押し寄せた段階で、前の道路に数珠つなぎに車がずっと渋滞して、津波が来てその車がどんどん流され、駐車場に20~30台あった車もすっかりなくなりました。
 そういうのを目の当たりにして、あの時は何も考えられなかった。そして避難して、ステージの上で次の日の朝までいました。一番大変だったのは寒さ対策です。灯がないのは仕方ないのですが。寒さでみんな震えて、お互いに体を寄せ合って、お互いにみんなで体を動かしましょうということぐらいしかできないわけです。事務員の藤原さんが気をきかせて、調理場にあるゴミ袋を持ってきてかぶったのです。そういう機転をきかせてくれたんですね。それだけでも、私なんか助かりました。初めての体験だし、恐怖感におそわれて、40人くらいいましたが、会話なんてなかったです。じっとだまって、寒いし、けっこうな重さがかかるので、机が壊れて落ちたらと心配していました。
 そうやっているうちに2回3回と津波が行ったり来たり、どんどん来て7回か8回くらい来ました。朝方になって5時過ぎに消防団が来てくれて、ゴムボートを1艘持ってきてくれたので、車いすの方とあとから入って来た女の人と、赤ちゃんを抱えている人の3人を優先的にボート乗せて行ってもらいました。あとの人は朝方になって見えるようになったので相当の水かさはありましたが、みんなで歩き、小学校の2階に避難しました。その間、ここから歩いていく途中に私は亡くなっている方を2人見ました。流された車のボンネットの上にうつぶせになって、亡くなっていました。あれは、大人ではなかったようです。あとは、道端でお婆さんのような人がうずくまって亡くなっていました。今思い出しても本当に悲惨でした。思い出したくないですね
未来に向けて
阿部 礼哉 
 私は、自分を悔いてしまいます。何もできなかったなって、無力感を感じます。今回の震災を通して一番感じたのは、人の繋がりというのは一番大事だなという事ですね。お互いに声を掛け合い、物のやり取りや、おにぎりを分け合ってくれたり、物を運んでくれたり、そういう人の繋がりを一番感じました。それを普段から大事にすればいいんですね。あと、機転をきかせる人がいるってこと、そういう人が必要ですね。近所のコミュニケーション、助け合いは大事ですね。だから、今回の震災でもいろいろ乗り越えられたのだと思います。
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相澤 勝利 60代 男性
 大曲浜にて被災
(平成24年7月5日 大曲漁協前にて取材)
被災体験談
 漁協から家に帰って座るか座らないかのうちに地震が来て、収まってからすぐ漁協に戻ったのね。漁協が異常ないって事がわかったので、家族が避難するって事で、すぐ自分は家に戻って来たのね。すぐそこの海側に、津波用の水門があって、扉を11人で閉め方したけど、地震でゆがんでしまってロックにならなくて。騒いでいるうちに津波がやって来て、逃げろって。私はすぐ鉄工所の二階に走って、階段を昇り終わらないうちに、第一波がやって来たわけさ。それで、2階に上がったんだけど、そこでも津波がもう来ているから、2階の屋根の上に上がっても恐ろしいと思い、3階以上の高い屋根に避難したんだね。その時は第1波で大曲浜が部落ごと押し流され、大曲市民センターの1階の窓まで水がいっぱいになっているのが見えたわけ。もう第一波ですっぽりやられてしまったんだね。それが3時50分過ぎで、時計がその時間で止まっているんだね。屋根から、市民センターに一人いるのが見えて、その人が第1波がおさまってからこっちに来ようとしたんだけど、同じレベルの第2波がやって来たんだね。それが第8波まで来たんだね。ここに痕跡が残っているけど、通常の海面の高さから何メートルか測ってみたら、6メートルだった。地震が来てから、津波が到達するまで1時間2分か3分の時間はあったね。
 11人いたんだけど、車で逃げた人は全滅で、4人だけ助かった。後の方は亡くなってしまったんだね。一瞬だったね。息子は研修センターの屋根の上に上がって助かったんだ。研修センターは津波で流されなかったけど、ベランダの所まで瓦礫で一杯になったんだね。ここの水門を閉めている時、津波が来たら鉄工場の事務所の2階に逃げようと言っていたけど、逃げたのは私一人だったね。みんな散り散りになってね。職員は事務所の中に2人で逃げたんだね。ところが、そこも水が一杯になって、休憩室の窓を開けて、市民センターの屋根に移って難を逃れたんだね。屋根の上は3階くらいの高さはあるからね。これは流されなかったんだね。命かながら一人であがったんだね。ここもすっかり変わってしまいました。
未来に向けて
 早く自立はしたいので集団移転も考えたけど、漁業をやっていると、ある程度の土地の広さも必要なので、個人で立ち上げようとそちらへ向かっています。のり生産者は、震災前は19人いたけど、今は12人で、4グループで国の補助事業も受けて、やろうとしています。仕事が始まらないと気持ちが落ち着かないね。去年は瓦礫でいつ復興できるのか、時間がたてばたつほど仕事をあきらめてしまうから、早く始めたいと思っていたので、今年の秋にはのりができる見通しがたったので良かったね。作業を急ピッチでやっているので、忙しくなる。種苗から育てて手をかけて、収穫まで。それが楽しみだね。ものを育てて収穫するのが一番だね。災害が起きやすい現場で危険性もあるけど、実りが多いのが一番の楽しみだね。みんなで仕事ができるのが、幸せなことだ。また皇室献上ののりが作れるといいね。津波で海が浄化されて、養殖関係はいい面もあるのかと思うね。前向きに頑張っていこうと思っています。

大曲浜保育所スタッフ
 東松島市大曲浜保育所にて被災
(平成24年7月12日  大曲浜保育所にて取材)
被災体験談
鹿野 あい子 50代 女性
 大曲浜保育所 所長
 3月11日、2時46分のすごい揺れの後、放送で子どもたちに「地震です」ということを知らせました。ちょうどお昼寝の時間で、子どもたちは起きるか起きないかという時間帯でした。子どもたちにはお布団の中で頭を覆わせ、私は各部屋の状態を見回りしました。
 地声で「お帰りの用意を」と声をかけた時には、すでに近くの方たちがボツボツとお迎えに来ていました。そこでお迎えに来た人たちには子どもたちをお返ししました。
 市の職員が二人みえまして「大津波警報が出ているので、すぐにここから避難しなさい」ということで、すぐに子どもたちを自分たちの車に乗せて、大曲小学校に向かうことになりました。やはり大津波警報が出ているので、地元の方々も避難を始めたんですね。ですから、すぐに大曲小学校まで来たのではなくて、そこで渋滞にはまりまして、ほんとに動かなくて、3時前後には大曲浜保育所を出発したかなと思うんですけど、結局学校に着いたのは4時近くだったんではないかと思います。途中、大曲浜の新橋の上も渋滞で動かなかったんです。川の水がだいぶ少なくなっていて、奇妙だなあとは思いました。昔から、川の水底が見えるくらい水が少なくなったら、水が引いて津波が来る前触れだよと聞いていたもので、なんとなく嫌な予感がするなあと。そういえば昔聞いたことがあるなあ。一旦津波っていうのは引いて、それからばーっと来るんだよって。
 私はまず、大曲小学校に来る少し前の大曲市民センターのところで津波にあいました。後ろから「津波が来てるから、車置いて逃げろー」という声があって、振りむいたら高い壁がみえました。そこであわてて車から最小限の荷物を持って走って大曲小学校まで来ました。私は3階5年1組の教室まで行きました。なんとか水に濡れないで学校の3階まで来られたんです。その後はもう学校もプールのような状態でした。
 その時子どもは59名入所していました。そのうち5人がお休みで、54人いました。実際、子どもたちを車に乗せたときは14人いました。大曲小学校へ避難した時は12人。途中で降ろした子が1人、駐車場で降ろした子が1人。職員は12名いるんですけど1人お休みでした。職員は皆無事でした。
 子どもたちが引き取られた後は、臨時職員は自宅待機。職員は市への報告、安否確認をかねて二人一組で市役所まで向かいました。その日はとりあえず帰ってきて、お手伝いに行く人と残る人とに分かれました。大曲小学校でも人手が足りないということで、一日目に外に出た職員も次の日からは大曲小学校でお手伝いすることになりました。
 私たちにできることは何だろうと考えて、小さな怪我の手当て、オムツやミルクを必要とする人を担当することにしました。夜も、やっぱり赤ちゃんは待っていませんから、ミルクを作る方はいるし、あと、具合の悪くなる方もいるため、職員が3時間から4時間くらいの交代で仮眠をとりながら担当しました。炊き出しが始まると、今度は野菜など切る人が足りないということになり、そちらにお手伝いに行ったり。
 私は一週間くらいで家のほうの安否確認に行きました。蛇田から妹が心配して来てくれて、避難所に居たおばあさんを自宅に連れて行ってくれたと近所の人から聞いたんです。私も家の片づけをしながら支援のほうに通う生活となりました。しばらくは、給食センターへ通いました。家は床下浸水で済んだんです。うちのおばあさんも地域の方のおかげで助かりました。
 職員の中にはお家を流された職員もありますし、1階がほとんどだめになったお家もあります。やっと家を直したという先生もいます。2階だけ田んぼのはずれのほうにあったという先生もいます。ご父兄の方も一時、自分たちが迎えにきて自宅に戻ったりしましたが、まだ残っている子どもさんを見ているご父兄もいるわけです。そうすると、「うちの(子は)帰ったんだけど、家に紙おむつがあるから使ってください」と持ってきてくれたり、食べ物を持ってきてくれたり。わざわざ帰ったのにあの状態の中を来てくれて、食料を置いていってくれたのは本当にありがたかったです。
 市役所のほうから、ここ(旧大曲幼稚園)を掃除すれば使えるぞ、というお話をうかがったので、「じゃあ掃除して、やれるものならばやります」ということで、それからここの掃除が始まりました。保育所が再開したのが4月11日だったと思います。私たちはその間、大曲保育所の方にいさせていただきました。そこでできなかった修了式を済ませ。入所式を大曲保育所のお友達と一緒にして、そこからいろいろ準備を重ね、6月27日に開所することになりました。
土井 栄子 50代 女性
 大曲浜保育所 保育士
 私たちは子どものお昼寝時間に交代して休憩時間をとっているものですから、あの時はちょうどホール当番の交代のときでした。子どもたちは、起き始めている子、気づいて起きた子と私たちが騒いでいるのに全然起きない子が半々ぐらいでしたかね。とにかく布団を頭にかけ、覆うようにしました。とにかく覆って「だいじょうぶだからね」と声をかけていました。二人で揺れる中で子どもたちを帰しました。
 市役所の方が来て「津波警報が出ているから、ここにいては駄目だからすぐに行け」と。 3時15分とか6分とか7分くらいに家にいる家族にメールして、それがちょうど橋の上で、(真ん中へん)もう全然車も動かなかったんです。
 わたしも1才の時だかにチリ地震津波があったということを、きっと母親に聞いていたんです。北上川の川口におじがいて、そこに行った時、「北上川の底が見えたんだよ。水が引いていくときに。」と言うのを聞いていました。だから、橋の上から下を眺めて、どんどん水が引いていくというか波が立つというか、つつつつーっと水の模様がが引いていくのが見えて、(なんかやだなー、前に進まないし・・・)と思っていたんです。何分後か何十分後かに、ここに津波きたらここで流されるんだろうなと漠然と考えました。その間、時間は30分以上かかっていると思うんですけど、校庭の真ん中より南のほうで止めました。子どもと手をつなぐかつながないかのうちに「きたぞー」と言う男の人の声で、みんな走り出しました。2才になったばっかりの男の子を抱っこして、落としそうになりながらも昇降口まで走りました。その後、4時10何分ごろ私の打ったメールを見ると、大曲小学校に津波が来て自分の車が流されて、洗濯機のようにぐるぐる回っているんだよというメールを打っています。見えたのは真っ黒な水という感じではなく、スライムみたいな感じでした。
 一緒に避難してる人たちも皆親切で、子どもたちは上から物が落ちてこないところに「どうぞ」と言っていただいたり。寒かったので、「カーテンはずしてひいていいよ。」と言っていただいたり。子どもたちも揺れるたびにびくっと起きたり、寝ていないと思います。真っ暗だったからトイレにも行けず、オムツも持っていけなかったので、夜おねしょする子とかいろいろでした。でも何とか朝を迎えられたので。夜中も交代で起きて、ちょっと校庭を見たりして、「水引いたね」「またきたね」とか。スチールの倉庫があって、月明かりで黒いところと白いところの境目まで水がきていることがわかりました。そんな感じで一晩過ごしました。
百々 静香 20代 女性
 大曲浜保育所 保育士
 私はその時間、職員会議中でした。会議終わってあと15分くらいあるから、どうしようかなと思っていた時でした。その時揺れを感じ、とりあえずホールに行きました。子どもたちに布団をかぶせたりしました。わたしは自分のクラスの子どもたちのかばんに必要なものをまとめる作業をするために部屋に行ったんですけど、ふつうには歩けませんでした。そのうちに、お迎えの子の名前が呼ばれ出したので、呼ばれた子のかばんとジャンパーを用意して着せて、「ハイ、じゃあ行って」と言って流していました。
 そのあと、福祉課の方がいらして逃げろって言われたというのを人伝えに聞きました。そこで、逃げるんだと思いました。私の車にも助手席に子どもを乗せて、順番に出発しました。やっぱり橋のところ、交差点のところがすごく混んでいて、情報を収集しようと思ってラジオをつけていたし、窓も開けていたんですが、防災無線が鳴っていたのか、鳴っていなかったのかも覚えていません。ラジオの情報を聞いていたつもりでも、全然覚えていません。助手席に乗せていた子どもは3才の男の子だったんですけど、怖がらないようにと思って話しかけたりしていたんですけど、その子も何が起こったかわかってないんですね。でもその子に普通に「こわかったねえ」と話しかけられたことで、ちょっと救われた部分がありました。
 大曲市民センターのところまできた時に、「津波がきます」って聞こえたんです。そして、後ろからいっぱい人が走ってくるんですね。とりあえず車から降りて小学校に向かって逃げましたね。3階まで上がりました。避難した教室は校舎の真ん中あたりでした。
 私の家は学校の近くで、避難した教室から家が見える感じで、こんなに水が来ているんだから、あー、家もだなあと思ったのを覚えています。その日は寒くて、雪もちらつきました。洗濯機のような黒い水が回っている情景と、そこに雪が舞っている情景が焼きついています。
 寒かったので、カーテンや着ていたものをかけるなり、敷くなりして寒さ対策をしました。具合の悪くなった子もいたし、おしっこを漏らしてしまう子もいたし、小学生のジャージを拝借してそこにあったものを着替えに使ったりしました。今思えば申し訳ないのですが、とにかくそこにあるものを使わせてもらいました。そういう物がない状態が2~3日続きました。水がなかなか引かなかったところだったので、支援物資も入りづらかったんだと思います。
 それでも次の日にはなんとなく水が引いたので、家の手前の側溝が外れていたのにも気づかず、はまりながら家に着きました。家にある食べ物なら何でも持ち出しました。水もあったので水も持ってきました。
 家族はみな働きに出ていて、それぞれの場所で無事でいたんですが、連絡がつかなくて、携帯電話も通じなくて、3日目くらいに確認できたんです。家は全壊です。ものすごい状態で、畳がいろんなところにごちゃごちゃだったり。水もいつ出たんだろう?かなり遅かったし、片付けようにも片付かなかったです。
 家族もですけど目の前の保育所の子どもたちを保護者のもとへ帰すまでは安心できないというか、張り詰めていました。職場だったから気持ちが保てたと思います。もし、一人だったらどうだったのかなあとか思うと、みんなでいてよかったなあって。みんなで助け合っていけてよかったなあと思うんです。
 子どもがどこまで事態を把握しているのかわからないですけど、でも何か起こっているとは感じているはず。車の中での顔が忘れられないというか、怖かったはずなのににこにこって笑いかけてくれたりしたときに、ああ私がしっかりしなくちゃ、って思いました。救われたというか、強くなったと思います。
 子どもたちは、津波ごっこはかなりやっていました。怖いとかじゃなく、あそびとして普通にやっていました。滑り台の上まで行って「津波警報です。津波警報です」と言って、みんなで逃げたり、こっちに移っても、思い出したかのように遊びの中で「高いところに逃げるんだ」なんて言っていました。
 今でも子どもたちから、津波の話が出てくることはあります。「津波の時、こうだったんだよ」とか「津波の時、うちがぐちゃぐちゃになったんだよ」「津波に浸かったから、自転車がさびちゃったんだ」とか言っていました。おうちで、たぶんそういう話をしているんだと思います。そんなことを話している子たちにとっては、怖い話をしているというより、日常あった話をしているという感じです。そういうことが起こるよ、ということを言われていましたが、本当だなと思いました。自分自身のことでも気分の浮き沈みが出てくるのが当たり前と知っていたから、あっても当たり前だと思えました。
松川 千恵子 50代 女性
 大曲浜保育所 保育士
 私は1~2才児と、ホールとは別の場所で、玄関の近くの部屋にいました。揺れた時、立てないくらいで、電気の蛍光灯が落ちてきそうで、布団をかけたいけど、立ってかけることができない感じでした。とにかく自分が冷静にならなくちゃと思いました。
 その時に役所の人が「津波だからすぐ逃げて」と。その顔が尋常じゃなかったんです。なんかこれはすごいことだなと思いました。この辺のちょっとした津波じゃないと瞬時に思いました。
 車はやっぱり(渋滞のため)動かなかったんです。私も浜なので自宅を目の前にしていました。通りの右側の家だったんですけど、そこに高校を卒業した息子がいるかもしれないと思いつつ通り過ぎました。車が動かないままずっと来て、途中でもしここに津波がきたらどうしよう、ってずっと思ってました。もしそうなったら、自分は死んでも子どもは助けなきゃという気持ちでいました。
 学校の校庭には着いたんですけど、「どこに逃げる?」って言った後、「津波きたー」という声で走って、とりあえず濡れないで避難できたんです。
 子どもたちは泣かなかったですね。本当は「お母さん」って大きな声で泣きたかったはずです。やっぱり子どももわかっていたんでしょうね。こういう時にそんな態度は取れないって。
千葉 めぐみ 30代 女性
 大曲浜保育所 保育士
 私は、年長の障がい児の子を受け持っていて、その時製作か何かで年長さん(5才児の子)は部屋にいたんですね。何人かの先生と休憩に入りました。そのときドンという音がして、食器棚が倒れてきました。子どもたちのところに行かなきゃと思うんですけど、すごい揺れでまともに歩けなくて、よろよろしながらたどり着き「だいじょうぶ?」って言ったら、子どもたちは2日前に大きな地震があったため、同じように机の下にもぐっていました。わたしはその後、ホールと教室を行ったり来たりして、お迎えにきた子の受け渡しをしていました。
 そうこうしているうちに福祉課の方が来て、「津波が来るから逃げて」って言われ、子どもを乗せて小学校に向かいました。やはり新橋でなかなか進まなくて、どうしよう。このまま進まなくて津波きたら、私ももちろんだし、子どももだし、とドキドキしながら進んでいました。子どもが後ろから話しかけてきたので、「だいじょうぶだからね。今、お母さんこっちに向かってるからね」と、子どもの気を紛らせるように話をしました。
 大曲のコミュニティセンターまで来て、窓をたたかれて「津波来るから降りろー」って言われました。でもこのまま一緒に歩いていたら、絶対、津波に飲まれちゃうと思って、抱っこして走って。3階まで上がりました。それから5分か10分の間にスライムのような水が来て、あっという間に車が飲まれ、私の車はどこに行ったかなあなんて思いながら見ていました。その日はすごく寒くて、私はジャンパーも何も着ないで来てしまったので、小学生の小さなジャージを着せてもらって、子どもにあっためてもらって。子どもも「今日、ママ遅いねえ」と言うので「今、ママ向かってるからねえ」と言って。 
感謝のメッセージ
鹿野 あい子 
 この保育所は、いろんな人の支援が集まってできた保育所なんです。気持ちが集まって、今でも長い支援を継続してくださっている方もいて、助かってます。自分の仕事を投げ打ってまで、来てくださる方もいて、なんてお礼を差し上げていいものやら。
 忘れられない支援は、私は大曲にいた時に、たまたま知り合いの方が子どもたちを励ましてあげようということで、歌とかマジックとかをしてくれたんです。その時に、修了式に歌おうとしていた「虹」という曲を、ピアノで弾いてくださったんです。そしたらもう涙がぼろぼろ流れて止まらなかったんです。今でもすごく印象に残っていますね。その方が昨日も来てくださって、子どもたちだけでなく、先生方にも、こういうことだったら癒しになるんじゃないか、と考えて支援をしてくださるので、確かに心の癒しになっています。
百々 静香 
 震災を通して、よけいにつながりが増したように思います。いろんな支援の方がいらっしゃって、物だったり、楽しいことだったり、してくれたじゃないですか。そこでの考え方も同じかなあと。ありがとうの気持ちは一緒かなあと。
 物も必要だったんですけど、心の支援というか、やすらぎ、リラックスすることだったりも大事で。その人が来たときに、それまでは自分たちが子どもたちを何とかしなければ、と張り詰めていたのが、受身になって楽しませてもらいました。みんなが笑っていたのが印象的で、よかったなあと思いました。物だけじゃなくて、人の支援というのがすごく大事だなあと思いました。
 この保育所を開所するに当たって、いろんな物が無いということを私の知人に話したところ、たまたま群馬県の下仁田というところで廃園になる保育所があって、そこの物を、ただ捨ててしまうのはもったいないから、もしよかったらどうですか、という話がきたんですね。調理室で使う物だったり、いすや机だったり、普段遊びに使う物や紙芝居、絵本、ブロック、積み木など、いろんな物をいただきました。それは、たまたまのつながりで、つながって、つながって、めぐりめぐって支援になったということで、とてもありがたかったです。

相澤 数子 70代 女性
 大曲の自宅で被災
(平成24年7月19日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 震災時は自宅にいました。お父さんに「6mの津波がくるって騒いでたよ」と言われて、とっさにとれる場所にかけてあった真っ赤な救急用の非常袋をとりました。おばあさんにいざという時に位牌だけ持つよう言われていましたが、持って行けないと思い、寒かったのでマフラーとジャンバーを持って、自分を守らなくちゃいけないと思い、すぐに自分の車に行きました。お父さんはブレーカーを落としたり、役所の書類を持ったりしていたので「早く逃げろよ」と言って、玄関に出て車に乗り込みました。後ろを見たらお父さんは玄関の鍵をかけていたので大丈夫だなと。私が出たあとにたぶんお父さんは後ろからついてきたものと思っていました。
 避難場所は大曲小学校だなと思い、そこに向かって走って行ったんです。玄関に入って、外を見ると、もう津波が来ているんですよ。そのあとに誰かがドアの鍵を閉めたんです。車を捨てて走ってきた方もいたんですが、そこはドア1枚で生と死の境でした。水がチョロチョロ入ってきて、その上に男性の方々が長机を重ねて、みんなその上にあがりました。上がったけどこっちをみれば海みたいな感じで、あっちをむけば窓から私の背丈以上のどす黒い波が、寄せたり引いたりしていました。想定外の津波に呆然として、そこにずっと立っていて、ワンコちゃんもいる、車椅子のおばあさんもいる、赤ちゃんもいる、いろんな方がいる中で真っ暗になるまでいました。
 役所に聞いたところによると当時市民センターにいたのは58人ということでした。狭い舞台の上にぴしっと肩を寄せ合っていたんです。座るスペースもないくらいで、途中で太鼓が流れてきて、お年寄りの人が座ることになったんですが、私たちは後ろのほうで東側だったの。どこに誰がいるかわからなくて、たまたま本家のお姉さんが息子さんに乗せられて、先に来ていて、端っこにいました。お姉さん大丈夫、と声をかけていましたが、だんだんと遠くなって、赤ちゃんの鳴き声だけが響くんですよ。お母さんが子守歌をうたっていて、ずっと歌が聞こえていたので私たちもいくらか気持ちを落ち着けることができたんです。トイレにも行きたい、あれもしたいと思ってもみんなどこへも行くことができませんでした。端っこの方崩れそうな状態だったんですけど、不思議なものでそのままの状態を、朝まで保ったんですよ。朝方なって、私たちも諦めていて、ただ恐怖感と寒さがあって、どうしようもなく寒さが下のほうから凍みてきました。
未来に向けて
 今回、1人では何にもできない、みなさんに助けられて、そういう人たちがいるありがたみを感じました。その絆が本当に強くなったと思います。今まで地域の人に会っても、おはよう、こんにちは、くらいだったのが、寄り添って何かお話したいという気持ちが見えるんですよね。お話ししてあげるのも、お話ししていただくのも、気持ちが和らぐし、あまり話さなかった人とも、私がそう思うから、相手もそう思うんでしょうね、という気持ちになって、人の温かみというものが出てきました。今まで生活してきて、築かれた人の輪が、大きくなり、心にも柔らかく伝わるようになり、また受け止められるようになったと思いました。だから今回の震災で、人間はこうでなければいけないと、神様が教えてくれたような気がして、我に返る時もあります。
感謝のメッセージ
 今回の震災で、元気な人が流されるのを見て、それで一緒に逝ってしまったほうがよかったんじゃないかということを何回も考えました。そしたら夫に、命を助けられんだもの、仏さんに申し訳ないだろ、と言われました。何十年かかって蓄えた財産が一瞬にしてなくなったので、私にすれば生かされた身で、生かされたありがたさに感謝しなければいけないんですが、かえって先のことを考えると、一緒に逝ったほうがよかったなと思うこともありました。今はそういうことは考えないで、1日、1日を前向きに生きていくようにしています。私を見たら前を向いて歩いていると思っていてください。それもみなさんのおかげです。役所関係、消防団、自衛隊、各地から集まったボランティア、一生懸命働いてくれて本当にありがとう。私も役所でお手伝いをしましたが、何かある時は身近なボランティアをやっておくべきだなと思いました。ギブ&テイクでやったことが還ってきますものね。みなさんにお世話になって、生きらいん、という勇気と元気をもらいましたので、これからも頑張っていきます。

亀山 一子 50代 女性
 小野保育所 保育士(東松島市職員)
 震災時は、大曲幼稚園(東松島市大曲字寺前)教諭。  大曲幼稚園で被災。
(平成24年7月24日 小野保育所にて取材)
被災体験談
 被災時は事務室で、閉園式で流そうとしていたDVDの編集をするため、パソコンを操作していました。その時、ものすごい大きな揺れが来たので、あわてて外に出て、テラスで私と園長と同僚の3人で、しばらく動けないでいました。
 子どもたちは、午後2時頃までには全員が自宅に帰ったので、園児はいませんでした。園長は大曲幼稚園と中央幼稚園との兼務だったので、中央幼稚園も心配だったので、そちらに行きました。
 玄関をまず片づけていたら、教育委員会の女の人が2人来てくれて、大津波警報だから早く避難したほうがいいよと。それを聞いたのが、午後3時過ぎだと思う。
 鍵を閉めて、玄関を出ようとしたのが、午後3時半頃だったと思う。その時、さざ波がさあーと来て、水が来たんだと、その時初めて気がついて、幼稚園の中に水が来て、玄関の方に流れて来たんです。あっというまに水が入ってきて、これではだめだと、すぐ机の上に上がったんですが、机の上まであっというまに水が来ました。今度は大きなタンスがあったので、天井のアコーディオンカーテンのレールに捕まりながら、流れたタンスを引き寄せて、水に浸かりながら、必死で何とか、私より若い同僚と2人、移動して乗りました。180センチぐらいの高さまで水が来て、そこからもう動けない。一晩、タンスに乗っていました。水は上がったり、下がったりを5~6回繰り返し、水が大分減ってきたのが、夜中かもしれません。引く時の音は静かなんだけど、入りだす音は、水道が水漏れしているような音がする。引くときと入ってくる音は、はっきり違う。段々冷えてくるし、寒いし、でも待つしかない。最高まで水が来たときは、自分たちが乗っているタンスが一瞬動いたんです。そうしたら自分たちの居場所が無くなってしまって命がとられる。とにかく自分たちの体重でタンスを動かさないよう支えようと、必死で二人で支えました。
 朝が来て、8時頃まで待って水が引いたので、大曲小学校に向かって歩いたんですが、まだ水は膝より上でした。大曲小学校では、幼稚園に入っていた一組の家族の無事が確認できたし、卒園者、近辺のお母さんたちとか、子どもたちとは会うことが出来ました。
 次の日は中央幼稚園を起点にして、子どもたちの安否を確認しました。幸い、子どもたちは全員無事でした。
 大曲幼稚園の卒園式と閉園式は、昨年の3月24日に中央幼稚園で行ないました。閉園式で見てもらうために編集していたDVDは、電気が復旧していたので、みんなで見ることができ、DVDは最後の卒園者全員に、記念として贈りました。たった8人の卒園者ですが、運動会も小学生を巻き込んでやったり、前の5人のお母さん方の役員も一緒になってお手伝いをしてくれました。DVDは、38年間を20分くらいにまとめたものです。4部構成にし、第1部は昭和の時代、第2部は平成元年度から10年間、第3部は平成11年度から21年度まで、第4部の平成22年度は最後なので、一番長くしています。私にとっても貴重なDVDとなり、感謝しています。
未来に向けて
 私は、38年続いた大曲幼稚園が閉園となったので、昨年の4月に小野保育所に異動となりました。新しい子どもたちと出会って、水の恐怖がある子どもたちにとって、同じ水の恐怖を分かってあげられるのはよかったと思います。
 1年経って、子どもたちは落ち着いて、自分の思いを出せるようになってきたし、逆に、震災から1年過ぎて、本当に怖かった思いとか、自分が大事にしていた物が無くなって悲しいとかを、自分たちからどんどん出してくれるようになりました。
 1年過ぎたら、「あの時、こうだったんだよね」というような会話を、自然に友達と言えるようになってきたし、「お兄ちゃんが亡くなって、神様になって見ているんだよね」という言葉を聞いても、「ちゃんと空から見守ってくれているんだよね」と、子どもたちも同じように痛みを分かって言ってあげたりとか。そういうやさしい声をかけてくれる子どもも出てくるようになりました。子どもたちも、自然に心も育ってきたんだなと、ここ1年の子どもたちを見ていて感じます。困っていると助けたり、という姿が出てきてくれているし、そういう意味では頼もしさも出てきていますね。

千葉 春雄 60代 男性
 大曲筒場区自主防災会 事務局長
(平成24年7月31日 図書館にて取材)
被災体験談
 地震が起きて、壊れたガラスなどの片付けをしていたんですよ。それで、隣近所の人たちが集まってきて、「地震があって、おっかねかったなぁ(怖かったなあ)」という話をしていたんです。話が終わって引き上げようとしている時に、大津波警報が鳴りました。
 息子は、大曲浜の人たちが逃げる前に橋を渡ることができて、渋滞に巻き込まれずに帰ってこられたそうです。息子が来たので、2人で畳をあげたんです。1階のソファの上や台所のテーブルの上に上げました。
 そうしているうちに「津波が来るんだって」と近くの2家族3人が逃げてきて、「2階さ、あげてけろ(下さい)」と家に来たんです。すっかり暗くなり、おばあちゃんが赤ちゃんを抱いて、お母さんもいて、赤ちゃんは生まれて10日くらいで退院したばっかりだったんだけど、3人で泥水に浸かって泳いできたんです。2階には、最初にきていた3人がいたので、11日の夜は赤ちゃんも入れて6人がいました。家は畳の上40センチくらいまで水が来ました。
 次の日、水が止まったので、私たち自主防災会で作っていた地下水の供給装置を使いました。13日から筒場のみなさんに自転車で走って、水あるからねと言って回っていました。150人位ずつ、毎日並びました。水が来る26日までやりました。
 食料を、全戸にもらうよう、「あんたの家は欲しいか」と聞いて歩いていました。市役所から290食くらいもらえることになって、自衛隊の車で運んでもらって、近所の方の納屋を貸してもらって、そこでみんなに配りました。
 あとは床下に石灰、噴霧器2台をしょって、各家を回りました。防災会も掲示板を作っていたので、市からのいろんな情報を紙に書いて貼っていました。食料をもらいに来た人は、みんなそれを見ていくという感じでした。
 筒場辺りにいろんな商売をやっている人がいるから、フライなどを作って大曲小学校に持っていったりしてくれた方もいました。床屋さんは散髪のボランティアを小学校でやったり、いろんな方が動いてくれました。
未来に向けて
 上納に五十鈴神社っていうのがあるんです。そこも被災したから、片付けかたをしていたんですけど、復旧のために支援金を出してくれた人たちがいたんです。その人たちにお礼として、写真集をあげているんです。
 神社の片付けかたをする時、ロッククライミングをする人たちがボランティアに来て、屋根の瓦をとってくれました。まず解体前に、工事の安全を祈願してもらって、周りの杉の木も全部枯れたから伐採、本殿の大移動、拝殿とかも全部撤去してもらいました。社務所は残して、みんなで直しました。今は本殿しか残ってないんです。350年くらい経っているから、屋根を修理して、なんとか元日を迎えることができたんです。
  神輿は、前は担ぎ手がいたのですが、今は軽トラックに積んで回っています。それも、今までの神輿は塩をかぶってしまって、補修すれば使えるんだけど、小松の五十鈴神社に譲って、岐阜県の岐南町からりっぱな神輿がくることになったんです。今までの神輿は100キロくらいなんですけど、今度のは300キロくらいあるそうです。来月の8月5日に贈呈式をやることになっていて、あちらから町長さんが来るので、こちらも市長が出るということになっているそうです。 

葛西 レイコ 60代 女性
 自宅近くの友人宅で被災。夫は津波で死亡。現在1人暮らし。
(平成24年8月1日  東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 私は、近所の同級生夫婦と3人でおしゃべりして、お茶飲みしている時に、地震が起きました。揺れが収まってから、家のことが心配で外に出たら、ぼた雪が降っていました。
 走って自宅に着いたんです。そうして主人に、「避難しなくちゃならないの」と言ったら、主人は「大曲浜は、牡鹿半島があって、津波はよけるから、昔からそんなに大きなものは来ない」と言うし、私も、防災無線も鳴らないしな、と思っていました。お父さんと2人で、地震の後片付けしていました。避難しないで。後になって冷静に考えてみると、地震が収まって、津波が来るまでは35分から40分くらいだったと思う。
 家に入ったら、前の方でえらい聞いたことない、ごーという凄い音がしたのね。第1波が横を上っていったんです。それはきれいな上澄みの透明な水でした。西側の道路を津波が上っていったので「お父さん、もう津波が来てるから。2階しかないから、2階だ、2階だ」と騒いだんです。私が前になって、お父さんは後ろから来たんだと思って、必死になって階段を上がって、登り切って振り向いたら、下は真っ黒い水で、お父さんの姿が無かったんです。「お父さん」と騒いだのですが、ごーと音がしてから、津波が来るまで5秒ぐらいしかなかったと思う。
 気づいたら、私は2階の押し入れにペタンと座っていましたね。我が家も2階の床上の30センチまで水の跡が付いていて、膝から下が濡れていました。それで、我が家は流されなかったんだな、と思いました。
 翌朝、家の1階の屋根にバナナが5本、引っかかっていたんです。ベランダの物干し竿の衣紋掛けを結んで、3本を取りました。それで飢えをしのぎました。
 どんどん日は落ちてゆくので、1人で大曲浜から脱出しなくてはと思い、ベランダに和服の帯を結んで、リュックサックを背負って降りようとして、後ろを振り向いたら、近くで男の人が私を見つけてくれたんですよ。その人は必死で手を振って、「おばあさん、無理だから。人呼んでくるから待ってなさい」と言われて、何時間ぶりに人の声を聞いたので、やっと助かったと思って、涙がぼろぼろ出ました。
 私は20年来ウォーキングをしていたし、今回、お父さんとの差はそれだったと思う。階段の昇り降りにその差が出たと思う。やっぱり私、運動していてよかったなと。男の人に「すごいね、おばちゃん。私らよりも足が丈夫だね」と言われましたね。とにかく、ここを脱出しようという一心で、夢中になって歩いて、何とか大曲小学校に着きました。
未来に向けて
 地震が来たら、海岸では地震が来たら直角に(上に)逃げることですね。
 それと、ラジオはすぐに鳴るようにしておかなくちゃいけないですね。今は常に、車に水と食料は積んでいます。あとは体力ですね。逃げるのには必要ですからね。体力をつけるため、体操教室に通っています。定川沿いを旧学校給食センター近くまで1時間ぐらいかけて、毎日歩いています。とにかく、運動教室の先生が言うには、筋肉というのは使わないと、どんどん衰えるんですよと。使えば、年とっても維持できるから使いなさい、といつも言われています。

㈱ヤマニシ造船のみなさん
 ㈱ヤマニシ(造船業)の構内で被災
(平成24年8月3日  ㈱ヤマニシにて取材)
被災体験談
櫻井 文男 50代 男性
 我々は地震があった時は、事務所で打ち合わせしていたのですが、凄い地震だったので、みんなおろおろして、外に出てカメラで撮っていたら、水が来たという声が聞こえたので、すぐ建物に逃げたんです。我々は2階に立った状態で床上、膝まで水が来たんです。  100人以上がこの建物に避難しました。第2波が大きいのが来る場合があるということで、我々は、諦めて2階に留まったんですが、屋上に逃げた人もいたんです。ただ、屋上に逃げる階段もなかったので非常に苦労をしたんですね。第2波が10メートル近くというのをラジオで聞いたので、大半の人は屋上に避難しました。結局、2波目から、防波堤は越えなかったんです。工業港の方へ津波が回っていくんです、すごいスピードで。その波が定川沿いに上って行ったんだと思います。
 我々はここにいたんですが、船に乗っていた人もいて、船ごと流されたんです。その船は暗くなる前は定川の橋のところにいたはずだなと思っていたのですが、次の朝見たらいなくなっていて、1隻は浜の方に乗り上げていたんです。でも、もう1隻は視界から消えたんですよ。
 夜が明けてから、歩いて矢本の家に2時間ぐらいかかって帰りました。流木が一杯でね、松の木などが道路をふさいで、自衛隊の基地の脇も水が流れている状態でしたね。10時過ぎに家に着いて、みんな無事なのを確認して安心しました。
 私は消防団員だったので、帰ってから、消防団に行って、小さな子どもが亡くなったのとか見たんですが、悲惨な状況でしたね。
尾形 政晃 20代 男性
 津波は夜中の2時、3時頃まで、1時間置きぐらいに来ていました。津波が頻繁に来ましたので、内陸の方に逃げるにも逃げられないですし、夜は暗く、危ないので一晩過ごして、待っていた状態でした。
 家は浜市なのですが、まるっきり流されて、無かったんです。今は、矢本運動公園の仮設住宅に住んでいます。当初は浜市の避難所はライフラインが途絶えて孤立していたので、東松島高校に移って、そこも授業が再開されるといことで、いろいろ避難所を移動しました。
川田 和郎 50代 男性 
 地震の次の日、昼過ぎぐらいに、途中2回ヒッチハイクで乗っけてもらって帰ったんです。自衛隊の脇を通って、山の方に歩いて、須江のしらさぎ台団地(石巻市)を越えて、天王橋を渡って帰ったんです。普通だったら遠くて歩ける距離ではないですがね。しらさぎ台の山を越えたら別世界でしたね。海の方は津波被害で大変な状況なのに、山を越えたらそれが感じられない状況でしたね。
 帰って、家族全員無事なのが確認出来ました。家は北上川沿いの部落で、この部落は無事だったんですが、私の部落の下流は、津波でほとんど無くなっているような状態でした。まさか、そうなっているとは思っていなくて悲惨な光景でした。
未来に向けて
櫻井 文男 
 丈夫な3階建ての建物とかの設備は、是非ほしいですよね。ここに集まっている企業で働く人のために、是非、避難施設がほしいですね。
 仕事ですが1年を過ぎてからようやく動き出したという感じなので、まだ、バタバタという状況ですね。我々の仕事は注文生産みたいなものなので、船を受注してもらって、長く安心して仕事が出来ればいいなと思いますね。ただ、海が近いので怖いことは怖いですね。

福地 さた子 小料理「千曲(ちくま)」経営
北浦 泰子  小料理店「千曲」従業員
今野 きい子 小料理店「千曲」従業員
(平24年8月7日  自宅兼小料理店「千曲」にて取材)
被災体験談
福地 さた子 
 私は地震の時は、足の治療で整形外科にいたので、津波というのは、分がんながったのね。診察が終わって会計をするため椅子に座って待っていたの。そこで地震が来て、本当に恐ろしかったのね。雪は降っているし、電話は通じないのでタクシーも呼べない。それで、近くに住んでいる西新町の息子の家に歩いて行ったの。地震から20日ぐらい息子の家にいたんです。
 その間に、区長から電話があって、「水が引くまで来んなよ」と言われたの。「水って何?」って言ったら、「津波で家の半分が水に浸かっているから、連絡するまで来ない方がいいよ」と言われたの。でも、この目で見ないと駄目だと思って、3日後に見に行ったの。そうしたら本当にひどかったの、1メートル50センチくらい水が入ったから、冷蔵庫も倒れ、タンスや中の物は全部水に浸かりましたし。
 店が意外と壊れなかったんですよ。瀬戸物は全部外に出して、3日くらいハイターにつけてきれいにして、自分で壁紙を買ってきて、とりあえず、本職みたいに貼りました。
 全部、従業員でやったからね。それで住宅の方を大工さんがやっているうちに、私らは店の方で直したり、洗ったりして、5月25日に再開したんです。
 再開するときは、新聞の広告の裏さ、急いで書いでね、50枚ほどコンビニで刷って、近所とか、いつも来てくれている人に配りましたね。そしたらお客さん、震災で疲れで飲まずにいられないって、来たわ、来たわ。100日ぐらい、休みなしでいっぱい来たね。
北浦 泰子 
 地震の時は自宅にいました。家族は主人と息子の3人ですが、息子は仙台にいました。自宅にいた主人と車を捨てて、最初から歩いて逃げたんです。歩いて逃げる途中に大曲市民センターがあって、避難所と書いてあるので、主人がここでいいだろうって。3階建ての大曲小学校まで行こうと私が言っても頑として動かないから、仕方がないので、大曲市民センターに避難しました。
 避難して12分ぐらいして、窓から外を見たら、向こうから水の壁、真っ黒いのが来たんです。男の人がテーブルをステージに組み立てろとなって、幾つか組み立てて、みんなでその上に、女性が先に上がりなさいと、言われて上がりました。急いで戸を閉めてみんなステージの机に乗っかりました。水圧というのは凄いですね。南側の4枚の扉が、ぎゅっと内側に入って、真っ黒い水がホールに入ってきて、渦巻いて、わーっと上がってきて、そのたびにみんな悲鳴ですよ。
 次の日の朝5時半までそこにいましたね。みんなで大曲小学校に移動しました。水はまだ膝上までありましたね。電柱は倒れているし、網などが道路にいっぱい流れて来ていました。「あわてないで、ゆっくり歩きなさい。端っこ歩いては駄目ですよ、側溝の蓋が取れているから」とかのアドバイスを受けながら、すっごく寒かったですけど、歩きましたね。3月29日に上町の商工会が入っている建物に移動しました。仮設住宅に入ったのは6月8日でした。
今野 きい子 
 私は石巻市の青葉中学校の近くで、石巻市の青葉中学校に避難して、2日間お世話になってきました、1人で。青葉中には避難場所の地区でない人もいっぱい避難してきたので満杯だったの。そんで、少し程度のいい人は帰ってくださいと言われてね。津波は床下までだったので、現在そこに住んでいます。
感謝のメッセージ
北浦 泰子 
 震災後は、欲が若干無くなったかな。生かされたことのありがたさが大きいですね。精一杯、亡くなった方の分まで頑張って生きていこうかなと思います。本当に大勢の方々に助けられたので、ありがたかったですね。同じボランティアでも、市を通して来る方だけでなく、個人で来る方もたくさんいらして、避難所でも食事をごちそうになったりとかね。お世話になったことへの感謝の気持ちを忘れないようにしたいですね。
福地 さた子 
 今後も店を続けていきたいと思っています。地元の祭りにも行きますよ。まだまだ、従業員のためにも頑張っていきたいと思います。

下山 せい子 60代 女性
 ㈱ヤマニシで勤務中に被災
(平成24年8月11日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 私ね、(震災当日は)ヤマニシの造船所にいてね、仕事をしとったんですよ。完成した貨物船の引渡しの時の掃除に、いつも頼まれてグループで仕事に行っているもんでね。(船が)できた時、連絡をいただいて(仕事をしています)10年以上なるね。1回仕事が入ると、最初の時は4~5日行って、引渡しの時は3日行きます。
 震災前はヤマニシさんもずっと予定が入っていたから、2ヶ月にいっぺんずつくらい(仕事が)くるなと、そういう心積りでおったんですよ。ところが震災があって、あの時は船も造船所も全滅だから、すごかったですよ。すごかったの一言。
 (私が仕事をしていた船は)ガッチリ止まっていました。陸の上にあったというか、ガッチリ押さえられているから、大丈夫、動かないと思っていました。3月18日に進水する船もおったわけ。それは何もゆつけてる(ゆわえている)ものがないから地震でバーッと出たんですよ。そこさ108人乗っていたの。ヤマニシのいろいろな現場の人たちが作業をしていたわけ、その人たちはそれに乗り込んで流されたの。それはサッシも何も入ってない船なんだけど。ヘリコプターだの何だのきたけれども、ところが風でしょ。雪でしょ。ヘリコプターが降りる場所がないんですよ。ウチのほうは電気はないけれど、サッシはちゃんと入っているから、向こう(サッシのない船)のほうを先に救助する動きでした。でも、アッという間に向こうの船がグルッと回ったんですよ。波くる度にグルグルと風景が変わるわけよ。
 みんな津波が来るとは思わなかったみたいだけど、でもうんと水が引いたから、絶対くるぞって、私は思っていたのね。ちょこっとしたら(少ししたら)、もう黒い水だっちゃや(これが津波なのかってくらい、黒い水でしょう)。全部引いたからそれが戻ってくるんだもの。だんだんに高くなってくるわけよ。
 私らも次の日の朝9時くらいかね、ヘリコプターが来て助けてもらってね、東京の海上保安庁のヘリコプターで運ばれたんですよ。日赤(石巻赤十字病院)に降りたの。だけど誰も怪我人はいなかったの。
感謝のメッセージ
 あの時はお金もないから、こっからどうしようと思った時に、3人して1銭ももってないから、1万円ずつ貸してけね(貸してくれない)って、給料から天引きしてくれるようお願いして借りました。場所を移るにしても通帳も何もない、これは駄目だって。何も買えなかったけどさ、やっぱり1銭ももってないのと、なんぼでもあるっていう実感だよね。何あるかわからないからね。(私らのオーナーには)「いいよ、ぼくら何にも被害にあわないんだから、いいから下山さんとってて」って言われてさ、本当にうれしくてね。あのときの1万円は今の10万円くらいの気持ちになりました。
 ずっと付き合ってきたから、ああいう船で働いて、命が助かって、これから亡くなった人たちの分を、私もなんとか役に立ちたいと思っています。宮城野区に行っても震災のお話をして、語り伝えていきたいです。あのあたり(宮城野区)も(土地が)低いからね。 矢本にも同級生がいっぱいいるから、ちょこちょこ交流したり、元働いたところとも交流したりしています。何日でも長生きしないとね。
未来にむけて
 私らは体ひとつで逃げたけれども、今、私は必ず寝る時に懐中電灯・薬とか着る物一式、乾パンをリュックサックに入れ枕元に置きます。娘にもらった救急セットも入れておきます。どういう場面にあうかわからないからね。あと出かける時は、必ず服も全部、車の後ろに一式積んでおく。それを心がけてやっています。娘にもそのように言っています。
 自分たちが経験したことをみんなに伝えたいです。今は金もあるからこうって言ったって何でも買えると思っていても、その時になったら水も全然入ってこないっていうことがあるから、やっぱり自分の分は2、3日分持っておくべきだと思います。多ければ人にあげて、そう思って私は用意しています。場所がわからないと、いざっていう時に対応できないから。車は重いって言わないからね。

相沢 さと子 50代 女性 大曲小学校学童クラブ 職員
山形 典子  50代 女性 大曲小学校学童クラブ 職員
(平成24年9月19日 大曲小学童クラブ「くろまつ」にて取材)
被災体験談
相沢 さと子 
 ちょうどあの地震の時に、子ども達はそろそろ帰ってくる時間で、子ども達は立ち止まってフェンスにしがみついていたので、揺れがおさまる迄、「そこにいなさい」と声掛けをして、待機させていました。いったん揺れがおさまったので子ども達を玄関口に呼び入れて、余震が続いていたのでとりあえずここにいなさいと、指導員と共に待機していた状況でした。その間に近所の方もどんどん集まってきたんですね。
 そうこうしているうちに、(市役所の)福祉課の担当職員2名が来て、「もの凄い大きな津波が来るから、6メートルから10メートル位が予想されるってことで、すぐに大曲小学校に避難した方がいいですよ」と言うので、その準備に私達もとりかかったんですね。子どもが一人残っていたものですから、その子を連れ、私達指導員3人と分館に避難してきた地域の方と一緒に大曲小学校の方に避難しました。
 私達だけでなくて、地域の方たちも教室がいっぱいになる位の人数の方たちが、詰め掛けているような状況でしたね。「ちょっと、みんなすごいよ。水がもう一杯来ているよ。」という声を聞いて、私達も立ち上がって外を見たら、校庭に水がどんどん入って来る状況を目にしたんです。校庭に水がどんどん入って来て、避難して来た方の車が何台も止めてあったんですけども、それももう水に押し流されて校庭が渦を巻いているんですよね。
 その日の夜はとにかく寒かったです。まだ3月11日ということで、けっこう厚手のジャンパーとかを着ていたのですが、夜になるととにかく寒くて寒くて。カーテンを床に敷いて、みんなでそこに座って寄って暖めあったいう状況でしたね。夜になって子ども達の中には「寒い」っていう子もいて、たまたまその日、体操服とかを持って帰ってきた子なんかは、上に着せたり、ある物を身につけさせて寒さをしのがせました  
山形 典子 
 震災当日、私は休みでした。その日はイベントがあって自衛隊基地の中で参加していたんですね。終わってちょうど帰って来た時に地震だったんです。そこにずっといたら、飛行機と共に流されていたかも。3日間、他の指導員の方に子ども達と一緒にいてもらったので、私は何もできなかった分学童で使っていた分館のお掃除の方を一生懸命させていただきました。あの時、指導員の先生は4人でしたが、1人が休みで、3人体制でいつもやっていました。学校に探しに行ったんですけど帰った後でした。学校の中はものすごい泥だらけで、ここにいたのかしらと思いました。廊下も泥だらけだったし。
 行くと子ども達が親御さんと避難しているみたいで、「あ、先生、先生」って。「お母さんと一緒なの。良かったね」と。お母さんが石巻にお勤めの方だから、来るのも大変だったらしくて、やっとこっちに来られたって感じでしたね。最後まで来られなかった方って、石巻にお勤めの方が多かったと思います。すぐに来られた人は近くだったんですよね。
未来に向けて
相沢 さと子 
 まず、あれは本当の事だったのかしら?って未だに何となくそういう思いになる時はあります。でも、多くの方が亡くなっているのを聞いたり見たりすると本当の事であって、たまたま生きていられる私達は、毎日をきちんと生きていかなきゃいけないのかなっていうのもあったりします。そして、今、この仕事に携わっている以上は、またそういう事があっても、子ども達をちゃんと生かしてあげられるような形に持っていかなければいけないなという思いが強いですよね。こういう事が二度と起きてほしくないっていうのが、本当の気持ちではありますね。普段から備えだけはちゃんとしておかないといけないですね。常にそれは考えて生活していかないといけない事だと思います。食べ物、飲み物、あとどこに逃げるかとかも、仕事場にいる時はここ、家族と一緒の時はこことちゃんとしておいた方がいいって事ですね。
山形 典子 
 昨年の前半は亡くなった方も多かったんですけど、葬式って挙げられなかったじゃないですか。だから、後半はお葬式に行くことがたくさんありました。以前は幼稚園(勤務)だったものですから、浜に住んでいて亡くなった子がけっこういて、子どものお葬式に出るのくらい辛いものはないなとすごく思ったんですね。今も子ども達をお預かりしていて命の重さ、この子達を助けられるかって、いつも思っていて浜の方に来る時は緊張します。これから先、「備えあれば憂いなし」で、何とかスムーズに子ども達を守っていこうという思いですかね。日々。たまたま私達は助かったなと、友人とかもいっぱい亡くなったけど、この線引きって、一体何だったんだろうって、それは昨年思いましたね。すぐに逃げるってことかな、まず命を守る、自分も大事にしていかなきゃならないとすごく感じました。

門脇 雅孝  50代 男性
 東松島市立大曲小学校 教諭
 職場(大曲小学校)で勤務中に被災
(平成24年9月27日 大曲小学校にて取材)
被災体験談
 震災当日、玄関先でかなり強い地震に襲われました。その場に少し待機して、回りにいた子ども達も怖がっていましたので、座って待つように指示を与えながら、地震が止むのをずーっと待っていました。
 その後、校庭に子ども達を避難させました。そこで人員の確認をした後、二次避難場所が講堂ですので講堂の方に子ども達を誘導しました。その間、講堂に行ってからも大きな地震を感じて、迎えに来た保護者の方々に何人か引き渡す作業も同時に行っていました。
 その後、講堂で子ども達と待機していたんですけど、どんどん避難の方たちが押し寄せてきまして、そうしているうちに、ワンセグのテレビで情報を得たらしい出入りの業者さんから、「津波がやって来る」っていう情報を得ました。そのことを受けまして、校長と教頭と相談しまして、1階の講堂にいては危険だということで、校舎の2階3階に三次避難ということで避難することを決めました。始めに子ども達を中心に3階に移動させ、その後ですね、避難して来られた地域の方々を2階の方に避難させました。
 そうしているうちに、2階で私達は待機してたんですけど校庭の方にも黒い水が押し寄せてきて、みるみるうちに校庭が泥水に覆われるという状況になりました。その後、余震もあり津波の水も2波3波ということで、押しては引いてということで夜中、水が多くなったり少なくなったりという状況が続いていました。  その夜はとにかく食べる物も飲む物もありませんでしたし、火の気もありませんでしたので、とにかくそこら辺にある物、例えばカーテンで暖をとるとか、ダンボールを敷いたり、掛けたりして暖をとるとか。担任の先生たちは子ども達と身を寄せ合うようにして暖をとって、一晩を過ごしました。とにかく、長い、寒い夜を「早く夜が明けないかな」と口にしながらその晩は一睡もせずに、夜が明けるのを待っていました。当日の夜は、地域住民も含めて600人余りですね、校舎の中に避難していました。  翌日も水はだいぶ少なくはなったんですけど、完全に引いている状態ではなかったので、食べる物も入って来ませんでした。校舎の中の職員が持ち込んでいた食べ物であるとか飲み物であるとか、そういった物をみんなで分け合うというようなことをしておりました。
 翌々日位から、近所のほっともっとさん(弁当屋)の方から食べるものがないだろうからって、ご飯だけは炊けますからと分けていただいて、それを本当に少しずつ600人の避難者と共に分けて食べました。食料が本格的に市の方から支給されたのは、3日目からだったと思います。それでも、食パンであるとか、絶対量が少なかったので、分けながら過ごしていた状況でした。
未来に向けて
 震災当時、学校を何とかしなければいけないと、まず先生方からこうしたらどうか、ああしたらどうか、今まではあんまりそういう事も多くなかったんですけれど、とにかくいろんな意見を出していただいて、何とか学校を再開しようとみんなで考える事ができたのが良かったのではないかなと思います。その後、学校が始まってからも、体育館が使えない、校庭でも遊べない、じゃあどうする?教材なども、すべて流失してしまい無い、じゃあ、どうする?っていう時に先生方がこうしたらいいんじゃないかと、無い所で何とかしようという事でいろんな良い考えをたくさん出していただき、ないからこそ先生方が考えを集めて絞り出して活動できてるな、と1年間思いました。例えば、講堂で体育ができない。ではどうしましょうか?いろんな方法があるとは思います。屋上は空いているからそこにマットを広げても大丈夫なんじゃないか?そういうふうにいくらかでも工夫する。他には、私達も苦しい思いをしたけど、幼稚園保育所の子ども達も苦しい思いをしているから、「私達が作ってきた劇を保育所に見せに行きましょう。」っていう事も出てきたんですね。子どもからも先生からも、受けた恩を他の人にも返すっていう、受けた心を他の人にも広げてあげようっていうようなそういう発想も生まれてきました。
感謝のメッセージ
 4月10日をめどに避難所を閉鎖し、学校を明け渡していただきました。これもかなりスムーズに出ていただきましたので、その後は学校の再開に向けて職員でそれに集中して取り組むことができました。
 学校の方を片づけたり、新学期の準備をしたりということで、4月21日に始業式を迎えるわけですけれども、その後はたくさんの支援をいただきながら、自衛隊の方の手伝いをいただいたり、消防団の方、その他ボランティアの方々のご協力をいただきながら、不便ではあったんですけれども、何とか自分の学校で学習活動が進められるところまでこぎつけました。
 給食は幸い最初の日から、一応は出していただいたんですが、最初はパンと牛乳と簡単なデザートだけでした。でも子ども達にとっては、久し振りの給食、しかも当時は家庭でもあまり食べるものがなかったので、残す子もいなくて、むさぼる様に食べる子もいて、そういった事が印象的でしたね。その後、品数が少ない給食だったんですけども、支援でさくらんぼをいただいたり、りんごをいただいたりみかんをいただいたり、ハンバーグを出してもらったり、結局いろんなご支援をいただいて子ども達の栄養面でプラスになるようにしていただいて助かりました。その後、市の配慮で弁当の仕出しが始まりましたので、又あったかいご飯であったかいおかずが食べられるのがとてもうれしかったですね。

熱海 有紀 10代 女性
 大曲小学校にて被災。当時、大曲小学校の5年生。
(平成24年11月1日  東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 学校にいました。卒業制作が完成している人と、遅れている人で別れていて、自分の作品は遅れていたので、学習室っていう自分たちの教室の隣でやっていました。15人ちかくはいたと思います。教室は3階だったんです。担任の先生が来て「落ち着きなさい」って言われたんですけど、みんなパニックになって、揺れが収まったら、みんな泣いているというか・・。私は泣くというよりも、何が起きたんだかわかんなくて、びっくりしていました。
 お母さんが迎えに来て弟と一緒に、車で家に帰りました。うちは農家で、ビニールハウスがあったので、「とりあえず片づけるから、そこにいなさい」って言われて、そこでしばらくじっとしていました。「ゴー」って工事現場で重機を動かすような重い音がしてきたんですよ。そしたら、黒い水が来たんです。音だけだと思ったら、実際には津波が押し寄せる音だったんです。ビニールハウスの後ろの方にもう、水が来ていたんです。お父さんが「津波だー!」って言って。家に来いって言われなかったら、自分たちじゃ動けなかったと思います。家に靴で上がって、水が来たら、あとはあっという間で。
 うち、2階がないので、逃げ道ないなと思ったら、おじいさんが「屋根裏あっから、そこ上がれ!」って。屋根裏の隙間から見えたんですけど、もう、外が津波で・・・。1階の家の障子の上くらいまで水がきました。あっという間でした。
 結局、そこに一晩いました。次の日の朝になって、はじめて外に出ました。みんなで歩いて大曲小学校に避難しました。

イグナルファーム
阿部 聡  30代 男性 イグナルファーム代表取締役
武田 真吾 30代 男性 イグナルファーム常務
(平成25年6月27日 事務所にて取材)
被災体験談
阿部 聡 
 震災当日は仕事をしていました。揺れが収まって、まず、下の娘を大曲浜保育所に迎えに行きました。トラックで行ったのですが、道路が渋滞していたので、田んぼの中を車で走って行きました。子どもを引き取り、自宅に連れてきました。その後、自宅から奥さんと子どもとばあちゃんを車に乗せて、近くの大曲コミュニティセンターに行きました。ここが避難所になっていて、人が結構避難していました。私は、そのまま家に戻りました。地震で電気が止まったので、トンネルをかける(ビニール等でトンネル状に覆う)作業、寒さ対策をするつもりでした。電気が止まったことで保温カーテンが止まってしまって、きゅうりが全滅すると大変だと思いました。親父の施設のきゅうりはもう収穫期に入っていたので、こっちの施設だけでも助けたいと思って、親父と二人でトンネルかけをしていました。それが3時頃ですかね。
 ちょうどその作業が終わって、親父が外に出た時、親父の叫び声が聞こえてきたんです。「何だか叫んでんな(何か叫んでるな)」と思ったんです。でも、あんまり気にせずにいたら、足元がズボズボになってきたというか、サーッと水が流れてくる感じで、地震で液状化になったのかと思いました。そこでハウスのドアを開けてみると、そこには真っ黒い、なんていうか、水はあまり見えなくて、家のがれきとか、車とか船が壁のように迫ってくる感じがしました。うずを巻いてくるように見えたんです。私は逃げようと思ったところで、もう逃げられる状況ではなくて、近くにあった電信柱につかまったんですけど、そのまま120~130メートルくらい流されました。近くにあった電信柱にしがみついて、難を逃れました。あの日は、日中暑かったので軽装だったんですけど、外に出るときは寒かったので、ジャケットを羽織っていました。それが津波にのまれた後は、(水を吸って)すごく重いんですよ。水の下では網とか、がれきとかが足にからまってくるので、流されながら、足にからみついたのを取って、上のジャケットも無理やり脱いで、泳いだんです。
 電信柱にしがみつきながら、いろんな人が流されてくるのを見たんですよ。30~40メートル先に雑木林があって、そこから、お母さんと子ども二人、おじいさん、おばあさんらしい人の「助けて 助けて」って声がして、何とか助けないとと思って、またダイブしました。ところが流れが逆で、泳いでも泳いでも、それ以上は前に進まないんですよ。だめだな、と思って、また電信柱に戻って。雪がすごくて、ジャケットも脱いでいるし、寒さで手も動かない感じで。電信柱に上ったとき、携帯電話が動いていたんです。以前、施設の水槽に携帯を落としてしまって、それ以来、携帯を防水にしました。そこで奥さんにメールをしました。その後、災害用伝言ダイヤルを見たら、「大曲コミュニティセンターにいます。無事です」と入っていたので、子どもたちは無事なんだろう、と思いました。コミセンは頑丈だし、中も高いところがあるし、安心だろう。あとは自分だけだなあと。水の勢いが少しずつ治まってきたとき、身体は動かなかったんですけど、また水に入りました。5メートルくらい先に民家があったので、そこまで行って窓枠にしがみついて、ガラスを割って中に入りました。どこかのおじいさんが流されてきたので2階から手を伸ばしてひき上げました。そこで、おじいさんと二人で一晩過ごしました。
武田 真吾 
 私も、代表と同じくきゅうり栽培をしていましたので、地震が起きた時はきゅうりを守るためにカーテンを閉めたりしていました。代表のところとは栽培状況が違って、もう少し大きかったので、カーテンを手で閉めるだけで済んだので、そのまま消防団のほうへ向かいまして、地域(立沼)の安否確認のために、ぐるりと一回りしました。その後、立沼の消防団の詰め所で、今後どういう動きをするか、連絡待ちのような状況でした。その時にもう、松林の方から津波が来るのが見えまして、松林の松が津波の勢いで上空のほうへ飛んで抜け出るのが見えました。それで消防団も「危ない」ということで、連絡もなく散らばって、家族のもとに戻りました。
 私の家には、まだおふくろとおばあさんとおじいさんと子ども2人がいました。もう一人の子どもは幼稚園にいました。津波が来ているのがわかっていたので、うちは平屋なので屋根の上しかないと思って、トラックを(家のそばに)着けて、「屋根の上に飛び乗れ」という指示を出しました。ところが、その間にも津波が30センチほど来ていたので、おじいさんだけが作業場に流されてしまったんです。おふくろと妻に子どもたちを任せて、私はおじいさんのところに行ったんですけど、見る見るうちに首まで水が来まして、おじいさんと二人で丸太か何かで足が挟まれ、身動きがとれなくなったんです。私は身長が大きいので大丈夫だったんですけど、おじいさんはぎりぎりで、水も飲み始めていました。 そうしているうちに作業場が津波で崩壊して、ドーッっと一気に水が抜けたんですけど、その瞬間、私だけが流されてしまって、おじいさんは足が挟まったままでした。作業場から一気に水が抜けたことで、私は立てる状況になったんですね。水は腰くらいまでで。そこで裏から屋根に上って、もう一回おじいさんのところまで行ってトタンをはがして、おじいさんを引き上げようとしたんですけど、もう水もたっぷり飲んでしまったようで。そこから人工呼吸をしたのですが、だんだん水かさも増してきて、おじいさんを引き上げようとしても一人の力ではなかなか無理で。おふくろにも来てもらって、1時間から2時間位ずっと引き上げようとしたんですけど、もうおじいさんもグダーッとなっているし、こっちも身体が冷えて危険だとなって、やむなくそのまま・・・。
 雪が降ってきた段階で、屋根の上におばあさんと妻と子ども二人がいました。そのうち吹雪になってきて、平屋の三角の屋根が土壁だったので、そこに穴を開けて屋根裏に全員を入れました。それからおじいさんのところへ行きました。それでもだめで、自衛隊とかのヘリコプターが回っていたので、懐中電灯などで信号を出したんですけど、なかなかわからなくて。そのまま夜が明け、おじいさんは、そこに遺体があることがわかっていたので、翌日、自衛隊の人に来てもらって、引き上げてもらいました。

佐々木 栄子 70代 女性
 大曲字下台
(平成25年6月27日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 地震の時、好文館(高校)の前の方の高校の同級生の家でお茶飲みしていたんですよ。地震になって、慌てて出ようと思ったら、隣の家に岩の塀があって、危ないからって出ないで、玄関で2人で手をつないで、地震がおさまるのを待っていたんですよ。それで私、すぐにラジオ!と思ったんですけど、家中の物が全部ひっくり返って、探せないので、車のラジオを聞きに行ったら、もうすでに「6メーター以上の津波が来ますから、すぐに逃げて下さい」って東北放送で話していたんです。それで、私すぐ、友達の方に戻って「私、家に帰っから!」って。
 海から遠く離れた方に行きたいと思って。大街道の大通りに出るまではわりと簡単に出られたのですが、大街道はもう、その時すでに渋滞していたんですよ。それでもやっと中に入れてもらって。その間にも余震が来て、すごい揺れて。やっと大街道の橋まで来たら、そこから車が動かないんですよ。一時も早く帰りたい、海から離れたい、っていう気持ちはあったんですけど。そしたらね、ちょうど止まったところから運河も見えたんですよ。今思えば運河の水は少なかったんですよね。それが普通だと思って、そして運河沿いを見たら、車が1台も走ってないの。それじゃ、ここを突っ走ればどっかに抜けられる道あるかなって思って、そこを行ったんです。でも上流っていうか、釜にもうひとつ橋があるんですけど、あそこもつながっている(渋滞している)、あ、ここもだめ、んじゃ向こうに行こう、ってことで、工業港の方に行って、あそこも45号線抜けるけど、あそこもつながっている(渋滞している)。
 そしてどこも行くところがなくて、もうこうなったら車を捨てて、向こうに行こうって。それも後で考えれば、甘い話ね。浜の橋(下浜橋)まで行く間に、あとで計ったら800メートルあったんです。釜の橋(定川橋)は30センチくらい段差がついて車が通れなかったの。それで重吉組さんの歩道に車を捨てて、そして傘をかぶって(さして)、あの時はもう、ぼた雪が降っていたもので、がばん(鞄)しょって(背負って)、あそこから走ったんです。なにせドジだから、気持ちばりあせってね。走ったり歩いたり、走ったり歩いたり。そのうちにもう、矢本の方から石巻へ向かう車がじゃんじゃん来ていたの。走りながら私、こんなことしても、って思ったんですけど、途中まで来ても、戻れないんですよね。つながっていた(渋滞していた)ものですから。
 それで私が浜の下浜橋に着くか着かないうちに、津波の第一回目が来たんですよ。ものすごい音をたててがーっと来て、「えーっ、どっから(どこから)どこに逃げよう」って感じで。とにかく逃げ場所がないから、大曲の方に、45号線の方に向かって行ったんですけど、あそこにつかまるものは何もないです、田んぼだから。しょうがないから、ガードレールの一番はしっこにつかまって、第一波をやり過ごしたんです。でも橋にぶつかるのと、瓦礫で、一回にどっとこなかったんですよ、津波が。それで膝下だけ濡れて、一回目はおさまって。
 そしてそこに車がずっとつながっていた(渋滞していた)んですけど、たまたま私がつかまったガードレールのところに止まっていた車、全然知らない人ですけど、「おばちゃん、早く乗れ!」って言われて。それで乗せられて、助かったんですよ。それで一晩そこに乗せてもらって。男の人たちが2人乗っていたのね。でも後でどこの人か聞かれたんですけど、車の色も知らない、作業服を着ていたのだけ知っていたんですけど、どういう色の作業服だかも知らない。一応、お礼を言いたいと思って、その人たちにね。自分では探しようがないから、石巻かほくの「被災者はいま」ってところに電話して、取材を受けたんですけど、その時に聞かれたのに全然覚えていなくて。
 夜ね、あっちこっちからうち(家)が流れてくるの。「えっ、このうちどこのうちだい(この家はどこの家だろう)。あぁ、また車、トラック」って。あとはトタン屋根だけ浮いて、そこに3人くらい乗っかって流されんのも見えて。なんともしようがなくて、ただ見ているだけで自分も怖いし。車は橋のたもとの一番はしっこから12メートルくらいですか。そこはたもとだから少し高いので、それで助かったんです。そこで一晩過ごしたんです。私も膝下が全部濡れていたものですから、寒いし。後ろの席の片方の椅子がもう濡れていたので、濡れてないところに座って。腰掛けたままだから足を動かしたくなって、窓際に伸ばすんですけど、窓にやれば足が冷たいし、寒いしで、もうどうにもならなかったですね。2人は同じ職場だったみたいです。石巻の人みたいな感じ話していました。その人たちは携帯が使えてね。でも、「大丈夫だから」って言ったきり使えなくなって。うちでも携帯に息子からも姪っ子からも来たんですけど、来ただけで、あとはプツッと切れて連絡もとれない。
 とにかく車に一晩いた時の辛さは地獄でしたね。もう、次から次へ。「あー、また水ひいたから、また来るよ」って言われて。橋のたもとにダンプが横たわっていたの。危ないと思ったらダンプに上がって、って言われて。でも、水は大して入んなかったの。水掃きしたくらいでおさまったので。そこには車の中に人がいっぱいいたの。田んぼの平らな方は全部流されちゃったので。次の日、探して歩いた時、横沼の方まで行ったんですけど、ものすごい車でしたよ、あそこ。
未来に向けて
 とにかく震災後、赤井に住んでからは、ひとりになって家にいたんではだめだ、って思ったから、進んでいろんなグループに混じって。陶芸教室にカラオケに婦人学級に、あと、ゆぷと(健康増進センター)にも行っているから。それで、みんなでわいわい言って、お茶を飲んで、そういう時だけでも忘れられて、助かりました。もう、とにかくひとりでうちにいてはだめだな、って思ったんで、自分から、進んでいろんなところに混ぜてもらって。たまたま高校の同級生が、うちの近くの後ろの方だったの。あと、中学校の同級生がひとりで赤井南小学校の近くにいるので、その人もちょくちょく遊びに来てくれるし。ひとりだから来やすいんだね、遠慮なく来られるから。うんと助かりました。いろんな話をしているうちに、一時でも忘れられてね。おかげさんでね、赤井の人たちにも知り合いが多くなって。みんなに助けてもらってね、なんとか元気になって。
 息子は群馬にいるのですが、次の目標は家を建てることですね。東矢本駅のところは7月くらいから埋め立てをするみたいですけど、結局、ひとりだから駅の近くにいないと不便なんです。何かって言えば駅が近いと便利でしょ。息子も結婚してなくてひとりだから、お父さんにもらったお金で家を建てて残してやろうかな、って思ってね。こっちにお墓もあるし。こういうふうにしたいと思うんだけどどうなの、って言ったら「いいよー」って言うから。小さい家ですけど、建てようかと思って。それを楽しみにね。とにかく、元気にいなくちゃいけないと思うから。ゆぷとのプールの中でウォーキングをして、お風呂に入って、寝るばり(寝るだけ)にして帰ってくるんですよ。なるべくそういうのは参加して、動いてないとだめだなぁと思ってね。

小山 松子 70代 女性
 東松島市大曲
(平成25年8月21日グリーンタウン矢本仮設住宅ひまわり集会所にて取材)
被災体験談
 近所の海苔屋さんに行っていたんですけど、地震後、その海苔屋さんの家から「すぐ家に帰って、様子を見てきて」と帰されたものですから、そのまま帰りました。(自宅は)すぐ近所なんですけど、ブロックや塀が倒れているから、なかなかたどり着けないのね。でも、ちょうどぐるぐる、そっちこっち歩っているうちに、通れる所があったので、そこを通っていたら、うちの旦那が犬を連れて、門の所に立って「津波来るから、逃げた方がいい」と。そのまま車に乗って、高台の小松台の方に逃げました。津波とか何にも見ないし。山の方の高台に2日間、車で寝泊りして。それこそ星空の、寒い雪の降った日でしたね。寒かったんだけど、ラジオは聞けないし、どうなっているのかな?と思うだけで。2日後、近くの津波が来ない場所に娘の家があるものですから、そこに行く途中に、浜の自宅の前にある運送会社の運転手さんに会いました。「まっちゃんの家もそうだけど、大曲浜はもう全部流されて、何にもないよ」って言われて、その時は「えー!」と驚きました。津波も何も見なかったものですから。そこで、見ないことにはわからないと思って、行ってみようと思ったけど、やっぱり入れませんでした。一面津波のあとで。

内海 義雄 60代 男性
内海 聡子 60代 女性
日野 順子 40代 女性
(平成25年8月21日グリーンタウンやもと仮設住宅ひまわり集会所にて取材)
被災体験談
内海 聡子 
 私は車で土手沿いを走っていた時に、津波が来るとは思わなくて。みんないないんですよ、逃げて。私くらいじゃないかな、浜を車で走っていたのは。45号線や大曲小学校に行く車は数珠つなぎになっていたの。私は逆走していたのね。家に戻っているから。それで「何でこんなに、数珠つなぎになっているの?もしかして、津波が来るのかな?」と思いました。ラジオも聞いてなくて。
 家に帰って、全員がいないっていうのを確認して、今来た道は駄目なわけだから、自衛隊側を通って帰ろうと思った時に津波が来た。気づいた時は、2階から(水が)落ちてくる瞬間。そのまま流されて川に落ちたけど、運よく沈まなかった。その時初めて、津波って上から来るんだと思いました。とんでもない誤解ですよね、私も。
日野 順子 
 私は2本ある道路の途中にいて、止まっていて駄目だった。車ごと、どんというのが来て、反回転しそうで元に戻って、そこから横回転しながら、もうどこが北か南かわからない状態でくるくる回っていました。そこから流されたところが田んぼの中の1本道路なので、民家まで行くのに結構あるんです。民家までたどり着いて、民家の農機具とかがある倉庫の屋根、1階よりちょっと高いのかな?そういう所が目線にあったんです。雨どいが見えたので、車に積んであった傘を引っ張って、小学校6年生の娘を「車の屋根からそっちに上がりなさい」と上げて、自分はどうやって上がったか記憶にないんですけど上がって、傘で一晩風と雪をしのぎました。みんなはどこでどう助かっているのか、ここだから助かったんだよ、というのはないと思います。
内海 義雄 
 皆助かってきたからだけども、本当にその人の運ということで済ませるんだか、自分の判断が適切だったから助かったのか、ってことだよね。生きてきた人は。私は津波ひとつも見てないんですわ。あの揺れだから「これは津波が来る」それ一心ですわ、頭の中。これは完全に来る。それで、家中見てもいろいろ倒れていたけど、「まあ、いいや」と玄関だけ閉めて、ばあっと逃げているんです。ところが、私がいたから(奥さんは)家に1回見に来ているの。それで戻った人は、ほとんど亡くなっているんです。私も途中で友達と会っているんです。「津波が来るぞ。だから行かない方がいいんじゃない?」と言ったら、「奥さんもいる、孫もいる、娘もいる」と言って、行ったらみんな亡くなっていて。娘1人だけが、若いだけに助かったっていうか。

井口 武彦 70代 男性
 東松島市大曲字下台
(平成26年1月30日 図書館にて取材)
被災体験談
 3月11日は、午後1時頃からロックタウン(小松字上浮足)にいました。サンデー(ホームセンター)に灯油を買いに行きました。灯油を車に積んで、そのあと湘南(書店)に入りました。そのとたんに地震がきて、パニックになっている女の子を連れて外に出たのですが、6人くらいで収まるまで輪になっていました。時間としては4分くらいだったかなあ。長かったですね。地震の衝撃で、サイドブレーキを引いていたにもかかわらず、車が動き出していました。その後、我に返って「おらいにががいだなあ。(うちに奥さんがいたなあ)」と思いだし、地震が収まってから自宅に戻りました。立沼の方に行く「アンダーパス」にヒビが3か所入っていたんですけど、とにかく家まで、かなりの揺れの中を帰りました。
 うちでは家内がテレビを(倒れないように)抑えた状態でいたんです。洗濯用の物干しが倒れていたりしました。孫がいるので、大曲浜保育所に母ちゃん(奥さん)と一緒に迎えに行って、孫を引き取ってから、もう一回家に戻ってきたんです。その時は津波が来る10分くらい前だったのかなあ。孫は当時4歳。男の孫です。ちょうどお昼寝の時間だったので、パジャマ姿だったんです。それで、一旦戻って毛布と着替えを持って車に乗せて、またロックタウンに戻ったんです。5分くらいして(矢本)一中が避難場所となっているので、そこに避難するんですが、その前に、自衛隊の入り口(正門)のところで、車をバックで止めて、ものの3分もいたかなあ。そのうちにパトカーがきて、「津波が来ましたー」というのを聞いたんです。「やばいなあ」と思って、そこから(ロックタウンへ)逃げて行ったというわけなんです。津波が後ろから来るのが見えたんです。小さいがれきとか、田んぼの苗代とかが車に巻き込まれていて、水は直接来なかったんですけど、ただ後ろには真っ黒くて背の高い水が見えました。戻った時は国道からまっすぐ下町の方に向かいました。渋滞にもなってなかったです。ロックタウンに着くまでに、どこにも水は来ていなかったんです。自衛隊の前で、うちらの車には被害はなかったので、水は分散したのかなあ。


川島 弘 40代 男性
 かわしま歯科医院
(平成26年10月17日かわしま歯科医院にて取材)
被災体験談
 あの日は2時から診療が始まりまして、3名の患者さんがいました。皆、中に入って治療中だったのですが、揺れが今までにない位すごい大きかったし、宮城県沖地震も体験しているんですけどそれよりも大きいと思いました。ユニット全部起こして椅子から皆さん降ろし、しゃがんでもらい揺れが収まるまで待ってもらいました。物がけっこう倒れ、今まで地震来てもそんな倒れたりカルテが散乱することはなかったんですけど、これは尋常な揺れじゃないなと思いました。患者さん3名いたので、2名の方は自宅が心配だということですぐ帰宅していただきました。1名は一人暮らしのおばあさんで心細いから落ち着くまでここで一緒にいさせて下さいってことだったので、電気も消えちゃったので待合室にみんなで集まり、ラジオをずっと聞いて待機してました。津波が来るという無線はならなかったと思うんですよ。まさか津波が来るとは全然思ってもなかったので、外に出て隣近所の方とお話していたら車も渋滞で進まないし、家で落ち着くまでみんなでいようかと中に戻りました。
 30分くらいして外が騒がしくなってきたんですよ。「何かおかしいな」と思って、出て聞きに行ったら「津波が来るみたいだから小学校にすぐ逃げて下さい」という話を聞きました。あわてて中に戻って半そでの白衣だったので防寒のコートを着て、スタッフにもコートを着させて、患者さんのおばあさんを背負って学校まで走って行きました。学校に行って、そのまま体育館に入ろうと思ったんですよ。そしたら1階じゃ駄目だから、2階より上に上がって下さいということでした。校舎に入ってそこから10分もたたないくらいですかね、「わあー」と外から声が聞こえてきたので「なんだろう?」と思って外見たら、もう津波が来て車が全部流されて行くのが見えたので、これはただごとじゃないなと思いました。小学校に水は来ているんですけど、自分の診療所は大丈夫だろうと頭の中で感覚だけはずっと残って、夢なのかなみたいな感じでその日は小学校で一夜を明かしました。
未来に向けて
【質問】これから震災時に口のケアはこうしようとか、今まで我々も考えてこなかったようなところを考えるようになってきているのかなと思うんですけど、歯科医さんの立場からはどうですか?
 震災あってみて、歯磨きできないという人がけっこういるのが多かったので、震災後集めて小学校に歯ブラシとか何個か持って行ったんです。その辺、在庫とか置いておければ一番いいのかなと思います。シートで拭くのも応急にはなりますけど、やらないよりは全然いいです。ガーゼだと目が粗いのでけっこう汚れが取れるので、そういうのを代替して使ってもらうっていうのも広めて行ければいいのかなと。そういうやり方ありますよとわかれば、歯ブラシなくても口のケアできるので。
【質問】先生ご自身が震災後これは自分の中の変化かなとか、仕事に対して自分はこういうところが変わったなとかいうところがございますか?
 仕事は震災前とスタンスはそんな変わってないと思うんですよ。ただ生活の方は、前は自分の好きな物、趣味の物であったりそういうのにお金かけたりしてたんですけど、今は質素になったというか、車も震災で流れて無くなって中古買ったんですけど今もそれ乗っているんですよ。前だったらすぐにでも新しいのを買ってたんでしょうけど、そういう所も何故だか自分でもわからないですけど・・・命がやっぱり一番重要だと思うようになったのかな。お金だけあっても、命なくなってしまったら駄目ですし。
【質問】先生のこれからのお仕事の上での目標を伺っていいですか?
 仕事は無理はしないで、周りの地域の人たち来てくれる人たちの口の中の健康を見ていって、よく噛めるように。震災前はばりばりとやっていたんですけど、震災後は体が壊れちゃうと駄目だっていうのもあるし、ペースを落としてやっていけたらいいかなと思います。
あんてなしょっぷまちんど 千葉 ゆき 40代 女性
(平成27年3月17日大曲店にて取材)
被災体験談
 当日は矢本店で普通にお仕事してまして「あごら」(飲食店)の方はお昼もやっているので、休憩時間が2時から3時までなんですね。その1時間の休憩の時間に震災が来たんです。スタッフ3人で食事をとっていたらすごい揺れがきて,電気は消えるは、冷蔵庫は倒れるはで入口の柱に3人でつかまっていた状態でした。またすごい揺れがあって、社長が来て「大曲浜に6メートルの津波が来るから早く帰りなさい」ということで帰りました。
 私は娘が二人小学校にいたので、赤井南小学校の方へ向かったんです。お姉ちゃんは(学校に)いたのですが、下の子は早く帰ってしまって(学校には)いませんでした。車で学校を出ようとしたら避難してくる車が多く出れず、走って家まで行きました。そしたらおじいさんの車に下の娘が乗っていたので一緒に南小まで戻りました。そこでやっと子どもと会えたのですがお姉ちゃんがジュースをこぼしてしまい(服が)濡れて寒いと言うのでもう1回家に戻ったんです。毛布を取っているうちに、隣の農協さんの方から黒い水が流れてきて「まずい」と思って、毛布を持って南小に向かったんですけど、もう小学校の廻りは水に浸かっていました。その時はあわてていて考えられなかったんでしょうね。有明の方から行けば行けるかなと思って、ぐるっと回ったんですけど、もちろんそこも前から水が迫ってくる感じだったんです。水に呑まれながらバックをして、道路が冠水して見えなかったので電柱にぶつかりそうになって止まった時に、右側に有明集会所に行く公園の前の道路がちょっと見えてたんです。そっちの方に行ったら、知っている保護者の方たちがいたので、「南小に行きたいんですけど」と言ったら「もう行けないよ」と言われ、そこ(有明集会所)で一夜を過ごすことになってしまいました。でも子どもたちは南小の体育館で、おじいさんはおばあさんを迎えに家に帰りもう南小に行けなくなったので家の2階で、その当日はみんなばらばらに過ごしたんですね。
感謝のメッセージ
 私たちも、震災の次の年の2月から8月まで銀座の方に毎月1回ずつ2泊3日で復興市みたいなイベントに行きました。そこでボランティアさん達に応援していただいて。今できることって何だろうみたいな感じで、私たちはアンテナショップなので、地元のPRの仕事だったので。とにかく今「復興に向けて東松島頑張ってますよ」ってことを関東の皆さんとかにPRできるよう毎月行くようになったんです。東松島だけでなく東北復興みたいな感じのイベントだったので、デパートの軒先でやらせてもらいました。
 一般の方々にも励まされたのもたくさんありましたね。テレビで悲惨な情報が流れていたらしいですけど、「すごかったわよね」ってことで「頑張って」と言われることが多くて、それも励みになって毎月頑張って東京まで行ってたんです。そういう温かい言葉がすごく身にしみましたね。ボランティアさんも涙を流しながら「大変なのにそんなに元気で・・・」と言われたり、でもそうやって応援いただいている方々が一生懸命私たちのためにやってくれたからなので、本当にありがたかったですね。
未来に向けて
 アンテナショップは地元の人が、こんなに(地元に)いいものがあるってことをわかって他から来た人にPRでき「あそこに行けば何でもあるよ、わかるよ。」っていうような場所にしたいし、もちろん地元の人も集まってきてほしいです。それはアンテナショップを始める時から思っていることなんです。県内外全部みんな集まれる所になればいいかなと思ってます。今後も友好姉妹都市の物も置いてますし、派遣職員さんの所も帰ったとしても根強いファンの方もいらっしゃいますし、そこの繋がりもせっかくつないだ繋がりなので断つことはなく続けていきたいなとは思ってます。震災の時はいつもやってもらうばかりで、もう3年4年と経っていくにあたって自分たちでやらなきゃないという気持ちにみんな切り替わってきてるので、私たちも何か一緒になって自分たちでやっていかないと復興というものが見えてこないですよね。そこのところは頑張りたいなと思ってます。
小野市民センタースタッフ
(平成24年7月11日 小野市民センターにて取材)
被災体験談
高橋 広美 40代 女性
 勤務中に被災
 当日は所長と事務長と管理人さんと私の4人が勤務していました。揺れがおさまった時、防災無線で大津波警報が出ていたので、最初は片づけをしていたのですが、散らかった様子を記録し、写真を撮りました。小学校に子どもがいるし、牛網に実家の両親がいるので気になり、帰らせてもらいました。バッグに着替えとか非常食を持ち、親を迎えに行き、高台の小松台に避難しました。早かったので、道路は渋滞していませんでした。夕方5時位に戻ろうとしたのですが、アンダーパスが通行止めになっていて、戻れませんでした。家族6人で車の中で過ごそうとしたのですが、他に車に乗っている人たちも、婦人会の方が声をかけてくれ、分館の中に入れてくれました。その日の夜もおにぎりをいただき、次の日は外でさんまを炭火焼きしたりしてご馳走になりました。毛布も近所の方が貸してくれ、親切にしていただき、すごくありがたかったです。そこで2晩お世話になりました。
 避難所には、一番多い時で260人いました。最後は市営住宅の方々の家が直るまで、8人が9月1日までいました。最初の何日間は夜中でも避難して来る人や、安否確認で人が来ていましたので、受付に交替でいました。交替で事務所に寝ていたのですが、なかなか寝られなかったです。最初は声がけして、水汲みやご飯作りの手伝いをお願いしていました。トイレが大変で、夜は真っ暗で見えないので、受付の所で懐中電灯で照らしたりお年寄りや怪我している人はおぶったりしていました。朝になると、凄い事になっていて、仮設のトイレが来るまで大変でした。避難者の方々に、わりと早い段階で部屋ごとに係を決めてもらって、動いてもらいました。電気は3月末には来ていたのですが、4月7日の地震でまた停電になりました。水が出たのは4月26日でしたが、3月中は給水車が来て、米軍のシャワーも来ていました。水が出るようになると、施設もきれいになりますね。
門馬 美樹子 30代 女性
 仙台へ外出中に被災  
 (震災当日はセンターの仕事が)休みだったので、午後から友達と仙台港の夢メッセでイベントがあったので行っていました。凄い揺れで、私と友達とその子どもといたのですが、揺れがおさまるのを待っていたら周りは人がほとんどいなくなっていました。外に出て携帯でテレビを見たら、津波が6メートルとの予測が出ていたので、「ここはまずい」とすぐ車に乗って逃げようとしたのですが、信号が止まっていて、産業道路はすごく混んでいました。何とか45号線に出て塩釜に抜け、利府に出ました。そちらも、すごく混んでいて松島あたりも水が上がっていて通れないと言われたのですが、お互いの子どもが小野小学校にいるので、迎えに行かなくてはならないので、何とか帰りました。
 私たちは、小野小学校の前の道が水が上がって通れなかったので、そのまま大塩市民センターに行きました。大塩も避難所になっていたので、友達は部屋の方に避難してもらい、私はお世話係のお手伝いをしました。夜中に牛網保育所から子ども11人と先生10人が避難してきました。婦人会の方が握ってくれたおにぎりを配ったりしました。夜は寒かったのですが、病気が心配だったので、窓を開けて換気をして回ったりしました。
 次の日、水が引いたと思い、小野に戻ったのですが、郵便局のあたりは水があり、ざぶざぶと水の中を車で行きました。小野市民センターに行き、うちの旦那と子どもたちと数人は2階の視聴覚室に避難していました。大塩市民センターでお手伝いをしていたので、同じように受付を作り、避難者に住所と名前を書いてもらいました。お年寄りと怪我をしている人は和室で、それ以外の人は講堂にと分けていました。所長と事務長と管理人さんと市の職員が1~2人いました。私もここに勤務して、家族も避難していたので、ここが住居になっていました。高橋さんとは連絡が取れず、心配でログボートを出しウエットスーツを着て家まで探しに行きました。4日目に来て会えた時にはほっとしました。
未来に向けて
門馬 美樹子 
 今年は市民センター活動は増えましたね。趣味の教室は、仮設に支援の方が来ているので、ここで受講料を払ってまで参加する人はなかなかいなくて、開講できない状態ですね。生涯学習課のプラットホーム事業、みんなが元気になってくれる事業、いろいろ支援してくれる方の会場提供のみしたりしています。ここは拠り所なので、ものとかお金じゃなく、そういう形で支援、発信しています。避難所の時に避難していた人だけでなく、自宅にいた人も情報を聞きつけて参加してくれたりしています。家にいて片づけばかりしていると、頭がおかしくなる、ここに来れば楽しくなると来てくれます。市民センターが地域の人に近づいた感じで、近くに来れば顔を出してくれ、人がたくさん来てくれるようになりました。

辺見 園恵 女性
 牛綱保育所(東松島市牛綱字上四十八27)で勤務中に被災
(平成24年7月27日 小野保育所にて取材)
被災体験談
 地震が起きた時は子どもたちはお昼寝の時間だったのですが、子どもを集めて頭の上から布団をかけました。揺れが収まるのを待っていたんですけど、すごい揺れでした。所長の指示で、子どもたちをホールに集めました。津波がきたということで、所長が子どもたちを押入れに入れようと言いました。それで押入れに入れて、サッシなどを閉めることは閉めたんですけど、戸を閉めてもいたるところから水があがってきました。駄目だと思い、私はみんながいるホールのほうに向かいました。押入れがいっぱいだったので。他の先生はピアノに登っていて、早くと言われ、私も登ろうとピアノに手をかけた時には、腰まで水に漬かっていて、上がれと言われても、上がれませんでした。でも、たまたま水がきて、体が浮いたので、足をピアノにかけて、上に登りました。子どもたちは押入れの真ん中のところに上がったんですけど、水位が上がってきて、水に漬かるようになっていました。これでは駄目だから、押入れの天袋に入れようと、背の高い人が、季節の行事用の衣装ケースを出して、一番身軽な人がそこに登って、子どもたちを引き上げました。大人たちは押入れにあがったままで、天袋の柱につかまって水を凌いでいて、私たちはピアノの上に立った状態でした。
 ピアノの上から外を見ると、雪がすごく降っていて、水がごうごうと流れていました。庭に停めてあった職員の車が、1台ずつ北側に向かって流れて、自分の車も流れていきました。子どもたちもギャーとかワーとか言うこともありませんでした。大人も子ども必死だったんです。なんというかいろんな偶然があって、通常、地震があったら、(避難所になっている)学習棟に行っていたんですが、行っていたら津波にのまれて危険な状態でした。たまたまお昼寝をしていて、布団が出ていたために、押入れが空いていたということと、天袋が高くて子どもたちを入れられたことも偶然でした。あのまま中段にいたら大人はなんとか押入れにしがみつけたと思いますが、子どもたちは押入れにつかまった状態でも、駄目だったかなと思います。

高橋 恵里子 60代 女性
 東松島市内にて被災
(平成24年8月8日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 地震があった時は矢本の七十七銀行の中にいました。銀行の前に止めていた車に乗り込んだ時に車のラジオで3メートルの津波が来ます。とにかく避難して下さいって放送が流れていたんですね。でも、3メートルは凄いなと思っても、今まで経験していないから実際の津波の高さってわからない訳なんです。頭と気持ちと全部一致しない、地震が来た、津波が来る、3メートルって大きいんだろうけど、どの程度だろう?自分の身長から計算すればすぐわかることなんだけど、それが計算するまでいかないんですよ。実際は。
 自宅のほんのちょっと手前でサラサラと水が来たんです。もしかしたら津波が来たのかなって、庭の向こう側を見たら遥か向こうの方に真っ黒な高い壁が見えたんです。このまま家に行っても駄目だろうし、このままもろに津波をかぶったら、たぶん流されて死ぬと思いました。自宅の2~3軒手前の家に門柱が建ってたんですね。私の体型よりは幅があるから、もし万が一津波が来てもそれが一度は津波の勢いを止めてくれるかもしれないと思って、そこの門柱にしがみついたとたんに、津波が来ちゃったんです。でも、ばさっと来たわけじゃなく、だんだん水位が上がってくる感じで、門柱にしがみついていたんだけど、津波の勢いが強くてしがみつくのが精一杯で、波の水位がどんどん上がっていくのと一緒に門柱をどんどん上って行ったんです。どうしようこれからと思ったその時、目の前を車が流れて行くんですよ。その次は船、その次は大きな樽。木や何かが当たるんですよね塀に、どんどんと音がして。

西村 結友 10代 女性
 東松島市立鳴瀬第一中学校で被災。当時、中学2年生。
(平成24年11月11日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 地震が起きたときは、学校(鳴瀬一中)にいました。地震の次の日が本当は卒業式だったので、全校で準備をしていたんですよ。ちょうど準備が全部終わって、帰りの会をしているときに、地震が来て・・。たしか2日前にも地震があったので、そのときは普通に、「あぁ、また地震か」という軽い気持ちで。みんな、大丈夫でしょうという感じだったんですけど、やっぱり時間が経つごとに揺れが大きくなっていって・・。
 校舎の3階に避難していたので、目の前が川だから全部見えるんですよ。水が上がったり、引いたりだとか。そのとき友達と一緒にいたんですけど、その様子を見ているだけで、涙が止まらなかったです。あふれそうになっているのに、車が動かなくなった人が川沿いに立っていたんですけど、見ているこっちはすごい危ないなというか・・。飲まれたらどうするんだろうって。
 弟はそのときはまだ小学生で、小野小学校の6年生でした。(小野小に弟を)迎えに行ったんですけど、水が来てたので、今日は(帰すのは)無理ですって言われて。夜にようやく、じぃちゃんたちが七ヶ浜から戻って来て、中学校に迎えに来てくれたんです。(家には夜の)11時半くらいに帰れたんですけど、弟だけ小学校の方に泊まりました。ひとりだけで。わたしはじぃちゃんと戻りました。
未来に向けて
 辛かったことより、嬉しかったことの方が自分の中ですごい大きいです。香川県の方に友達がいて、離れているので連絡がとれなかったんですけど、連絡がついたときにこっちのことを思って言葉をかけてくれたり・・。お互いそのときは中学生だったので、やっぱり募金するにも大きなお金ってできないじゃないですか。それなのに自分のお小遣いを募金してくれたりとか。あとはボランティア活動を通して支援してくれたりっていうのを聞いたので、自分たちだけの問題じゃなくて、同世代の子も頑張っているんだなってことを知ることができて、すごく嬉しかったなっていうのはありました。

鹿野 すづ子 50代 女性
 自宅で被災
(平成25年6月13日 図書館にて取材)
被災体験談
 震災当日は、だんなと畑仕事をしていました。午前中にジャガイモ植えを終えて、ゆっくり休んでいるところに地震がきました。すぐに堤防に上がったら、近所の人もみんな上がっていました。その時、川の水がこれまで見たこともないくらい引いていたんです。川底の木とかそういうものも見えました。今までの津波は10センチとか20センチなので、私たちもそんな感じで、避難なんてことは考えませんでした。
 それから40分後くらいに堤防の下をパトカーが通ったんです。パトカーに「6メーター以上の津波がくるから逃げなさい」とお父さんは言われたようです。私たちは浜市小の校庭まで一旦行ったんですが、「校庭ではちょっと低いんではないかな」とお父さんが言い出し、矢本の滝山公園を目指そうということになりました。小野の畠山自動車(牛網字駅前)の方を通って滝山を目指したんですが、出たのが遅くて船橋電子(牛網字雉子抓)の後ろで津波にあいました。車から降りて立ったら、もものあたりまで水が来ていました。後ろを振り返ったら、2波目も来ていて、自衛隊(松島基地)の方からから浜市にかけて、一面真っ黒い山のような波が渦を巻いて迫ってきました。それを見た瞬間、自分は動けなくなってしまいました。腰がぬけたというか。お父さんには「早く歩け、歩け」と言われたんだけど動けなくて。お父さんには「動けない」って言えなくて「お父さん先に行ってて。後で行くから」とだけ言いました。お父さんは「何を言ってるんだ」と怒って、私を抱えながら国道沿いの熊野神社まで引きずり上げてくれました。その瞬間に2波目が大きく来て、車も流されました。かろうじて丘に一歩上がった瞬間に水が来たので助かったという感じでした。
未来に向けて
 今後の教訓としては、地震を甘く見ないことですね。地震が来たら津波が来るというふうにとったほうがいいですね。前の私たちみたいに「10センチか20センチだべ(だろう)」なんて考えではなく、「また大きいのが来る」と思わないと助かりませんね。逃げ場所を自分たちなりに決めておくとか、普通の時にそういうことを確認しておくといいと思います。
 我が家は集団移転を希望しないで、自分たちで何とかしたいと考えています。あえて津波が来たところを買いました。かさ上げして建てなければならないんですが、それでもやっぱり知っている人のそばがいいというか、この年で知らないところに行くのはいやですね。いつか家が建って、家から畑に出られる日がくるといいな、と思っています。子どもたちもとりあえず元気で仕事もあるので、私たちも子どもたちから元気をもらった感じです。子どもたちが働いているのに、自分たちが働かないでいられないよね、と。子どもたちは避難所から毎日毎日、普通に何も言わずに仕事に通っていました。それで私たちが救われたということですよね。

安倍 託子(あべ よりこ) 80代 女性
 東松島市浜市
(平成25年6月20日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 私いつでもね、避難訓練でも着るものとか、保険証とか全部たがえて(持って)行くのね。大きな袋に入れて。あとね、リュックに常に詰めて置くのね。長座布団2枚、どんぶく3枚、枕3個なじょして(どうやって)持って行ったかわかんないけど、とにかく持っていったんだね。隣近所さ(隣近所の人に)「浜市小学校にあばい(行こう)よ。」と声かけて。1人で歩いて3分の浜市小学校へ行ったんだね。
 私は浜市小学校に逃げて行く時に、防災無線で「大津波警報」と3回言ったのは聞いたの。とにかく3階に上がって、長座布団2枚ひいて。近所の90歳以上のお婆さんたち、何人もいるのね。牛網、浜市みんな来たんだから、たいした人数なの。300人くらい来たって言ってたね。私はまだ津波が来なかったから、下に靴を脱いで置いてきたけど、私らが上がった後からは、校長先生が「そのまま上がれ」と土足であげたのね。私は、津波は見ないでしまった(見なかった)のね。場所取るのに、座布団に座って、そこで一晩過ごしたの。
未来に向けて
 浜市にも港作った時の仕事歌あんのね。どや節って。「浜市どや節・甚句」って2つあんのね。防衛庁の防音対策で浜市はほとんど移転だっちゃ。そんで、「浜市さ残していきたい」って、私さ声掛ったのね。そんで6人で結成したの。今は、浜市小学校の生徒と父兄と運動会で踊り子してんの。どや節で。「えんやーどっと」って。あと後藤桃水まつりとか。
 こないだね、大田区さ行って来たの。大ちゃん音頭歌ってきたの。今度、仮設対抗のど自慢あんの。それでも、歌ってけらいね(歌ってくださいね)、と言われて。お天道様出ない日あっても、おれの車が動かない日はないって言われるの。
 今だにね、どこさ行ってもこの震災の話だよ。それこそ、どこの仮設に行ってもさ。私の住んでいる仮設でね、80歳5人してね、日、月、木を休みにして、夕方5時から6時までお茶飲み会やってんの。私は4畳半一つで、5人入られないから、前の家を借りて5人で集まってるの。最後に別れる時は「今日も1日御苦労さま。あはは」って3回笑って解散して来るの。

小田嶋 良枝 60代 女性
 東松島市牛網字平岡
(平成26年3月18日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 強い地震が終わってもけっこう揺れてたんですよね。そして私、宮城県北部連続地震のこと思いだしたんですよ。あの時点で7年前ですね。「これでは駄目だ、停電にもなったし。うちでご飯も何も炊けないから」って思い国道出るとすぐコンビニあるんですよ。そこに水とかおにぎり、パンとか買いに行ったんです。コンビニも停電してたのでちょっと時間かかったんですよね。何とか買って、帰りに「一人暮らしの人がいる」と思って寄ったんですけど、もう誰もいなかったんです。近所見渡しても人気がないし、「あれ、みんな避難したんだろうか?私たちも避難しよう」って言っている時に、すごい音がしてきたんですよ。何て言うんだろう、コンクリートをがりがりって削るような音。「あれ、あの音なんだろう?」って言ったら、兄が外見たんでしょうね。「あっ、もう津波来ている!すぐ2階に上がれ」って言われて、玄関鍵閉めて私たちすぐ2階に上がったんですよ。
 しばらくして妙に静かだなと思って、津波来たのは3時40分位だと言ってますよね。時間的によくわからないんですけど、平岡地区はたくさん家が建っているんですが立ち上がって見たら前の家は2階建てなのに、覗いたら妙に視野が広いんですよ。「あれ、何だろう?何かちょっと景色が違う」って「えっ、前のうちもうない!」って。それがもう流されてなかったんですよ。その前の家は平屋だったので、軒下まで水がだぶだぶってあったんですね。まだ明るいから4時半ごろでしょうかね。家は、階段の踊り場まで水が来てたのでどうしようもないんですよね。だから、下に降りて行くこともできないし、2階だけで3人でうろうろするほかなかったんですよね。隣近所の人の名前呼んでもどこの家も返事がないんですよ。日暮れてきたら、外も真っ暗で停電だから街灯も何もないでしょう。「私たちだけが避難しそびれたんだな」とその時思ったんですよね。とにかく水引かないから、下にも降りていけないし、2階に食べ物も何もなかったんですよね。寒いけど、2階には布団とかあったので、そこで一夜を過ごしたんですよね。寒いから身を寄せながらね。
未来に向けて
 浜市は行政区がなくなり、今元に戻っている人が10軒足らず7~8軒みたいなので、一つの町が津波でなくなっちゃたんですよね。それは、昔から住んでた町なのですごく残念だと思いますね。平岡地区も3分の2位移転しちゃったんです。流されたうちは1~2軒だったんですけど、浸水した家は壊して集団移転の所に行く人、自力で土地を求めて再建する人もいます。私の家ちょうど真ん中くらいなんですけど、そこから浜市側に向かって家が全部ないんです。あそこら辺みると、これから草とか生えてくると原野みたいなの。草ぼうぼう茂ってね。うちの裏側が海で、松林が海浜緑地公園から浜市までずっと続いてあんなに密集してた時は、海からうちまでがすごく遠いと思ってたのね。そしたら、松林がまばらで「こんなに海が近かったのかな」ってびっくりしたんです。1キロ以上1400メートルくらい離れてるみたいなんですよ。松林がいっぱいあって防風林、防災林になると思ってたので、まさかその松林が流されてもちろんうちにも入って来たんですよね。
 いろんな所で津波の碑建ててますでしょ。牛網でもこの前除幕式あったの。小さい町でも、牛網と浜市混ぜて80人位犠牲になっているんですよね。それは、石碑とか建ててもらって後世に伝えてもらうことはいいことだなと思いました。

石森 康夫  50代 男性
石森 さと子 50代 女性
 東松島市牛網字平岡
(平成26年3月23日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
石森 康夫 
 今まで全く経験のない位強かったし、長かったので「これは今まで考えられなかった事が起きるかもしれない」ってことで、小学校に逃げようということになりました。車で家族3人と、後ろのおばあさん(85歳くらい)を迎えに行って3人を小学校に置いてきて、またすぐ戻って。私消防団に入っているので浜市の消防団の人と二人で、浜市のポンプ積載車に乗って広報しながら、浜市の学習等施設とか鳴瀬川まで行きました。そしたら土手の上に何人かの人が上がっていて「見ろ、見ろ」って言うわけですよ。凄い勢いで川が上ってたんですね、逆流っていうか。「すぐ逃げろ」って言って、逃げてくる途中に浜市のおばあさんたち、知り合いではないんですけど、2~3人乗せて。玄関の戸を直してたり「こいつだけ(これだけ)片づけてから」とか言っているから「逃げないとまずいよ、すぐ乗れ」と二人ほど乗せて、道路歩いていた人も乗せて。そして浜市小学校に車入った時に、おばあさんたちよろよろ歩いていた人いて、もうそのおばあさん無理やり引きずって校舎の中に入ったとたん水がどかんときて、私は何とか濡れなくて助かりました。
石森 さと子 
 学校の先生が機転きかせて、停電になってすぐ車のワンセグで津波情報を知って、津波来る前に保健室から布団とか毛布、ブルーシートなど持っていったらしいですね。屋上の鍵も6年生の教室の近くに隠していたのを思い出して、下の階にあったから水没したら取れなかったんですけど、間一髪で屋上の鍵開けられたので上がれたんです。マニュアルとしては小学校の体育館が避難場所だったんです。1年前にもチリ津波の時も、校長先生が土足で3階に上げてくれたんです。「先生、掃除大変でしたね」と言ったら「この位はいいの。もちろん土足で上がってもらってよかったんです」とその時に聞いたので1年後の震災の時ももう迷わず、校長先生が玄関で出迎えてくれて「そのまま土足で上がって下さい」って言われて上がりました。
 水が来た瞬間は、子どもさんもいたしちょっと泣き喚いた人もいたんです。「ここは、耐震補強しているから大丈夫だから安心して下さい」と私たちも言って先生方も言ってくれたし、怒って取り乱すような人もいなかったので、400人いたわりには整然と朝迎えられたような気がしますね。水もみんなで持っていった水を分けて飲んでいたし、不足すると大変なので、みんなが持ってきた水やお菓子を一括して集めて、それを少しずつ分けて「じゃあ、小学生に先にあげよう」とかおばあさんたちに食べていいよとかって、一晩だから過ごせたんですけどね、それが水引けなくて3日も4日だったらどうなってたかわからないんです。
未来に向けて
石森 康夫 
 私は農家なんで、農業用の倉庫も機械もすべて駄目になりました。しかし、うちの方は平成3年から任意の組合を作ってたんですね。震災の4~5年前に会社化したんですよ。それから田んぼも圃場整備っていう大きな田んぼにしていただいたんで、震災後1年だけ休みましたけどすぐほとんど復旧しました。今一部だけが復旧できてないんですけど、ほとんどの田んぼが復旧して施設も機械も国とか県、市のおかげで一通り揃えることができました。去年一昨年と2年間も米も作れるようになって今はいちごも始まりまして、とにかく仕事は年間ずっと通して何とかあるんですね。ただ問題は今からの後継者と、それからそこで働く人たちがきちんと仕事した分だけのお給料がいただけるようなしっかりした内容にしていかなければないなと、思っていることです。
 津波かぶって、田んぼの土地力っていうのがまったくなくなってしまって、土のいい成分が全部掃いてしまったんですね。海から重金属とかいろんな悪いものも上がっているんで、田んぼの表面を全部掃いて捨ててしまったんです。また1から土造りをしてとにかく消費者に美味しいと言われる米を作って、きちんと数量も確保してそこで働く人たちの賃金がきちんと払えてってなれば、たぶん後継者も育つと思うんです。農業そのものに対して私もすごい誇りを持ってて、うちは何代も前から農家だけで食べてきたんで。とにかく頑張って頑張った分だけお金にも結果として必ず出てきますし。それはすごくいいことだと思うんで、ただ今、私の子どもたちはやらないと言ってるんで。うちの子どもたちじゃなくても誰でもいいんです、とにかく中には農家好きな人とか漁師好きな人とかいろんな人がいると思うんで。今はもう世襲みたいなのが必ずしもいいことではないし、だから農家やりたいという若い人が出てきたら地元でなくても、よそからの通いでもきちんとしていい仕事をして、後継者を育てるのが一番の目的だと思います。私は一応会社の取締役になっているんですけど、何しろみんな高齢化していて社長がもう66~67歳で私がまもなく56歳になるんですけど、いつまでも若くないんでとにかく20代30代のあとあとに受け継いでいけるような体制をきちんと取りたいなと思ってます。そのために、しっかりとした仕事をしてしっかりと稼いで利益をあげて、会社をきちんと良くして地元の皆さんからも信頼をいただいて「あそこだったらあの人だったら任せても大丈夫だね」と言われるようになりたいなと思います。

木村 茂信 60代 男性
 (有)鳴瀬葬儀社・セレモニーホール花すみれ
(平成26年7月23日 (有)鳴瀬葬儀社にて取材)
被災体験談
 震災当日は、午前中宮戸の方の自宅葬だったお宅に、8日目で祭壇下げるために行ってたんです。宮戸ですから、午前中行って助かったんです。午後からだったら、帰ってくるのが3時半か4時ですから、津波に遭って帰って来れなかったか、途中浜で津波に遭って亡くなってたか、どちらかでしたね。(地震発生後)会館にマイクロバスあるので、こっち(自宅)に持って来て、今晩余震の時はバスの中で寝てもいいと思い、マイクロバスを取りに行ったんです。その時、何気なく川を見たら水が無くなっていて、潮が引いて下がっているのかなと思ってました。会館に行って、隣近所の人たちと「大変だったね」と話して、マイクロバスを運転して橋まで来たら、水が橋の高さいっぱいまで来ていたんです。最初、理解できなくて、「あれ!何だろう?」と思って。そしたら、家は流されて来る、人は流れて来る、「えっ?えっ!!」って感じで信号青になったら一気に(橋を)突っ走りました。娘たちも、小野駅前のサンクスに買い物に来てて、川で人が流されているのを見たらしいです。私自身も、川の水が引いている様子と、実際上がってくる様子を見ました。
 災害の時には、ご遺体が体育館に集まっても、お棺とか中々入って来なかったです。だから、みんな仮埋葬という形になってしまったのです。1か月2か月経つと、体育館に置いておいても腐敗して見られた状態じゃないですからね。体育館の中は、臭いと体液ですごかったらしいです。着ていた物を、市では処理できないということで、仕方ないからお棺に入れたりして。それが、燃えなくていつまでも残るんですよね。それで釜が壊れるということで、この近辺どこでも火葬はしませんよと言われて。
 仮埋葬の方たちを、土木関係の業者さんたちが掘り起こして、棺に入れ替えしてました。仮埋葬から半年後ですから、腐敗がものすごい状態でしたので、火葬場では釜に入れてから、住職のお勤めしてました。(亡くなった)みなさん、ヘドロで真っ黒くなって同じような顔してました。やっぱり恐怖と立ち向かって、波が来て「わぁ!!」と、ほとんどの人が目を開いたままでしたね。顔がチョコレート色になって、その人達を火葬して、骨がヘドロの色に染まってきれいに焼けなかったですね。これだけは、びっくりしましたね。昔、土葬で埋めて改葬って新しいお墓作った時、骨を掘り起こして火葬するんです。その時の状態で、土の色が骨まで染みついているんですが、ヘドロも同じ状態でした。
 あるばあちゃんが言ってましたけど「葬儀屋さん、亡くなった人も可哀想だけど生きている人ももっと可哀想だ。俺が生きていて、高校生とかの孫がなんで死ななきゃないの。その負い目で夜も眠れない。これも本当に生き地獄だよ。なんで俺が助かって、嫁、孫が亡くなって、これほど地獄味わったことない。」生きている人も地獄、この言葉にはなんにも言うことできなかったですね。涙も感情も受け入れられないですね、そう言われて。これから死ぬまで、その人は一生地獄を見ていかなければならないなんて、こんな可哀想なことあるだろうかって。生きたために、逆に辛い思いをして。生きた人の地獄、亡くなった人たちの地獄。亡くなった人は、一瞬で済むけど、そのばあちゃんが亡くなるまで10年15年、それまで引きずらなきゃないのかなって。それが一番の課題でないですか。そこまで踏み込んだりできるのは、やっぱり葬儀屋だったかもしれないですね。そういう心の叫び聞けるっていうのは。
 高校生の人が亡くなった時も、「よかった。戻ってきた」というのは、普通死んで戻ってきてよかったとは考えられないですよね。死んでご遺体あるのは当たり前の話ですから、ご遺体なくて葬儀やって成仏できるかなって言っているうちに、戻ってきて遺体を悲しむんじゃなくて、よかったっていうのは逆の言葉ですよね。一般の常識考えるとね。そういう言葉が拾えたというのは、末端に携わった私らかもしれませんね。
武田 政夫 70代 男性
 東松島市野蒜にて被災
(平成24年4月19日  ひびき工業団地 仮設住宅集会所にて取材)
被災体験談
 地震が起きた時は東松島市野蒜の自宅でテレビを見ていました。大きな揺れがあり、これは大きな津波が来ると思った私は、家内と一緒に家から250メートル先の新町地区コミュニティセンターに避難しました。家内は犬も一緒に避難したいと言いましたが、今は犬どころではないと2人で逃げたのです。 コミュニティセンターには、すでに40人ほどの人が避難していました。センターの下には鳴瀬川が流れており、しばらくして津波が来ました。みるみるうちに水が増え、床から1メートルまで水に浸かってしまいました。
 水が引いて少し落ち着いた時、最初に手を取り合って避難した家内がいないことに気がつきました。津波で私の家は流され、犬を連れに戻った家内は逃げることができなかったのだと思います。気づいていれば止めたのですが…。残念でなりません。家内は現在も見つかっていないのです。
 5月14日からは仮設住宅に入ることができました。一人でも寂しいことはありません。仮設の人たちが「大丈夫ですか。どうしていますか」と毎日声をかけてくれるのです。安心して暮らすことができるのはうれしいことです。
感謝のメッセージ
 大震災後、忘れることができない出会いがありました。海外の若者が激励に来てくれたのです。昨年12月20日のことでした。通訳の日本人の女の人と一緒にエリザベスという女の子が私の仮設にやってきました。私は行方不明のままの家内の写真を仏壇に飾っています。それを見たエリザベスは、写真に向かって手を合わせてくれました。そのあと急にいなくなり、どうしたのだろうと思っていると20分くらいして花を買ってきて仏壇に飾ってくれたのです。それがうれしくて言葉も出ませんでした。その時、エリザベスを「日本人よりも日本人らしい女性だ」と思いました。彼女が通ってきたのは3日間でしたが、クリスマスイブの前日の夜には、自分でつくったという大きなケーキを3つ持ってきて、仮設の集会場でみんなを慰めてくれたのです。
 最後の夜、部屋に呼んでお礼にカキと豆腐を入れた味噌汁とアサリ汁をつくってふるまうと、おいしいと言って食べてくれました。私は英語はできないのですが、単語を並べれば自然と通じるものです。別れる時には「おじいちゃん、とてもさびしい」と言ってくれました。その後、はがきが来て、今年6月頃にカナダに戻る時は日本に寄りたい、おじいちゃんをカナダに連れて行きたいと書いてありました。孫のようなエリザベスの気持ちがうれしくてなりません。いまでも文通は続いています。
 エリザベスやロバート、明治大学の学生ら、見ず知らずの若者がなぜ私のところに来て激励してくれたのでしょうか。それは、一人でいる私を家内が元気でいるようにと後押しをしてくれているからなのかもしれません。きっと、そうだと思うのです。
未来に向けて
 今は、あの津波のことはできるだけ思い出さないようにしようと思っていて、できるだけ楽しいことを考えるようにしています。ただ、一日中ひとりでいると、無性にさびしくなる時があります。「人は一人では生きていけない」と言うが、「一人でも生きていかなければならない」と思っています。食事のレパートリーが増えないので、栄養士さんに料理法を教えてもらったりしています。そんなことをしながら考えるのは、あの世に逝った奥さんがいろんな人とかかわりながら楽しく生きていくように後押ししてくれているのではないかということ。おおらかだった奥さんに倣って、明るく生きていきたいと思っています。

遠藤 惣之助 70代 男性
 「えんまん亭」店主
 東松島市野蒜の自宅にて被災
(平成24年6月1日  えんまん亭にて取材)
被災体験談
 震災当日は、地震の揺れがあって、まず私は外に出て様子を見ました。息子と二人で店の周りを見ると液状化が始まっていたため、これではだめだと車で避難することにしました。車で出ると、すでに亀岡橋で車が渋滞していました。家内が見たら、波が後ろの松の木を越えてきたというのです。その波が頭からでなく腹から当たったため、車はそのまま山側へ流されました。運よくエンジンがかかったままで、ハンドルを切ることができました。車の頭が沈まないように山側へハンドルを切りました。そこから車が流され始め、200メートルか300メートル流されたか、仙石線が脱線した野蒜駅付近まで行きました。
 そこで、沈んでいた車か何かの上に乗り上げたようです。窓は開かない。水が入り込んで、その水を3、4回飲み込んでしまいました。ところが、その時後ろのガラスが割れていました。座席から背伸びをしたら、ちょうど割れたガラスから這い出ることができました。出たところにちょうど車が一台、続いてモーターボートが流れてきました。それを伝わり、二階建ての家に避難しました。巡回しているヘリコプターにそのライトを向けたところ、翌朝救助に来てくれました。自衛隊の霞の目に運ばれ、6日間お世話になりました。
感謝のメッセージ
 人間というのは寿命というか運というのか 同じ状況の中でも助かる人とそうでない人があるが、どんな状況にあっても負けてはだめだということだ。頑張れば希望はわいてくる。これからは若い人に頑張ってもらいたい。
未来に向けて
 仮設にいると身体がなまります。何にもしないで食べて寝るの繰り返し。身体も動かさない。気持ちの支えもなくなれば自殺に至ることもあります。「店をやろう」と誘ってくれた息子の声におされ、店を再開することにしました。
 店を再開してからはいろいろな人が来てくれました。仙台からわざわざ来てくれる方もあり、お客さんの顔を見ただけでうれしかったです。何時間も車を走らせてきたり、商工観光課に問い合わせたりという方もいました。

前谷 ヤイ子 50代 女性
 自宅(東松島市東名)にて被災
(平成24年6月15日 グリーンタウン仮設住宅で取材)
被災体験談
 3月11日は(家族)みんな一緒だったんですよ。息子たちは同級生や大親友も亡くなってショックだったみたいです。でも長男は4人を助けたんです。隣の家のほうから助けてという声が聞こえて、赤ちゃんをおんぶしている30歳くらいの親子と60代のご夫婦の4人が、流されていたんですね。息子が屋根から屋根へ、雪で滑りながら伝っていって、助けることができたみたいです。あとは自治会長の奥さんが、津波で私の家のところまで流れてきて、旦那が見たら、助けてとも言わずにずっと下にいたんです。旦那が飛び込んで助けたんですけど、そのあともずっと震えていて、いっぱい布団をかぶせてグルグル巻きにしたんです。家族で5人助けたんです。
 その後自宅には4ヶ月いたんです。周りはみんな避難していましたから、うちだけだったんですよ。電気もないし水もこないけれど、家族4人で帰ってきたからしのがなくちゃいけないなと思いました。たまたま丸い石油ストーブを倉庫から出して2階に上げていて、給湯器には450リットル分水が入っていたんです。そこからちょろちょろと水が出てきているのを使って生き延びたんです。
 車も流されてしまって、電話も繋がらない、とにかく情報がないので、流れてきたうちの自転車を直して、ヘドロの中を何時間もかけて市役所に行ったり、避難所を回ったり、市民センターに行ったりしました。だれが亡くなったとか、大変だなと、回りながら思いました。あのときは、とりあえず家の中のヘドロを片付けて、火をたいて、ちょろちょろ水を出して今日生きるのがやっとという生活をしていました。
 私も気がおかしくなっていたんです。そんな時、東京のミュージカルの作曲の台本を書いている寺本さんのお家に1ヶ月間行ったんです。お風呂もあるし洗濯もできるからおいでと言われて。
 被災した当時は、みんなバラバラだったんですけれど、支援も自衛隊や警察、電気関係、車のナンバーを見ても新潟、北海道など全国から来ていました。支援物資も頻繁ではなかったですけれど、私たちは(被災から)3週間後にもらいました。あとはみんなに聞いた体験談などを寺本さんにしゃべったんですよ。
 うちの旦那は、水やカップラーメンをもらったとき、みんなが頭を下げるのをみて、もらうばっかりで胸が苦しくなるといっていました。私たちは何もできないけれど何度も支援してもらって、ありがとうと思っているということを寺本さんに言うと、それなら東京に行って、堂々と何もできない自分たちだけど、ありがとう、空元気でも良いから元気だよという気持ちを、ミュージカルでやってしまえばいいんじゃないのと言われました。寺本さんはミュージカルを40年も作り続けていて、私たちも肩身が狭かったし、みんな元気なかったし、何か前向きになれるキッカケになればと思いミュージカルをやることになって帰ってきました
感謝のメッセージ
 うちの旦那は、水やカップラーメンをもらったとき、みんなが頭を下げるのをみて、もらうばっかりで胸が苦しくなるといっていました。私たちは何もできないけれど何度も支援してもらって、ありがとうと思っているということを寺本さんに言うと、それなら東京に行って、堂々と何もできない自分たちだけど、ありがとう、空元気でも良いから元気だよという気持ちを、ミュージカルでやってしまえばいいんじゃないのと言われました。寺本さんはミュージカルを40年も作り続けていて、私たちも肩身が狭かったし、みんな元気なかったし、何か前向きになれるキッカケになればと思いミュージカルをやることになって帰ってきました
 東京からもいっぱい人が来たんですよ。素人の被災者がどんな練習をしているんだろう、その姿が良かったら協力しようということで、新聞社・雑誌社やテレビ局も取材に来て、撮っているカメラマンも泣いていたんですよ。東北大学や白百合女子大学の先生も号泣していて。毎回そんなことの繰り返しだったんですよ。あそこに身を寄せた人たちは何か手伝いたいと、支援してくれたんですよね。東京から色んなツテで集まっていただいて、私たちだけでは駄目で全国から支援があったので成功したんですよね。
未来に向けて
 ミュージカルをやったのは、元気にはなれなくても、いやなことを考える時間が減ればいいと、そうすればうつ状態も良くなると思ってのことだったんです。でも、私も体験したんですけど、歌いだすとみんな涙が出てくるんですよ。声が詰まって。みんな、自分の気持ちを我慢していたんですよ。避難所や色んなところに行く時には泣けなかったんです。だけど、歌いだすと体中の細胞がリフレッシュする、浄化されるというか。そうすると寺本さんに、「泣いていたら練習にならないだろうが。」と言われました。だんだん、みんなもお客さんにお金を払ってもらってやるんだから、と意識が変わって頑張って練習するようになりました。
 ミュージカルだけじゃなく、みんなで集まって励ましあって一生懸命にやる、そういうことが生きる力になったのだと思います。震災後、こころのケアでカウンセリングを受けに精神科に行ったりすると思うんですけど、ミュージカルに参加した人たちはみんな直っちゃった。あとは次の段階に行くと思うんです。ミュージカルは終わってしまったけれど、その時にがんばれた、仲間ができたということが心の支えになっていると思います。
 私は元々福島の人間なので、震災でみんな傷ついたけど、それに輪をかけてやっぱり放射能が大変なんですよ。実家のあたりも放射能が高くて、除染もなかなか進まないし、地元に帰れないんですよ。福島の子どもたちはみんなバラバラなんですよ。 そう考えると今回のミュージカルの経験を生かして、合唱でもいいんだけど、何かみんなが元気になれる、継続的に何かできるものをやりたいなと思うんです。特に、福島の場合は長期戦なので。そのために福島に行ってきたんですね。親のことや今後のことについて、情報を集めたいなと思い、東北大学の先生とかNPOなど、支援してくれる人たちとか色んな人たちの力を借りながら、お金をかけないで、福島の人たちが元気になれるようなものができないかと思っているんです。
 これからは地域づくりで、市も市民協働課とか頑張っているとは思うんだけど、今回も私たちが動いたから援助してくれた。だから、私自身が動かないと。それと、頑張っているリーダーをみんなが支えることが必要なんです。リーダーとして頑張る人がけっこう自殺するんです。あんなに復興のために頑張っていたのにという人が。何かやろうというときに支えあえるような、そういう地域づくりが必要なのかなと思いました。
 福島の人たちもそういうものを求めているわけですよ。被災して、みんなてんでバラバラで、故郷に戻れないからどこに戻ればいいかわからないので、私はその居場所作りをしたいんです。身近なところからやって、点と点をつないで線に、そして面にするように輪を広げていきたいと思っています。震災で大変な思いをした宮城の人も、人との輪をつくりながら、がんばるというか、1人で100歩はやめて、みんなで1歩、やれるところからやって欲しいなと思います。
 子どもたちも、色んな経験をしたので震災を糧にして、世の中の役に立たなくちゃいけないんだ、という子がいっぱいいると思うので、それは楽しみな面もあります。

菊池 蘭 10代(小学4年生) 女性
 野蒜自宅付近にて被災
(平成24年6月24日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 3月11日は、塾に行く途中、お母さんと二人で車に乗っている時に、コメリ(牛網付近)の当りで地震にあいました。すぐに、野蒜小学校の近くの自宅に戻りました。気が動転していて、テレビや携帯の情報を聞くこともできなかったのですが、家の前にいた側溝工事の方が6メートルの津波が来ると教えてくれました。車に避難用袋を積んで避難する時に、飼っている猫と犬も連れて行きたかったのですが、お父さんに「ここまで来ないから、置いていけ」と言われ、猫は2階にかごに入れて置いてきました。
 その時すでに小学校の前は渋滞していて行けず、歩いて小学校に向かおうとしている時に、後ろからバキバキバキとすごい音がしてきて、瓦礫の山が見たこともない高さで壁のように迫ってきました。近所の人たちが「逃げろー。山に上がれー。」と叫んでいたのですが、家の後ろの山なのですが、あまり上がったことがない山だったのでどこを登っていいかわからなく、でも何とか崖の上に登りました。今思えばとうてい登れないような山で、火事場の馬鹿力だったのですかね。その時は家の前を津波が来て、車が流されてました。
 そこに、次の日の朝までずっといました。靴下も脱いでいて、ジャンパーも着てなかったのですごく寒かったのですが、非常用持ち出し袋のアルミ箔を着ていました。近所の人10数名で焚き火しながら過ごしました。夜は流された車のクラクションが鳴りっぱなしで、周りから「助けてー。助けてー。」という声が一晩中聞こえていましたが、どうすることもできず、今でも(思い出すから)夜がいやです。
未来に向けて
 将来の自分の子供に、もし地震が来た時には、まず玄関に行って靴をはいて逃げる準備をしてと教えてあげたいです。10年~20年後の東松島市は災害のない町になってほしいです。

真籠 しのぶ 50代 女性
 東松島市役所職員 保健師(平成24年3月退職)
 野蒜駅付近にて被災
(平成24年6月28日 サポートセンターにて取材)
被災体験談
 3月11日は、野蒜駅近くのお宅に訪問して帰る途中、松林の中で地震にあいました。ラジオで津波が来ると流れていたのですが、津波は東名運河を越えては来ないと聞き、市役所に帰ろうと思いました。でも、海側に行くのが怖く、いったん野蒜駅の2階の東松島公社に避難しました。野蒜小学校経由で帰ろうとしたらすごい渋滞で、結局、また野蒜駅に向かったのです。その途中で東名運河を逆流する津波が見えました。津波の時の対応の仕方、高台に逃げるっていうのがわからなかったので、目の前が山だったのにもかかわらず、車の中で津波を受けるしかなかったのです。
 ヨットがぶつかって来たり、濁流にのまれて車の中に水が入ってきました。その時、ダウンジャケットは浮くという事も知らず、着衣水泳を思い出し上着を脱いでしまったんですね。車が上向きになり青空が見えた時、何かにぶつかりフロントガラスが割れてくれました。そこから脱出したのです。割れてくれたのは、運がよかったです。この世のものとは思えない光景で、まわりは全部海で、目の前は家が流され、人の気配はなく、生き残ったのは自分だけだと思ってしまいました。又津波が来て、真っ暗い水の中に沈み、右足はがれきにはさまったのか、もがいても上にいかず苦しくて、意識が遠のいた時にすごい楽なんだ、これが死ぬってことなんだと思いました。
 でも、こんな所では死ねない、もう1回頑張ろうともがいたら足がはずれ、上に上がり何かにつかまりました。でも、怪我をしているし寒いから水が引くまで我慢できないと思い、水が少し引いた所を見計らって2階のある家まで行こうとしました。その時3人(おじいさん2人、おばあさん1人)が濡れながら、助けにきてくれました。2階まで上げてくれ、布団をかけてくれたけど、もの凄く寒かったです。
 津波に対しての自分の知識の無さを本当に痛感ました。水は苦しくても、助かるためには飲まなきゃならないと思いました。ぐっと我慢なんてできないから、飲んで助かったと思います、逆に。検査結果も何ともなく、津波肺炎も大丈夫でした。
感謝のメッセージ
 私は運も良かったけど、家族のため、子どものために死ねないと、子どもからのメールだけを頼りに生きました。野蒜小学校付近で渋滞に巻き込まれた時、子どもからメールが来て心配させないように「お母さんは大丈夫」って返したんです。めったにメールをよこさない息子からも来て、すごく嬉しくて、あのメールがなかったら、生きて行けない。意識が遠のいて、死んだほうが楽なのですが、子どものために死ねないって強い思い、家族の愛って強いですね。運が良かっただけでなく、やっぱり家族だなと思いました。
未来に向けて
 今までにない大災害だったので、保健師たちは役割を決めて、それぞれ分担してやりました。大変だったのは、薬が津波で流されてないので医療をスムーズに受けられなかったことです。病院に行くにもガソリンがない、車がないので、持病を持っている人たちを送って行くシステムも作りました。こちらから避難所とかに行き、慢性疾患を持っている人たちの悪化予防のために1日何十人か見たりしてみんなに感謝されました。あと、地元のお医者さんの協力で救護所を設置することもできたし、みんなの力がなければできなかったと思います。
 今回良かったのは、日赤が開いていて相当機能していたことです。保健師たちが朝晩ミーティングに行っていました。日赤で、どこで何が足りないか、医療だけでなく、ミルク・オムツ・水など全部コーディネイトしてくれました。
 避難所生活が長くなるにつれ、高齢者・障害を持っている方々が団体の中で暮らすことで、障害が悪化したり、高齢者が熱をだしたり、認知症がひどくなったりといったことが出てきて、そういう対応を避難所、保健センター、福祉避難所3カ所で連携してやりました。ここの町はそういう施設も被害を受けてなかったし、昼夜24時間体制で連携システムがきちんとしていたので、素晴らしかったです。それがあったからこそ悪化させないで、医療とか保健とかをやれたのかと思います。

渡部 順子 50代 女性
 東名で野蒜生産組合の業務中に被災
山崎 清美 50代 女性
 自宅にて被災
(平成24年7月5日 大塩市民センターにて取材)
被災体験談
渡部 順子 
 あの日は東名の野蒜生産組合の事務をしていて、書類をコピーしたり準備してました。日本沈没じゃないけど駄目になりそうな揺れでした。でも、津波が来るなんて頭になく、津波警報も鳴りませんでした。大丈夫かなと思い、片づけとかしていたら、主人からの電話が繋がり「何やっているんだ。逃げろ。」と言われ、逃げたんです。
 野蒜小学校の校庭の前で、渋滞で車が全然動かなくなりました。前の軽トラックの方が出たり入ったり周りの様子を見ていたようで、私の車のフロントガラスを叩いて「津波だ」とドアを開けて、手を引っ張ってくれました。体格のいい男の方だったので、引っ張られるままに行ったのですが、2~3歩くらい逃げた所で後からバアンと当たるものがあって、転んだら水だったのです。水の中でもがいて、赤い車が私に向かってくるのが見えてぶつかったら終わりかなと思っていたら、するっと車の下をくぐったのです。ずっと流されているうちは、真っ暗で何も見えないけどぐるんぐるん回っていて、水もだいぶ飲んでしまいました。これ以上水飲んだら私は終わりなのかなと、何分いたのかわからないけど長く感じました。
 気が遠のいていくようになっていたら、小学校の教室の裏、山の方に流されて、ちょうど教室の側の所で浮きました。声も出せなく咳が出て、上から「大丈夫?」と声かけられました。消防用のホースにつかまれと言われたのですが、寒くて手が離れて落ちていまい、又浮いたのです。ロープを体に巻きつけろと言われたのですが、なかなかできず、何とか巻き付け、引っ張ってもらい、3階まで上げてもらいました。校舎の中に入れられ、カーテンを巻きつけてもらいました。でも、寒くて歯がガタガタでお礼が言いたくても言えない状態でした。何時間かしても、震えが止まらず、お母さん方に服を脱がせてもらい、子どもたちの体操着を着せてもらったのがありがたかったです。靴もないので、上靴入れを靴代わりにしてもらい、防空頭巾もかぶせてもらいました。そこでひと晩過ごしました。
山崎 清美 
 その日は家に私と母がいました。私は大津波警報を聞いていたので逃げようと言ったのですが、母がチリ津波もここまで来ないから「絶対逃げない。置いていけ」と強気になっていました。母一人置いていけないし、そうしたらかもめの大群が行ったから、絶対、津波が来ると思ったんです。松林側に耳をやったら、ゴーと音が聞こえ、遠くに波頭が見えました。「津波来たよ。2階に上がって」と私が上がり、母も付いて来て、2階に上がって窓を開け、ベランダに出ようと思ったら、ベランダが流されて行きました。周りが全部一瞬で海になったのです。遠くに波頭が見えて、上がったとたん物凄い速さで波が来ました。私は窓の桟につかまって、ジェットコースターのような速さで進み、隣の2階だけ残っているなと思ったとたん、そこで意識がなくなったんです。
 意識が戻ったら、瓦礫に挟まっているようで頭がつぶされそうになっていて、つぶされて死ぬのかしら?苦しんで死ぬのかなって冷静に考えていました。川向うのコンビニまで600メートル位流されて、その脇に大きな船が流されていました。瓦礫の間に母が挟まれて、苦しい苦しいと騒いでいて、叔父と二人で瓦礫を動かそうとしたのですが、全然動かなかったです。「助けて。助けて」と騒いでいたら、若い夫婦が来てくれ、のこぎりを持って来てくれて、助けてくれたのです。その人たちが毛布や布団、ホッカイロを持ってきてくれました。
 夜になり、水が引いていたのですが、ヘリコプターが飛んでいたので、携帯の灯りで「助けて」とやったのですが、見えなかったようです。外の瓦礫の上にいて、瓦礫が動くし近くの家のガスボンベがシューシューいっていて怖かったので、すごい高さの瓦礫から降りました。雪が降ってきて、毛布や布団は濡れるし寒かったのですが、バックが濡れてなかったので、ヤクルトを飲みました。小学校に避難したかったのですが、夜中で危なかったので朝まで待ちました。星があんなにきれいな空を初めて見ました。
 明るくなってきたのでヘドロの中、靴もない状態で、3人で難民状態で歩いて行く途中、周りは家が倒れて流され、信じられない、現実じゃない夢だよねと思いました。野蒜小学校まで行って、上に行ったら「大変だったでしょう」と服を脱がせてくれ、体操服を着せてくれ、こすって、温めてくれました。母は低体温になっていると、ヘリで日赤に運ばれましたが、何ともなく無事で、その後は中津山小学校に避難しました。私は自衛隊の人におんぶされ、下まで行き小野市民センターに行きました。看護学校の生徒がいてお世話をしてくれてました。
未来に向けて
渡部 順子 
 今家族の大事さがよくわかりました。家族が一番心配してくれ、支えられて、みんなに感謝する気持ちが出てきました。生かされていると思います。
山崎 清美 
 いつ何が起きるかわからないので、世間に迷惑をかけなければ、自分の生きたいように生きたいと思います。いろんなことを我慢しながら、何かいろいろしたい、死にたくない死にたくないと思いながら、亡くなっていった人がたくさんいるので、誰に何を思われてもいいという感じに変わりました。家族も震災後の方がまとまったと思います。家族がみんな助かって、揃っているのは当たり前のことなんだけど、幸せなことなんだとしみじみ思います。

野蒜保育所
 勤務中に被災
(平成24年7月14日 小野保育所にて取材)
被災体験談
後藤 誓子 野蒜保育所 所長
 2時46分、いつもより激しい揺れを感じ、まず各部屋を回りました。一番最初にお昼寝中の2才児クラスの部屋を回って様子を確認。事務室に戻り、揺れが治まるのを待ちました。まもなく防災無線から「大津波警報」と聞こえました。「逃げなきゃ」という思いで、各部屋に「逃げるよー」とお触れを出しました。
 運河を越えれば野蒜小学校だから、そこまでは二十数分なので頑張ってとにかく歩かなきゃということで歩き始めました。あるおじいさんが「車に乗せてけっからー」って言ってくれたんです。「じゃあみんな乗せてもらっていいよー」ていうことで乗せてもらいました。あとで調べたらそのおじいちゃんの車を含め6台に分乗しました。途中、ちょっと渋滞のところが何箇所かあって、太田屋さん(野蒜字北赤崎)の角を曲がったら、車がもう動かなかったんです。何とか先生方も誘導してもらったおかげで校庭に入ることができたし、体育館に一番近いところに止めることもできました。そこから子どもを運ぶのも、その辺りにお家の方がいたので、運ぶのを手伝ってもらうことができました。
 その時、子どもは78人中、早退・欠席者を除いて70人いました。地震後に保護者がお迎え来て、野蒜小に運んだのは35人でした。あとで確認したら、残っていた子は12人でした。35人のうちの12人でした。お迎えがきたもののその場で帰らず、家族で避難していた子が17人でした。あわせて29人もいました。
 3時30分には着いていたという感じですね。そして、「津波だー」という声と「水だー」という声が聞こえました。「舞台に上がってー」「ステージに上がってー」という声も聞こえました。私も膝が悪いんだけど、誰にも助けてもらわないでステージに一人で上がったんだよね。後から行ってみたらずいぶん高いんですよね。
 わたしは、舞台の上で斜めになった演台につかまりました。「どこに流れるんだろう」というところから記憶が始まっているので、その間、どうやってつかまっていたかもわからないんです。子どもを入れて5人でただ流されていたんです。たまたま運よく、上から見ると渦巻いていたようで、ギャラリーに流れ着いたんです。そして上から助けられました。
 水が引いてから、みんなギャラリーに上がったんですけど、一人の先生が「子どもを放した」と半分泣きながら来たんです。私も何とも声をかけられずに、どうなったかなあ、と思っていました。水の下が見えるようになってから反対側のギャラリーを探しに行きました。人もぎっちりだったんですけど、子どもの確認をしなければならなかったので、ぐるりと回って反対側のとこまでずっと見ながらいったんです。
 放した子どもをどう助けたかというと、用務員さんが舞台からフロアに投げ出されて、水があるから立ち泳ぎしていたら、子どもだがなんだがザッブーンって流れてきたらしいです。ダウンのジャンパーを着ていたんです。その子。だから身体がプックーって浮いたんです。誰だと思って返してみたら、見たことがある子だって。どうしたらいいんだろうと考えていたら、畳が流れてきたから、そこに子どもをぽんと乗せて、自分が乗ったら沈んでしまうので、自分は立ち泳ぎをしてその畳を舞台のほうまで運んできて、とにかく舞台にいる人に「お願いします」って言ったところを後藤先生が見ていたんだよね。
 一人一人名前を呼んで、「○○ちゃんいます」「○○ちゃんいます」って言うんで「あー、残った人は全部いたなあ」って思ったのよ。まだ確認しない時は、どの子どもの名前を呼んでも、先生の名前を呼んでも誰も返事しなくて。もう先生たちも、子どもたちも亡くなったんでないかと思って、もう気違いみたいにして名前を呼んで。
 体育館に津波が入ってきたのは3時52分。つかまって何分で流れ着いたか時間の感覚がわからない。水が引いたときは真っ暗ではなかった。3時52分は時間的に暗い時間ではなかったけれど、津波が来るせいか、いつもよりどんよりしていました。雪が降っていたから?
 子どもが12人残っていて、先生方も私らがみんな助けたわけでなく、住民の人に助けてもらったから、ねえ。誰が亡くなってもおかしくない状況だったもんでね。
 寒さでだか溺れてだか、とにかく二人の子が泡を吹いてしまって。それでも先生方が一生懸命背中をさすってくれていて、「どうにかもどりました」って言われた時に「じゃあ、こっちのほうはお願いね」って先生方に頼んで、わたしはまた戻って、10時半か11時くらいの間かな、たぶん学校に行く道路を住民の人たちがどうにか歩けるようにしてくれたのか、がれきの中を歩きました。体育館から校舎3階に移りました。途中、がれきのあったところは、ご父兄が自分のひざに乗せてくれたんですよ。わたしも乗せてもらいました。だから次の日そこが真っ黒。踏み台がないと上れない状況だったので何百人も乗せてくれたはずです。
 野蒜小学校3階に上がってからは一晩寒くて。子どもたちは運動着が置いてあって。おにいちゃんたちの。住民の人たちは私たちが行く前に着替えさせてくれていました。移動するのも助けてもらって、おばあちゃんたちが手伝ってくれました。わたしたちは凍りそうだったね。朝まで固まって、みんなで寄り添っていました。ほんの少し寝たのかな。交代で抱っこしたり。
 子どもたちもああいうときは泣かないですね。不思議と泣かないし、困らせないし。かわいそうなくらい。次の日の夕方までほとんどの親が引き取りに来ました。その後、鳴瀬一中に移動したのが15日の午後でした。
 市内で千何人亡くなっているうち、野蒜で500人亡くなっているんですよね。運よく生き延びたとしか思えないよね。
 子どもたちの様子は、元気でいるかのように見えます。この一年間、夢中になって生活してきているのは大人も子どもも同じです。一年過ぎて、いろんな思いが出てきているようです。お兄ちゃんを亡くした子が、今まで何も言わなかったのに、今頃になっておかあさんに、「ぼく死んでおにいちゃんのところへ行きたいな」なんて言うらしいです。まだお兄ちゃんの死が受け入れられないのか、「お兄ちゃんのお誕生会したんだよ」なんて話したりしています。まだ受け入れられないけど、受け入れなければならないとは思っているようです。
 今年度の児童は79人です。野蒜と牛網と小野の三つの保育所が集まって、4月14日からここじゃなくて、地区センターで始めたんですけど、その時は野蒜保育所の子どもは40人くらいしか集まらなかったんですね。仙台に行ったり、あちこち散らばったりしていました。
 震災後は、津波ごっこなどがありました。でも、8月くらいにはなくなりました。積み木を見れば、「つなみだー」って言って倒してみたり。自分が経験しなくても、テレビでずっと映像が流れていたしね。津波を経験してひっくり返ってた子は、5月の連休までお風呂には入れなかったということです。
後藤 悦子 野蒜保育所 保育士 
 そのときの体育館には小学校の子どもたちもいたし、おじいさんおばあさんたちもいたし、不老園の人たちもちょうどぞろぞろ入ってきたところでした。私は毛布を持ってきてくれたお父さんがうちのクラスのお父さんで、毛布に入りながらおしゃべりしてたんです。「来たー」って聞こえて、でも何がきたのかわからなくて。みんなが一斉にステージに走り出して、私もつられて走りました。その子をステージに上げて、他にも足元にいた子を何人か上げたかと思うんです。投げ入れたというか。それから自分もステージに上がりました。そうしたら偶然所長先生の背中が見えたんです。「所長先生」って呼んだら所長先生が振り返ったので、誰かわからないけどそこにいた誰かを「お願い」って投げたんです。
 わたしはステージに上がって、最初にクラスの子を抱っこし、それから隣のクラスの当時2才の子を抱っこしました。でも、行くところがないので、ステージの壁のところまで追い詰められる感じでした。水がバーっときて、カーテンというか暗幕にしがみついて、片手でクラスの子を抱っこして、もう一人の2才の女の子には先生に捕まってなさいよと言ったらしっかりしがみついて「えー」っと声をあげたけど、泣かなかったです。水がバーっときて首まで浸かったら、わたしもフリースの厚いジャンパーを着てたので、すごく重くてどうしても片手では沈んでしまうんです。しょうがないので子どもを放しました。子どもがぶくぶく沈んでいくのをサッカーのリフティングのようにひざでボンと蹴り上げて、また沈んでいくのを蹴り上げと、何度も何度も繰り返しました。男の子も何度も沈んで水を飲んでパニック状態になり、ギャーギャー泣き叫んでいましたが、どうすることもできませんでした。男の子を抱き上げれば三人とも沈んでしまうし。後から考えれば着衣泳などもあったのに全然わからなかったし、かわいそうなことをしたなあと思います。
 国井先生は、水が引いたら「子どもの手を放した 放した」ってパニックになっていて。でも、何気なく見たら畳にちょこんと乗って舞台の上に流れ着いていて、「あそこにいるよ」ってなって、私が上から流れ着いたところに迎えに行ったんです。誰かが受け止めてくれてそこにおいてくれたものなのか、たまたまそこに流れ着いたものなのか、そこにちょこんと座っていたんですね。ぼーっとして。
 水が引いたとき、誰かが、時計側のほうにギャラリーに上がる階段があるっていう話になって。そうしたら、放送室側の壁にだれかが穴を開けてくれたんですよ。そんなに大きい穴じゃなかったけど。そしたらそこに誰かが、ステージにあった階段を立てかけて、まず子どもからっていうことで、私が下で上げる人、もう一人2歳児の担任が真ん中にいて、あるお母さんが上から引っ張る人になり、次々と子どもをギャラリーに上げました。他の先生やもう一人の2歳児の先生はステージから保育所の子がいないかどうかを確認し、連れてきて、次々上げるようにしました。畳の上にいた子どもは私が抱っこして、最初にあげてやりました。
 夜になって校舎に移る時に「今、道を作っているから」っていうことで待っていました。一斉に行くとパニックになるので、20人くらいずつのグループで、しかも子どもから移動しましょうということになりました。私は母と一緒で、子どもたちがいた放送室と反対側のギャラリーだったので、子どもたちがぞろぞろ行くのが見えたんです。
 車が重なったところを上行ったり、下くぐったり。やっと校舎の入り口まで行ったら、3階までの階段の遠いこと遠いこと。重い母を抱えて、3階までの階段が長くて長くて。そしたら途中で、ご父兄が「あら、先生だっちゃ」って言って、母を抱えてくれて、途中から上げてくれて、ほんとに助かりました。
 家は野蒜保育所のすぐ近くなので、すっかりなくなってしまいました。夜が明けた時の、音楽室の窓から見た景色はびっくりでしたね。下を見ると、消防の人が板みたいなのに遺体を乗せて体育館に運んでいて、次の日には自衛隊さんが遺体を収容していました。
 津波の高さが10mって言われても、具体的にどれくらいだかわからないですよね。母と一緒に逃げてきたおばちゃんは、それこそお菓子とかみかんとか持って(笑)、そういう感覚だったんです。
国井 春美 野蒜保育所 保育士  
 急いでみんながステージに上がる足音も聞こえました。わたしもステージに上がったときは一人でしたが、あっという間に水が首まで来て、ちょうど子どもが2人いて、最初は2人抱っこしたけど、やっぱり水圧で抱っこできなくて一人放してしまいました。一人は抱っこできたんで後は立ち泳ぎしていたのか、よくわからないんです。しかも暗幕につかまって落ちないようにしていました。
未来に向けて
後藤 誓子 
 避難状況を書いたものがあるんです。東松山市から依頼を受けて二回ほどお話をしてきました。支援を受けたところは、取材にも応じました。後の人たちに残していかなければという思いからです。

制野 俊弘 40代 男性
 東松島市立鳴瀬第二中学校 教諭
 野蒜「かんぽの宿」で被災
(平成24年7月26日 鳴瀬第二中学校仮設校舎にて取材)
被災体験談
 大震災の当日、午前中に鳴瀬二中の卒業式が終わりまして、午後2時頃、かんぽの宿に行きまして、その時には祝う会が始まっていたんですが、80名くらいの規模で1階でやってました。そこで地震が来て、一旦、子どもたちを低いテーブルの下に入れて、一時避難というような形だったんですけれども、揺れが収まった段階で、かんぽの宿の支配人から大津波警報が出ていますということで、この建物は大丈夫なのですぐに上の方に避難してくださいということでした。その時点では、確か6メートルぐらいという話だったと思うんですが、すぐに10メートルという話が出て、10メートルではまずいということで、4階に、生徒、保護者、宿泊者が総勢200人ぐらい避難しました。
 それでも高さ10メートルでは危ないのでないかということで、屋上に逃げたんです。それが大体3時ごろだったと思うんですが、車椅子の人、ご老人の方を最初に上げて、中学生は一番最後ということで全員屋上に上がったんです。上がって30分ぐらい吹雪の中で耐えていたんですが、丹前とか皆さんある物をかぶっていたんですが、寒さに耐えられなくなって、冷えてきたので、もう一回4階に下がったんです。その後10分ぐらいたって、子どもたちが津波来たというので海の方を見たら、松の木の間から最初ちょろちょろ波が入って来たと思っていたら、一気にどかんという感じで波が入ってきて、目の前が松林なんですが、松林が全部なぎ倒されるような光景でした。下の方には車があったんですが、それも全部流されるような形で、一気に水かさが上がりました。
 その時、子どもたちは結構パニック状態、親たちもパニック状態でした。女の子2人が過呼吸になったので別室に連れていって、お母さんたちが介抱してました。私たちは子どもたちに大丈夫だからと言って落ち着かせていました。津波が入ってくる瞬間から見ていたので、どこまで上がるのか恐怖でした。支配人からは、4階で6から7メートルくらいしかないと言われていたので、10メートルと聞いて、みんな青くなっていたんです、実は。結局2階ぐらいまで津波が来て、4階までは幸い、来ませんでした。
未来に向けて
 震災を経験して子どもたちが強くなった部分は、目には見えないんですけど、親たちの大変さは、今、しっかり見ている状況だと思うんですね。中には職失った人もいるだろうし、新しい職業に就いたりとか、慣れない土地で生活とか、狭い家とか、とにかく親たちの頑張りを見てるということは、今までよりは、中学生をちょっと大人にしてるのかなというところはありますよね。勉強を頑張り出した子どももいるし、去年は駅伝をうんと頑張ったり、野球頑張ったりとかしてたので、大人になったのかなというところはありますね。ましたよ。

安海 武英 40代 男性
 東松島市立野蒜小学校 教諭
 職場(野蒜小学校)にて被災
(平成24年8月1日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 地震の時、代表委員会を開催していたんです。どーんと、揺れが物すごく強かったので3年生の子どもが泣いてしまったんですが、子どもたちは普段避難訓練やっているので、我々が言う前に、すぐ机の下に潜っていました。代表委員会を開いていた教室の天井からつるされたテレビが、すごく揺れていたので、それが落ちてこないか心配でした。揺れがなかなか収まらなかったので、とにかく、子どもたちには、先生が指示を出すまでそこから出ないようにと話しました。揺れが収まってから、体育館に避難するとなって行きました。
 そうこうしているうちに、津波が来ているという情報がたくさん出てくるようになって、校長先生は校舎の方に避難させると判断され、体育館にいる人たちを校舎に避難誘導するようにと、私に指示がありました。大きい声出して「皆さん今から校舎に避難しますので私に付いて来て下さい。」と言って、私が先頭になって体育館の出入り口に向かおうとしたときに、外で車がぷかぷかと浮いているのが見えたんです。さらには波が黒い固まりになって押し寄せるのが見えたので、ああだめだ(校舎に行けない)となって、「早く逃げて、体育館の上に上がって」と指示しました。みんな「わー」となって、体育館の中に散らばったんです。ギャラリーに上がって行く人もあれば、ギャラリーの近くでない人はステージに上がっていました。
 夕方、校庭見たら、すごい瓦れきの山になっているので、これでは動けないと、校舎に教頭先生残っていたんですけど情報をやりとりしたら、連絡を入れてもつながらないので、まずはその場所で待機するとなりました。段々日が暮れて、暗くなってきて、寒いし、当時の校長先生がみんなに声かけてくれて、それに救われている人も多分たくさんいたのではないかと思います。6年生の女の子がファイトとかいう声かけたりして、こういう逆境の中で声出せるなんてすごいなと思いました。私なんかへとへとでそんな声なんて出せなかったですね。みんなで声かけあってお互い励まし合っていましたね。
 夜中に地区の消防団の人が来て、足場確保するのでもうちょっとお待ち下さいという声が聞こえた時に、ああここからようやく出れるんだなと思いました。それから30分くらいしてから道を確保できたので、小さい子どもさんとかお年寄りとか体調悪い人から順番に移動を開始しました。
 校舎もすごいことになっていて、いろんな物が入っていて、真っ黒になっていました。中に避難していた人がアルコールランプをともして明るくしてくれましたね。学校の裏まで津波が来てますので、車で浮かんでいた人を消火栓のホースを出して、それをロープ代わりにして救出したようです。あるおじいさんは、指を切断してかなり血を出していたとのことでしたね。
 2階の特別支援学級の教室を野蒜小学校の職員の部屋として使って対応することにして、私たちはそこに集まったんです。その隣の理科室が本部となって市役所、消防の人たちが対応しました。その時点では、子どもたちは70人ぐらいいたと思います。親御さんが迎えに来た人もいたし、避難している親御さんとそのまま学校にいた子どももいました。私が家に帰れたのは3日目でした。
感謝のメッセージ
 校舎に移動して、わりとすぐ、中下(なかしも)地区の人たちから差し入れが来たんです、おにぎりとかですね、それは本当にうれしかったですね。当然数足りないんですけど、子どもたちに渡せました。それから、少したってから市から救援物資として食パンとジャムが届きまして、ありがたかったですね。
未来に向けて
 震災を経験して後世に伝えたいことは、負けない気持ち、強い体と、強い心を持っていないと駄目なんだなと思います。それがないと前に進めないし、人も助けられないと思います。もちろん、それがないと自分を守れないので。前向きな気持ちが、不便なところもプラスに変えていけると思いますね。

内海 牧子 60代 女性
 主任児童委員
 石巻蛇田イオンショッピングセンターで被災
(平成24年8月11日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 震災発生時は蛇田イオンにいました。2分ほどで天井が落ちちゃったんだけど、落ちる寸前、波打ってましたね。しばらくして落ち着いたら、「みんなで蛇田中学校の3階に避難しますよ」って、店員さんが全員でお客さんを引き連れて脱出したのですが、私はそれどころじゃなくて、「野蒜に帰らなくちゃ」って。自分の車に乗って、野蒜に向かったんです。三陸道か農道か迷ったんだけど、農道を通ってきて、いつも20分くらいでくるところを、1時間くらいかかったんですね。ようやく西保育所や願成寺のところまできたら、もうそこで通行止め。45号線は波があがってきているし、願成寺から西保育所にちょっと行ったところの信号の前もがけ崩れになっていて、瓦礫は山ほどあった。そこでも係りがいて通行止めで、野蒜に戻れないよってことだったんで、願成寺に戻ったの。
 願成寺の下も水がきていたんですよ。あとは車の中でラジオをつけたりしてました。どんどん雪が降ってくるし。それが3時くらい。2時45分頃の地震で願成寺に戻ってきたのは4時近く。その時もう津波がきてたのね。ラジオで「津波がドンドン押し寄せて、野蒜方面の家が流されています」「野蒜小学校の2階まで水があがってきました」って放送がありました。もうこれは何だろう、信じられないと思ったね。
 朝の5時か6時頃。その頃には波が引けたから、とにかく野蒜に向かいました。周りは山のくらい瓦礫があったけど、45号線だけは行き来できるように、どかしたんですよね。どんどん野蒜のほうに行ったら、中下あたりはなんともないのね。「ああなんともないんだ」と思いながら、どんどん野蒜小学校に向かって、亀岡ってあるんだけど、あそこまで来たら、もうすっかり渋滞。みんな車で逃げてきたんだね。野蒜小のほうを見たら、これはどうした、もう信じられない、という光景でした。家は流され、車は流され、小学校の前に山積みになっていたの。そのほかに電柱やら建物が全部なぎ倒され、道路も何もないわけね。それこそ戦争でないけど、地獄の世界。見た瞬間、震えがきてね。

櫻井 りつ子 50代 女性
 東松島市大塚
 野蒜「かんぽの宿」にて被災
(平成24年9月4日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は中学生の娘の卒業式で、懇親会がもうそろそろお開きという時に地震が来ました。 (会場だった「かんぽの宿」の)2階、3階、4階、屋上と登っていきました。屋上は寒くて無理だということで最終的には4階で一晩過ごしましたね。一晩長かったぁ、揺れてね、クラクションも鳴っているしね。私達の命が助かったのは寒いところじゃなかったから、何もなかったけど布団があったおかげで、寒さをしのげたのが本当によかった。
 朝、出発して、まず小学校に行ったんですがすごい状態で、「こりゃあダメだー」と・・。次に定林寺さんの方に行ったんですが、そこも身動きがとれない状態で。中下にも避難できる場所があるって言うんで歩いて行ったんですが、そこもいっぱいでした。「あー、自分たち入ったらもっときつくなるのかなぁ」ってね・・。
 3人と1匹で、すごい格好で歩きました。浴衣を着て、バスタオルをかぶったり、毛布をかぶったりしてね。どろどろの格好ですよ、靴もズボンも。「どこもいっぱいでどうしよう・・」って。じゃあ、大塚まで行ってみようということで引き返しました。裏道を通って行こうとしたときに、同級生のお母さんに「りつ子さーん」って声かけられたんです。「いやぁ、今どこもいっぱいで・・」って言ったら「うちに来なさい」って。「こんな格好だからぁ」って言ったんだけど、「いいからぁ」って言われて。中下にある家ですね。上から下まで全部着せてもらいました。水道もだめで水もないから雪を集めて、その雪で泥を落として家に入りましたね。あったかい布団を用意してくれてね・・。あのときは冷凍庫もぜんぶ電気が切れてるから、大きい鮭を焼いて、鮭とおにぎりをいただきました。本当に良くしてもらってね。「そう言えば昨日、誕生日だったよね」って。3月11日が誕生日だったんですよ。そうしたら「うちの人も3月11日でさぁ、ケーキ買っておいたんだけれども・・」って。ぐちゃーっとつぶれたケーキだったんだけど「今日みんなで(お祝いを)しよう」って言ってそのケーキをみんなでご馳走になったんですよ。そこには、ぴいちゃんと、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、息子2が人いて、あとワンちゃんが2匹いました。それなのに自分たちにも分けてくれたんですよね・・。
感謝のメッセージ
 コタツの台が被災しないで物置にあったんですね。その台を裏玄関に置いて、そこにボランティアさんたちに向けてメッセージを書いたんですよ。言葉では伝えたんですが、その後は会わないじゃないですか。ボードにありがとうございますって書いたら、ボランティアさんたちも「あのときは冷たいタオルありがとうございます」とか「また来ます」とか書いてくれてね。後から奥さんを連れて来た方もいましたね。「ここ、自分たちが(きれいに)したんだよ、ここはすごく印象に残っているんだ」って。なにしろ元気よく掃除していたもんでね。だから、そう言ってもらえたのかなぁ。
未来に向けて
 自分は何かしてないと不安だったんですよね・・いまは家のことで頭がいっぱいですけど、家が落ち着いたら今度は何を考えんのかなぁって。将来は高台移転かなぁ、まず家に落ち着いて、次にまた考えようかなって思っています。立派なことはできないので、本当に自分のためなんですよ。でもこうして見ると、自分が幸せな平和な気持ちでいれれば、人に優しくなれたりするのかなって思いますね。自分が不安だったりしたら、人のことが見えないもんね。自分のことしかね・・。だから少しでも、自分がいい心でいるには何をしたらいいかなって思って、やっぱり前に進んで、何か困っている人がいたらお助けできたらいいかなぁって。まずは自分がね、平和にしていないと人の幸せにも手助けできないのかなぁって思いますね。まず、家庭を第一にして。そういうのを今回感じましたね、いままでがあたりまえすぎてね。幸せすぎたんですね、きっと。気づかないでいたんですね。家族でいっぱい喧嘩するんですけどね、泣きながら喧嘩して・・ただ、被災後のことというか、東名の家のことはやっぱり口に出さないですね。あまり言わないように・・たぶん言うとみんな(涙が)ポロッとなるから言わないのかなぁ。でも、今は今を大切にしてね・・。

大山 知美 30代 女性
 東松島市野蒜にて被災
(平成24年9月5日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 野蒜小学校の体育館に入って、担任の先生に挨拶して、雑談してたんです。そのときは津波が来るなんて思ってないのでね。そしたら、津波が来るみたいだっていう話が聞こえてきて、校舎に移動した方がいいっていう感じになったんです。それで、子どもたちに靴を履かせて、下の娘2人に履かせたか履かせないかで、もう水が入ってきたんです。「あぁー」って思って、一番下を抱っこして、走ったんですね。奥のステージの方に行ったら、そこにいたおじさんが引っ張り上げてくれてね。ステージに上がったんですが、すぐに足が届かなくなっちゃって、「あ、やばい」と思って。当時3才の娘が右手にいて、左手に荷物を持ってたんですけど、荷物どころじゃないなと思って荷物を投げて。左手に5才の娘も抱いたんです。抱いたと同時に、私ももう足が付かなくなて浮かんだので、「お兄ちゃん、お兄ちゃん、どごいるー!」なんて言ってね。お兄ちゃんは、わたしのジャンパーの帽子にすがってて「背中で浮かんでる!」なんて言うから「ちゃんと帽子につかまっててよ」って言いながら、どうしたらいいんだろうと思って・・。皆さん結構、どんちょうとか、ああいうのにつかまって流されないようにしてたんですけど、私は両手がふさがってたのでそのまま流されちゃったんです。体育館の中が渦になってて、その渦に巻き込まれて流れたんですけども、運よく流れたのがバスケットゴールの方で。きっと渦の端の方を流れてたんでしょうね。「お子さん1人ずつよこしてー!」って言われて、ギャラリーの人が1人ずつ引っ張り上げてくれたんです。一番下から順番に渡しました。ちょうどギャラリーと同じ高さまで水位があったんですね。ギャラリーの柵って今思うと高いんですけど、あのときは「はいっ」って渡して、「はいっ」って受け取れるくらいの水位だったんです。必死でしたね・・ひとりずつ渡して、そして私も引っ張り上げてもらって。
 そこまでは、一瞬だったと思います。5分も10分も浮かんでたわけじゃなく、あーって思う間に流されて、端っこにぶつかって、引っ張り上げてもらって・・。上がってからが長かったんですよ。子どもたちはもう、何があったか茫然としてて、「何が起こったんだろう、みんな浮かんでるよ・・」って。私は最初のほうに助けられたので、皆さんまだ浮かんでたんですね。「浮かんだよ」とか「沈んだよ」とか、子どもは冷静に見てるわけですよ。浮かんだ人がいるとか、沈んだとか、あの人は何回も浮かんできてるとか・・。みんなで、何かないか、ロープはないかって言ってるんですけど、下の子どもたちは「怖い、怖い」って言い始まったので、申し訳ないけど私は救助のほうじゃなくて、子どもと一緒にいようと思って。ぶるぶるぶるぶる震えてた子どもと一緒に、さすりながら・・。あとは、そこからはもう、ひたすら寒い寒いっていうのに耐えてたような感じです。

安倍 淳   50代 男性
安倍 志摩子 50代 女性
 ㈱朝日海洋開発 経営
(平成25年3月14日鹿島台の会社にて取材)
被災体験談
安倍 淳 
 あの日、私はいつものように仕事をしていました。外に出て、みんなどうしてる、こうしていると話していて。そして1時間が経過したんですけど、その時、今思うとやってはいけないことの最たるものですよね、津波を確かめに行くっていう行為。津波が来る時は川の底が見えるんだと聞いていたもので、本当に津波って来るのかな、っていう事で、私と仲のいい地元の方と一緒に河口を見に行ったんですよ。川を見て、そんなに底が見えている訳じゃないから、津波は来ないな、と思いました。
 でも、自宅の前に来た時に変な音がしたんですよ。ガサガサ、バキバキ、そういうのが混じったような音がしたので、「あれ、おかしいな?」と思って。新町の通りは幅があって見通しがいいので、ちょっと左側の河口の方を見たら、一番端に津波がぶつかって、波が返ったんですね。それが津波だってすぐわかったんですけど、嘘だろう、まさか、って思いがもう99パーセントで。あとは体が向いている方に走ったんですね。私はそのまま向かいにあった、8ヶ月前に建てた事務所の方に走ったんです。
 3時50分近くには、僕らは津波にあったということです。2時46分の1時間後、ってことですね。凄い勢いで水が上がってきたんです。山の方を見たら、水が一面にあって、浜市方向を見たら、松の木の頭しかないんです。すごいな、とうろうろしていましたね。そのうちに、事務所の土台がバーンと外れて、動き出したんですよ。流れ始めると、隣の家にぶつかったりして、ぐるぐる廻り始めて、方向感覚がわからなくなりました。家内がいた自宅が自分より前にいて家内がベランダの端にいたのが見えたんですね。ちょうど、鳴瀬川と吉田川の合流点付近だと思います。たまたま、うまい具合に一瞬ぶつかったんです。それでも距離的には3~4メートル以上あって、がれきもあったんですけど。「こっちに、飛べ。飛べ」って言ったんですね。私は体を半分くらい乗り出して、手を伸ばして。家内はベランダを乗り越え、屋根を伝って、這って行く状態で、捕まえましたね。
 JR仙石線の高架橋の下をくぐる時に、2階の事務所ごと、壁がついたまま激突しまして、だるま落としのように、くぐる時にすぽんと建物の屋根と壁が全部落ちました。残ったのは自分たちがいた3~4メートルのフロアだけです。その時、自分は水の中に落っこちたのですが、記憶にないんですよね。あばらが折れていたのも、全然気づかなかった。頭も打って、凄い衝撃だったんだね。そして、家内につかんでもらって、フロアの上に上ったんです。そのまま腹ばいになったんですけど、その時の言葉が「これが津波か?これが事務所なのか?」でした。40分~45分流されたんですけど、その言葉しかなかったですね。
未来に向けて
安倍 淳 
 今、自分が一番怖いのは、2年とちょっと過ぎて、あの時のことを忘れることですね。人間って忘れるようにできているから、それが一番怖いです。だから、いろんな所に行ってお話する時は、その当時のいろんなものを見て、その時の気持ちに返らなければいけないな、と思っているんですよ。後から付けた情報だと、あまりにもきれいに話してしまうじゃないですか。あの時って、汚かったんですよ。物もなかったし。そういうのを本当に伝えるには、貧しくないと駄目なんですね。物がなかったという物質的な乏しさがないといけないんですよね。今みたいに、冷蔵庫を開けたら何でも入っていたんじゃ、そういう話ができませんものね。
 子どもたちには、どんな状況に追い込まれても、必ず自分が希望を持っていれば、物事は明るい方向に進んで行くんだ、っていうか、望む方向に進んで行くんだ、ということを信じてほしいんですよね。学校の5教科のように、いろんな専門的なことを学んでも、それは社会に出てすぐに役立つものではないから。仲間の中で生きる、ってことを勉強してほしいと思うんですよね。どんなふうになったって、マニュアルから外れたら死んじゃうようじゃ困るので。どんな時でも、人を信じるとか、自分の信念を持つ、ってことができれば、どこでも通用すると思うんですよね。その一貫として、水難事故のことを僕たちは教えられるので、教えながら、子どもたちと一緒に学んで行きたいと思います。
安倍 志摩子 
 自分たちは、全然辛いことなんてなかったと思うんです。今回のことで。無くなったのは、建物だけで、家族は無事だったので。それから、仕事もありますし。だから、仕事がなくて大変だったり、子どもを亡くしたり、家族を亡くしたりしている友達がたくさんいる中で、私達が辛いなんて言って、泣いたり、落ち込んだりしていられないな、と常々、戒めのように考えてます。そんなふうに思いを寄せることぐらいしかできないので。自分たちが頑張って、少しでも世の中のために出来ることを、例えば仕事を頑張ったり、いろんな話をしたりして行かないと。きれいごとじゃなくて、心底そう思うんですね。周りの人たちのことを思うと。本当に耐えられないような、辛い思いをした人たちが山ほどいる。だから頑張らないといけないね、といつも思っているんですけど。
 私は、人間っていうのは、もっと力があるものだ、ということを信じてほしいんです。震災直後の避難所とか、何もないような所でみんなが生きてきたけど、みんなで協力して、希望が見えれば、いろんな力を結集して、乗り越えることができるんですよね。地震があったらすぐ逃げる、危険回避行動はもちろんなんですけど、その他に、人間っていうのはどんな極限状況でも希望は見えるんだ、持てるんだ、ということを信じてほしいな、と思うんですね。それを持てるかどうかで、乗り越えて行く力が左右されるんじゃないかな、と思います。

鈴木 大介 10代 男性
佐藤 一紀 10代 男性
 かんぽの宿松島(東松島市野蒜)で被災
(平成25年5月19日東松島市図書館にて取材)
被災体験談
【質問】震災当日、どこで何をしていましたか?
(鈴木 大介)
 あの日は卒業式が終わって、謝恩会でかんぽの宿にみんなでいて、食事をしていたら、地震に遭遇しました。それで、何があったかわけがわからなくなって。とりあえず逃げて、屋上に上がって外の景色を見てみたら、もう信じられないくらい、ぐちゃぐちゃで。車も流されていたし、人も流されるのを見てしまったり・・。それは、きつかったですね。
【質問】屋上から見た津波は未だに思い出したりしますか?
(鈴木 大介)
 頭から離れないですね。一生離れないと思います。
(佐藤 一紀)
 忘れちゃいけないことなので。車とか、いろんな・・人が造ったものが、こんなにも簡単に壊れるんだなって思いました。
【質問】翌日、水は引いていたんですか?
 (鈴木 大介)
 水はほとんど引けていたんですけど、泥とかがいっぱいあって、歩ける状態じゃなくて。けど、やっぱり一旦は家には帰んなきゃ、ってなって、歩いて家まで帰りました。
【質問】卒業生の中には、家には戻れず、そのまま避難所へという友達もいましたか?
(佐藤 一紀)
 ほとんどですね。(家が)無事だったのは、3~5人くらいです。
(鈴木 大介)
 俺も帰った日は家じゃなくて、避難所で1日過ごしました。大塚のコミュニティセンターで。家族みんなでですね。人がいっぱいで、区の人がほとんどいた感じですね。
【質問】夜が明けて、見た風景はどうでしたか?
(鈴木 大介)
 ここには、何があったんだろう?というか・・。原形が留まっていなくて。信じられなかったです。何があったのか分からなくて「この震災、嘘なんじゃないか?」って思ったりしました。
未来に向けて
【質問】将来の進む道はもう決めていますか?
(鈴木 大介)
 僕は就職希望です。震災中に消防士の方々にお世話になって、自分もこういう人になりたいな、って思って。公務員で消防になりたいな、って思っています。消防士さんって、火を消したり、体を使う仕事だけなのかな、と思っていたんですけど、避難所に来てくれて、苦しんでいる人たちの話を聞いてくれたり、カウンセリングみたいなこともしてくれて、こういう優しい方々が揃っているんだなぁ、って思って。それで憧れて消防士になりたい、って思いました。
【質問】これからの防災について、震災を経験して学んだことはありますか?
(佐藤 一紀)
 親から聞いた話なんですけど、前のチリ地震の時に、津波はあんまり来なくて、それで今回、油断して流された人が多いということで。とりあえず、地震っていうのは震度がどれくらいで、マグニチュードがなんぼ(どれくらい)であっても、油断は決してしないで、常に気をつけて生活していくのが一番いいのかな、って思います。
(鈴木 大介)
 一紀と一緒で、やっぱり油断しないことですね。津波は絶対来ない、ってみんな思っていたんですよ。前にも大きい地震があったりして、その時も津波が来なかったんだから、今回も大丈夫、っていう油断が。やっぱり油断しないで、常に、地震が来ても来なくても、気を引き締めて生活することが大切だなぁ、って思いました。
【質問】震災を経て、自分の中で変わったことはありますか?
(鈴木 大介)
 中学校で一緒だった人達と、中学校の時以上に結びつきが強くなったかな、って思います。普段の生活で会う人がいるんですけど、会った時に気を使ってくれたり、優しいというか・・。中学校の時はもっとさっぱりした関係だったんですけど、いろいろ心配してくれたり、逆に自分も相手のことを心配したり。(部活で)怪我したって情報がすぐ広まって、そういう時はみんなが心配してくれたりします。みんなで同じ風景を見ているので、仲間っていう気持ちはそこから強くなりましたね。

木村 孝雄 50代 男性
 野蒜市民センター事務長
(平成25年6月20日 野蒜市民センターにて取材)
被災体験談
 大きい地震の場合は津波のことを考えなければならないので、「来ないだろう」という前提はあったんですけども、山に逃げなさいということを言っていたものですから、小学校の高台へ地震が収まると同時に、妻と母親は避難をしました。私は店の片づけとかありましたので、そのままそこに残っていました。そして、来ないだろうけど1回、自分も避難しなくてはいけないということで、戸閉まりとかブレーカーとか下げて、市の防災無線を持って避難をしようとしたんですね。その時にラジオから「三陸、気仙沼で6メートルから7メートルの津波が到着している」という情報があったんです。「じゃあ、もしかしたら」ということで、私も外へ出たら東名運河の水が全部引いていて、底が見えていたんですね。それで、もしかしてということで隣近所に声かけて、「1回逃げましょう」というとこで、野蒜の高台に避難したということです。
 それから、高台へ来まして。亀岡の地区センターの役員をやっていたものですから、避難訓練とかあるじゃないですか。いつもの通り、その時も津波はこないだろうと、ただ少しは長引くなということで、地区の災害本部を作ろうとみなさんで協力しながら、訓練通り作り、テントを建てようとしていたら、右の耳から凄い音が聞こえましたね。いわゆる瓦礫の擦る音、津波の音ですけども。山田そろばん塾ってあるんですけども、その右の方から津波が約2メートル以上あったですかね。真っ黒い津波です。ひたひたじゃなく、立って来るんですね、津波って本当に。壁ですね。それを見て、一目散に小学校の校舎に逃げました。ただ本当に見た時間がぎりぎりだったんですね。津波に遭わないでそのまま校舎に入りました。
未来に向けて
 今、鹿島台にいますけども、野蒜を忘れましょうと簡単に忘れられるものじゃないし。今は迷っていると言いますか。今後どうしたらいいんだろうと。ただ、私はありがたいことにここに住まわせてもらって、いろんな方と知り合って、震災後に市民センターの職員になったものですから、まあ、何とか少しでも私がここで生きて、生活していた今までの御礼をしなくてはいけないなという気持ちでやってます。この年で、将来の展望がどうのこうのと、なかなかもう一回ゼロからスタートするのは難しいですね。逆に言えばまだまだですけども、残された時間っていうのを、それをどのように使おうかなと。

丹野 幸男  60代 男性
 震災当時 市議会議員
(平成25年7月12日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 私は、地域では常々、戻るなってことを言っていたんですけども、その時はまあ、慌てたんでしょうね、戻ったんですよ。洲崎に。一番大事なミスを一つ犯したのがラジオで津波の情報を聞かなかった、ってこと。全然わからずに、洲崎に「どうなってんだ」っていう思いで、向かったわけです。そしたら、途中で区長さんが顔色変えて「みんな出ろ、逃げろ」って叫んでいたのが記憶にあります。年取った方が洲崎に相当いますんで、区長さんに聞いたら「まあまあ避難したんだけど、まだ残っている」と。探したら2~3人いましたんで、道路に出てきたのを、野蒜小学校の体育館に送って行ったわけです。そこは市の指定している避難場所だったので、「ここで大丈夫だから、ここにいなさい」ということで。あと区長さんから頑固なお婆さんが一人残っているということで、報告があったんです。お婆さんを助けに行ってくるからと、再度洲崎に向かって行ったら、亀岡橋を過ぎて間もなくですね、パッシングする方がいて、何だろうな?ということで、「何だい?」と話したら、「津波がえんまん亭(洲崎にある食堂)まで来ているんだよ」ということで、すぐUターンしましてね。亀岡橋に向かったわけなんですけども、あそこは渋滞していましたね。それで田村理容店という所に車を突っ込んで、北大仏の仙石線のトンネルがあるわけですけれども、そこへ逃げました。
 そして津波に呑まれたと。ちょうど右手に電車がひっくり返っていたんですね、仙石線の。ですから、瓦礫はあそこで止まったのかな?私がいた所には瓦礫は流れて来ていないんですよ。泥を3杯くらい飲みましたけども。あと、タイヤが浮かんでいたので、そこまで泳いで、タイヤにくっついていたんです。そこで3時間位浮いていましたね。暗くなっていましたから、もう。その2~3時間の間に何を考えたかというと、「もう、自分は駄目なんだ、死ぬんだ」と、覚悟を決めました。もう、誰も助けに来るわけじゃないし、もちろん自力で歩けるわけじゃないし。水ですからね。ただ、左手に若いお母さんが、生まれて1年もたたない子どもさんを抱えて、木にひっかかっているんですよね。そして「おんちゃん、助けて、助けて」と。助けるわけにいかないんですよ、動けないんですから。それを聞きながら、「頑張れ、頑張れ」ってことで、時間は過ぎていったんですね。
感謝のメッセージ
 何かしようかという時には仲間と一緒に、やれる何かをやりたいと。野蒜地区に世話になったもんだから。これは忘れることできないですね。3人の子ども、みんな学校出させてもらったんだから、旧鳴瀬町から東松島市にね。何かを恩返ししたいな、と思っています。自分でも人生変わりましたね。逆算するようになった。今までは、あと5年たったら70何ぼになるとか。あと、俺死ぬのは90歳くらいかな、と思っていたんだけども、自分の復興を考えた時に、今建てないと、俺は新しい家に入れないんじゃないか、って思ったの。あと何年生きられるかって仲間と話をするんだけども、「家建てることないよ。あと10年も住まないんだから」とかさ、「病気してあと2年位で終わるんだから、公営住宅に移った方がいいんじゃないの」とか。その方が楽ですよね、公営住宅の方が。でも、やっぱり自分の家に住んでいたものだから。1500坪平らな所だから、果樹園をやってみようかと、別の夢を探してね。孫と一緒に暮らすもんだから、その孫たちと一緒に、何を植えるか、りんごか桃かとか。そんなのみんな買って、果樹園を作ろうというような。子どもに返りましたね。果樹園を作りながら、仕事は現役で仲間と一緒にやれるところまで、精一杯頑張っています。まだ、やつれていませんから。疲れてっけどね。
未来に向けて
 皆さんがどう思ったかわかんないけど、想定外で決めつけないで、今後、復興するにあたって、よほど考えなければ駄目だな。自然には勝てないんだ、やっぱり。俺、つくづく思ったね。避難道路、あんなのなんぼ(どれだけ)立派なの作っても無駄。だからやっぱり、年とってる人は特に、10分位で高い所に逃れること。ビルでもいいし、タワーでもいいし。道路は無駄、私はそう思います。だってさ、避難道路作っても、一人が停車すれば終わりだよ、アウトだよ。皆、乗り降りしてね。だから、よほど考えないと。
 本当に安心、安全なまちってどういうまちなんだ、って聞かれた時に、心とか何とかって、それも必要です。みんな仲良くいいまちを作って、コミュニケーションを大事にする。そういうのは大事だけども、災害に強いまちづくり、というのも大事。今鹿島台、大崎市でもやっていますけどもね。吉田川の堤防が決壊した時に、この町は守るんだよ、という堤防を作ったんですよ。道路をね。あれなんかもね、町長が発案したんじゃないかな。やっと今、完成なんだけども。町だけは水没から免れよう、ってことで。
 ここだって危ないですよ。この間の津波で終わりではないんだから。千年に1回っていうんだけども、その1回が今来るかもしれないし。そこを、津波が来たって、逃げれば命だけは助かるよ、っていうまちづくりをしてもらいたい。家は流されてもいいから、命だけは助かると。そういうまちづくりをみんなで考えて。議員さんたちに任せないで知恵を出してね、そう思います、今。

黒沼 俊郎 40代 男性
 宮城県松島自然の家
(平成25年8月8日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 地震がずいぶん長く続き、停電し、水道管が破裂し、机上にあったものが音と共に倒れていました。落ち着きを取り戻した時に、班長の指示で、それぞれの部署の確認作業をしました。主に宿泊棟と、当日は5つのキャンプサイトがあったのですが、どこにもお客さんはいないということでしたので、所内にいる人間の確認。外部から入っていた2人の業者の方も一応、ホールに全員集まりまして、情報を収集しようとしました。
 ところが、何かで情報を入れなければと思ったのですが、ラジカセには普段から電池が入っていませんでした。エコ的な扱いもあったんでしょうが、貸し出しする時まで、敢えてはずしていたんですね。電池のある所に行ったら、そこが収拾つかなくなっており、どこに電池があるのかわからないような状態でした。何とか探し、電池を入れて電波を取れる所まで行きました。館内では、電波を取り入れることができず、建物を出て玄関前2メートルまで行ったところ、一番先に飛び込んできたのが、「大津波警報」でした。大津波警報って聞いたことがないなって、すぐ館内に戻り、館内にいた人全員に「大津波警報です」と叫びました。
 夕立ちの直前みたいな感じで、どす黒い雲が流れ始めたな、と思ったような時に、バリバリバリという音がしてきました。私は、ちょうど1階付近にいたと思うんですけど「このバリバリという音、何だろうな?」って思いました。自然の家は廻りが木で囲まれているので、見通しが悪く、いくら屋上に上がっても海岸線は見えないんですね。でも、バリバリという音と共に、茶色い水がすーっと寄ってきたんです。「津波だ」って叫んで、2階の屋上に上がった時に、たぶんその時点で11人のうち8人位は屋上にいたんです。ところが、これもやんなきゃならないんじゃないか、と思っていた何人かが、自分の判断で1階の食堂付近か事務室にいたんですね。「津波だ」っていう声である程度みんなが我に返って、誰がいる誰がいないっていうのをとっさに判断し、一番最後に、たぶん事務の職員が階段をとんとん上がってきて、全員が確認されて「あっ」って思った時にはもう、さっきまで私が見ていた茶色い水がひたひたと来る感じではなく、たぶん1メーター、2メーター、3メーターと、ぐうーっと水が上がって来る状態でした。屋上に青い手すりがあって、野蒜海岸方面を見渡せる所があるんですけど、全員がそこにしがみ付きながら、水が増えて行く状況を見ました。
 一晩、何とか体を寄せ合って寒さをしのぎ、翌朝を迎えたんですが、スタッフがまず男女に別れて次のことをしました。女性は、研修室にあった私たちが使った椅子を、屋上に持ち出して「SOS」の文字を書き、男性スタッフは木を集めました。ただし、周りの木はほぼ濡れているので、施設の中で生かせる木、乾いている木を集めて炎をあげました。つまり、「ここに人がいる」というのろしをあげました。その火を上げ始めて、食堂のスタッフが朝食の調理を始めようとした時だったと思うのですが、ヘリコプターが自然の家上空を旋回しました。いったん旋回して確認して、ちょっと時がたって、また戻って来て、「救出しますから、もう準備して下さい」と。班長から、「助けてもらえるから、動くぞ」と指示されて、みんなで屋上に集合したんですね。ヘリコプターから、救助のためのスタッフが降りてきて「これから皆さんを救助します」と、助けていただきました。

伊藤 洋子 60代 女性
(平成25年8月21日グリーンタウンやもと仮設住宅ひまわり集会所にて取材)
被災体験談
 私は石巻出身なのですが、地震があったら「津波」っていうのは、親にも言われてきましたし、一応は知っているつもりだったんです。だけど、あそこまでの津波っていうのは、いざとなるまでは考えられなかったです。野蒜って言っても、家は駅の後ろ側の方でしたし、海から来ると松林があるし、運河があるんですよね。さらに向こうの山の根っこだから、そこまで来るとは想定していませんでした。地震で家もかなりやられましたけど、避難しようって気はなかったですよね、そもそも。
 地震と同時に、たぶん防災無線が落ちたんでしょうね。だから、外で津波が来るっていう知らせは全く聞いていなかったんです。隣のお婆ちゃんが「津波が来るから避難しろ、って言うんだけど、どうする?」って家に来たんです。「どうしようね。鍵、閉まんないのよ」って言っているうちに、ごーっと鳴ってきたので見たら、前の家と家の間から何か黒い山みたいなのが動いてきて「えっ、ひょっとしてあれ、津波?」って思った時はもう、ほんの近くまで来ていました。
 隣のお婆ちゃんを抱えて2階に上がった途端に、隣のお婆ちゃんの家は流れて。自分の家は浮きあがって、2階に乗ったまま流されたんですよ。2階も再び水がきたので腰までは濡れたんだけど、窓枠に乗ってカーテンにつかまって、それで流されたんです。何分くらい乗っていたのかよくわからないけど。周りの景色も変わるしね。必死でしたし。
 その後、着地したんだけど、それがどこなのかよくわからなくて。でも、前に浮いていた車が、だんだんタイヤが見えてきたりしたので、水が少なくなったんだろうな、と思うくらいまで、その家で待ったんですよ。そこで、どうしようかは悩んだんですよ。前の家まで泳いで行って、助けを求めようかとか。でも、あそこの家の2階にどうやって上がろうか。その家に一晩居座ろうかとか。でも、取りあえずここまで濡れているから、隣のお婆ちゃんがこのままでは凍死しちゃうから、避難所までは行かなくちゃならない。水が引いたような状態を見て、行かなくちゃならないね、と思って歩き始めたんです。だけど、地面は平らなわけないですよね。津波の後だし、しかも瓦礫だし。だから、2歩3歩歩くまではよかったんだけど、何歩か歩いたら、ぐーっと沈んじゃってね。すっかり濡れたんです。それで進めなくて、進めなくて。瓦礫をまたぐしかないですよね。隣のお婆ちゃん、ダウン(ジャケット)まですっかり水を含んでいるから、這いあがれない。それを押し上げて、自分もくぐろうか?またごうか?と、繰り返しながら行っているうちに暗くなって。3時間か4時間くらいですかね。野蒜小学校の近くに赤色灯が見えるので、たぶんそこまで行けば、避難所だから何とかなるだろう、と思って頑張ったけど、途中までしか行けなかった。お婆ちゃんが力尽きて。このままでは駄目かな、と思っているうちに「もう、駄目」って言って、倒れちゃったんです。喋らなくなって。「このままじゃ、私も駄目かな」と思って、「とりあえずどうしようかな」と思った時に、近くにあった2階。まあ、真っ暗で見えないんだけど、人がいそうな気配がしたのね。それで「助けて下さい」って騒いだら、「誰?」って。その人が何件か横の人に声をかけてくれて、そこからさらに電話が通じないものですから、大きい声で「助けてやってくれ」っていうのを、つないでつないで、中継しながらその消防団の人まで届いたんでしょうね。何分かして、助けに来てくれました。先に隣のお婆ちゃんがぐったりしているのを連れて行ってもらい、「奥さん大丈夫ですか?」と言われて「大丈夫です」って言ったんだけど、あと記憶がない。気がついたら石巻赤十字病院にいました。点滴されている時に気がついて。次の日になる前、日赤がものすごく混んでいたんですよね。元気になった人から、ベッドじゃなくて床に降ろされたのね。床が妙に温かかったです、床暖があって。日赤の毛布1枚なんだけど。  
感謝のメッセージ
 人から見ると、ものすごく辛くて、生きていることが奇跡みたいに言われるけど、自分ではまだそれはわからない。だから、何かするたびに、「(家に)あったな」と一瞬思うのね。でも「あっ、(津波で流されたから)ないんだ」と思い返すんだけど。それに代わる何十倍、何百倍もの物をいただいているから、今はあまり物欲はないです。だから、物が欲しいんではなくて、来てくださることが感謝、ありがたいと思います。まだ、来てくださるでしょう。2年半にもなって。ありがたいことです。
 ここの集会所って、ものすごく行事活動が多いんですよ。その準備と片づけまでやるものだから、1つの行事があると前の日と次の日まで、いろいろやることがあるものだから、気が紛れる。楽しいですよね。夏祭りをやるっていっても、業者さんに頼んでの既成のお祭りじゃなくて、ここは全部手作りで、自分たちでやりますから。残っている人達は、できるだけここ(集会所)に引きだして、楽しく。ずっといるわけじゃないでしょ。あと2~3年ね。楽しい仮設の生活っていうのも少ないのでしょうけど、でもいるからには楽しくやっていきたいでしょ。だから、そういう事をわざわざ作って。

今野 みい子 60代 女性
 職場(東松島市小野)で被災
(平成25年8月21日 グリーンタウン仮設集会所にて取材)
被災体験談
 地震の時は仕事場にいました。松島洋装(小野字鍛冶沢)で仕事中でしたが、工場が広いので、棚に並んでいた糸とかが倒れてきたんです。布を裁断する長い台があったので、みんなに「台の下に入りなさい」と言ったのですが、みんな慌ててしまって、泣いたり「怖いよー」と言ったりしていました。私は、ちょうどその裁断台の下にいたんですけど、結構大きくて長い地震でしたが、この下にいれば大丈夫だと思いました。
 そこには、50人から60人くらいいました。揺れが収まるのを待って、3人の娘に電話をしたのですがつながらなくて、最後に1回だけ電話がつながったんです。その娘は小野の駅のほうに住んでいて、孫が浜市小学校と牛網保育所にいるので、子どもたちを迎えに行って、と頼まれました。娘は石巻で仕事をしていました。一度だけつながった電話で、私はそちらに行かなきゃ、と思いました。
 小学校に着いてから、初めは上の子を連れてくるだけだから、下の孫には「車で待っていてね」と言って、迎えに行こうかと思いました。でも地震の後で孫も不安かなと思い、一緒に迎えに行きました。かばんは車に置いて、車のカギと携帯だけ持って行きました。そうしたら先生に靴のまま上がるように言われ、2階まで上がりました。2階に行ったら「来たぞ、来たぞ」という声がして、ふっと見たら、津波が2階の高さで来ていました。ここじゃだめだとなって、3階の視聴覚室まで急いで上がりました。そこは部屋が小さくて、住民、小学生、迎えに来たお母さんたち、合わせて400~500人くらいいたんですかねえ。全員で狭い所に一晩いたんですけど、トイレはないし、水もない、電話もつながらない、食べるものもない、という状態でした。
感謝のメッセージ
 私の主人は介護施設でお世話になっています。この仮設の集会所がこういう形で開いていなかったら、もっと寂しかったでしょうね。幸いスタッフ4人で交代して来ているので、何とか楽しく暮らしています。隣近所の人との付き合いも、結構楽しい付き合い方ができているので、今はいいかなあ、と思っています。こうして、物作りをしていると、「おはよう」「こんにちは」って、来てもらってお話できていることがいいかなと。毎日一人で何もしないで家にいたら、しゃべらないでしょ。話ができないし、足腰も弱ってくるでしょ。結構、笑って楽しく過ごしているので、それがいいかな、と思います。

板宮 良子 70代 女性
(平成25年8月21日グリーンタウンやもと仮設住宅ひまわり集会所にて取材)
被災体験談
 私は仕事で、宮戸の里浜に行っていたんです。宮戸で被災して、8日間宮戸小学校に避難しました。ちょうど、海苔の仕事で行っていたものだから、今日で終わりだねと言っていたのね。「今日で終わりだから、明日からゆっくりすっぺね(しようね)」と言っていた矢先の、あの地震だったから。もう機械は止まらない。どうして、こっから逃げっぺ(ここから逃げようか)っていう感じで。
 やっとの思いで外に出ました。あそこ(里浜)の人達は「ここには津波は来ない。大丈夫だから」と、そういう状態でした。でも、「この地震だから、津波が来ないってことはないと思うよ」と、下の漁協の前で30分以上いましたね。1回は大高森に逃げたんですよ。大高森に上がって、見ているうちに「津波が来そうもないから」って下さ降りてきて、10分か20分位は下にいて話していたんです。
 そうしているうちに岸壁を見たら、1メートル位の堤防から(津波が)上がってきたのが見えて、それから又、大高森さ上がったっていう状態で。それでも、「家に帰ろう」と。30分位してから、津波が収まったから「帰るにいいかね(帰ることができるかな)」なんて言って、帰ろうと思ったら橋が折れていたんですよ。野蒜と宮戸の間の松ヶ島橋。あの橋が折れて、折れたからもうどこにも出られないよと。そこでもう、足止めをくらったわけだよね。
 それから8日間、宮戸の小学校でお世話になってきました。連絡を取ろうにも、取れない。だけども、津波の2~3日前かな、お父さんと話をしていたんです。「もし、私が仕事で宮戸に行っていたら、絶対、迎えに来ては駄目だよ」って。「何があっても、迎えに来ては駄目だよ」って、そう言っていたから、迎えには来なかったんです。矢本の中学校に行っていた孫を迎えに行ったので、うちではお父さんも助かる。お陰様で子どもたちも全部助かりました。

横田 浩子 40代 女性
 ヘアーサロンヨコタ 店主
(平成25年9月4日グリーンタウンやもと仮設ヘアーサロン・ヨコタにて取材)
被災体験談
 3月11日は、たまたまお客さんはいなくて、旦那が一人で店にいました。私は隣のお店に買い物に行っている最中に地震が来たんです。あまりに大きい地震で、自宅を外から見た時に、網戸が踊りを踊っている感じで「これはただ事じゃないな」と思い、取りあえず家に戻りました。茶の間にいたおばあさんと娘を確認したら、凄い錯乱している状態だったので、落ち着かせて。おじいさんが、川向いの公民館に行っていたので、安否を確認したら大丈夫だということで。一番下の子は学校から帰ってきていなかったんです。当時、高校1年生の娘と、中学1年生の息子が一緒に自宅にいました。
 外に出て、運河を見たら、水が半分くらい減っていたけど、干潮だとそのくらい減るので、「たいしたことないね」と言ってたんです。そうしたら、消防の人が回って来て「津波が来るから避難して」と。「放送(防災無線)も聞こえてないから、大丈夫」と言ったんだけども、「とりあえず、避難しろ」と命令が出たので、家に戻りました。体が不自由なおじいさんおばあさん(義父母)がいるので、野蒜駅の裏に山があるから、そこに避難させようと思って、家を出したんです。服を着て、貴重品を背中にしょって(背負って)。
 そうしたら、たまたま近所の方が来て「避難するんだったら、今、小学校に行くので乗せていってあげますよ」って言うので「じゃあ、お願いします」と。山を登るより車の方が楽なので、お願いして「あとから迎えに行くね」って。車には、おじいさんとおばあさんと、一番上の高校生のお姉ちゃんが乗りました。
 旦那は店を片づけて、私は2階の自分たちの部屋を片付けようとしていたら、息子が「変な音する」って。「津波!」って言われて。とりあえず2階に駆け上がったんだけど、2階でもまずいから「屋上に上がれ」って。そして屋上からずっと津波を見ていました。ちょうど、家から新町方面の川の方を見ると山があって、その上に松の木がいっぱい生えているんだけど、その松の木を越えて黒い波が来たので「これ、もしかしてアウトかな」って思いました。ある程度になったら、水が収まって。収まってから、別の所に避難したんです。
 息子に「水が引いたから、避難するよ」って声を掛けられて、貴重品を背負って、一人一人毛布を1枚ずつ持ちました。小学校に行こうとしたら、駅前は全く動きが取れない状態だったんですよ。駅裏から小学校にまわろうかと行ったら、裏も全然歩けない状態で。山の方に人がいて「上がって来い」って言われたので、そこで一晩野宿しました。野宿でも、30人近く避難している方がいたので。子どもたちとお年寄と怪我をした方は、掘っ立て小屋みたいな中で。動ける私たちみたいな人は「とりあえず、外にいろ」って。そこで火を焚いてもらって。飲み食いはできなかったけれど、鍋があったので火を沸かして、雪を溶かしてお湯にして、湯呑茶碗1個でみんなで1口だけね、と。それで一晩明かしました。
感謝のメッセージ
 震災後に、京都の方々が来てトラックに乗って、「散髪隊に行くよ」って。一番最初に出向いたのが蛇田小学校だったんです。それから釜小学校に行って、一番遠い所で狐崎まで行ってきたんです。あのまだ道路が普通じゃない時に。でも荻浜まで行くと道路が畳なんです。みんな陥没していて、畳の上をワゴン車で走らなきゃなくて。そっちこっちに家は倒れているし、消防車も倒れているような所を見ながらの運転でした。私たちは髪を切るだけで、京都から来た人たちはシャンプーを担当するからと。そういう流れで1週間くらい。最初の頃は子どもたちも連れて行ったんです、車の中で待たせて。蛇田小学校に行った時は校長先生が元鳴瀬二中にいた先生なので、すぐに会いに行ったんです。石巻だから、私たちは全く知らない人たちばっかりなんですよ。でも、石巻の床屋さんも一緒に行っていて、全部で5人くらいなので、自分のお客さんは自分でやりたいと。私たちは他のお客さんをやる、っていうので、結構人数はこなしましたね。狐崎に行った時は、夕方4時になったら「早く帰っていけ」って言われて。万石浦の橋が冠水すると、乗用車は無理だから、今帰らないと帰れなくなるから、と心配してくれたんですね。怖い面もあったけど、楽しかったね。

亀谷 伸 50代 男性
 仕事先(仙台市)で被災
(平成25年9月4日 新東名自宅にて取材)
被災体験談
 3月11日は仙台にいて、五橋の事務所に寄ろうかどうかと思った時でした。なんか胸騒ぎがしていました。やっぱり帰ろうと思って、新寺小路(仙台市若林区)を走っていた時、地震がありました。前の車がダンプだったのですが、揺れで車が浮き上がっていました。信号もすぐに止まり、新寺小路からバイパスに抜けて、東インターのところまで来ると、高速道路はもう通行止めでだめだということで、45号線に向かって、そのまままっすぐ、産業道路を来れば津波に巻き込まれると思ったので、すぐ45号線から塩釜の山の中を縫うようにして、利府に出たころは、車も渋滞になっていました。
 ここ(東松島市)に着いたのが4時半頃でしたね。雪も降っていました。第一分団大塚部の団員がそこに(松島公園線)出ていまして、通行止めにしていたんです。「なんだ、この水?」と思うような塩水が来ていたものですから、私はたまたま、別の車で歩いていた(移動してた)ので、「ご苦労様です」と声をかけると、「亀谷さん、中には入れないよ」と言われたのですが、「だめなんだ。おれ、資材置場も堤防も見ないとだめだから。」と無理矢理入ってきたんです。でも、坂の上まで来て動けなくなったんですよ。雪は降ってくる。人は流されてくる。野蒜側を見て左の方から、人が流れてくるんです。昔、学校の先生をしていた、知っている人でした。もう1人、親戚にあたる人が、居酒屋のマスターをやっているのですが、流されて跨線橋の下に立っていたんですよ。「おおい。何してるの?」って言ったら、「いやあ。流されてここまで来た」ということで、あちこちにいた人3~4人でロープを投げて、引っ張りました。
 流されてきた人を歩道のところに引き寄せて、かぶせるものも何もないもので「ああ、だめかな」と思ったんですが、一晩車にいました。うちの家内も事務所にいたはずだから、もう1人の事務員で七ヶ浜に嫁にいった女の子と、もしかして2人でいたかもしれないなあと思って。消防の長靴が車にあったので、どうにかして行こうかと思ったのですが、どうにも前に進めなくて。電話しても通じないし、私の車の後ろに消防の仲間や知り合いがいて、「おらいのうぢ、どうなってんのがなあ(私の家は、どうなっているのかなあ)。」とか「俺も、女房とも従業員とも、電話もできねえんだ。」とか話していて。とにかく車で待つしかない、と思っているうちに、消防団の団員の一人が、跨線橋のすぐ下から降りて行くところに家があるんです。「亀谷さん、家に来ない?」と言われ、「水、入ってっぺや(入っているだろう)」と言ったんですが、開けて入ってみたら、床の下まで水は入っていても、畳は大丈夫だったんです。そこに2人で雑魚寝しながら、一晩話しながらいました。
 朝4時半頃、その辺をうろうろしました。水も結構引いたなあ、と思ったのを覚えています。長靴をはいて、家の方に入っていきました。すごい状況でした。がれきの上をこいで、なんとか歩いてきたら、家内が自宅の2階にいたんです。家内に聞けば、東名の跨線橋を越えた線路の向かいに実家があるんですけど、そこにいるおばあさんが心配で、迎えに行こうとしたところを津波にあって、車を持っていかれたようで。2階に逃げて、一命を取りとめたようです。2階には見たことのない人が7人か8人いました。家の前の電信柱のところに車が2台流されてきて、その中にいた人たちが、消防団の部下の奥さんと子どもたちでした。あとお父さん、お母さん。6カ月くらいの赤ちゃんもいて、低体温になっていました。うちの家内が連れてきて、みんなを中に入れたようです。もう一組は、塩釜から大曲に帰る途中に震災にあって、一晩泊まったようです。私が帰って来た時、知らない人が2階から手を振っていたので、家内もいるんだな、と思いました。

櫻井 けい子  50代 女性
(平成26年3月4日 図書館にて取材)
被災体験談
 震災当日は、息子と一緒にちょうど山王の踏切渡る手前で地震になったんです。その時息子が運転していて、揺れたから「何、冗談やっているの」と「いや、冗談じゃないと」言われて見たら、電柱が揺れててこれはただごとじゃないなと思って、とにかく3番目の息子を迎えに行かなきゃないという頭があったので、ここに止めるわけにいかないからとにかく走らせて。山沿い利府街道を来て湯の原通って45号線に出て、松島のコメリの所から入って行って手樽に出たんですよ。それから富山に行って、富山の古浦あたりでちょうど海沿いじゃないですか、あそこで前の人に「津波来るらしいから、行かない方がいいよ」って言われて。そのままUターンして今度また富山まで行って、富山から45号線抜けてずっと行ったら吉田川もう逆流してたんですよね。「これ、もしかして逆流してる?」って、もう恐ろしくなりましたね。45号線からずっと下って来て浅井に抜ける道路に入って、中下あたりまで行ったら知っている人がいて「行かない方がいい、車置いて行った方がいい」って言われて。そこから3人で家まで走りました。
 その時、夕方5時にはなってたと思うんですよ。野蒜小学校の校庭には、いっぱい瓦礫やら何やら入って来てたから、津波きた後だったんですよ、たぶん。自宅にはたどり着かないけど校庭から家が見えるので「あっ、家がある」と思って、私のは母はどこも悪くないんで「近所の人たちと一緒にどこか小学校が避難所なのでそこにいるか、家の2階にいるかとにかく大丈夫だろう」と思っていたんですね。寒いから、車置いていた中下の公民館に戻ってその時で6時過ぎてたんだよね。そこから定林寺に行って、駐車場に車置いて本堂の手前の会館に入って、ずい分いましたね。何百人っていたんでないかしらね。夕方中下の人達が、区長さんのご配慮があったと思うんですけど作ってくれたおにぎり、一膳の握り飯じゃないけどもあれが嬉しかったですね、本当に。あの味まだ忘れられませんね。
未来に向けて
 これから、高台(野蒜北部丘陵団地)に戻って来られると思うんですけど、亀岡の人達、またみんなでいろんな集まりをやりたいなと。亀岡だけだったんですよ、運動会とかスポーツ大会、夏祭りもやってたのは。そういうのをやれたらいいなと思うし。とにかくみんなが集まる機会っていうのを多くしたいなと。みんなで「あーよかったね」って笑っていられるようなそういうような。また前のように戻したいですね。亀岡は今在宅50件くらいしかないけども、また高台に戻って来られる方も何人かいるって聞いているので、その人たちでそのままいろんなことやれたらいいなと思いますね。前の亀岡みたいにやれたらいいなあ。けっこう亡くなっている人も多いんですけどね。年配の人が亡くなっているんですよね。また同じような亀岡にしたいです。どこまでできるかわからないですけどね。
 この間、パドル(体操)で陸前高田に行ってきたんですよ。山の奥の奥で80歳以上の人達しかいないんですけど、その中ですごいパワー感じてきましたよ。あの年齢でもけっこうやれる人たちはやるなと思って、元気です。「俺まだ大丈夫だ。べこ(牛)飼ってんだぞ」って。そういうのを見ると、まだまだやらなきゃないよね私の年齢だと、と思うんですよね。ようやく震災の時の津波が見られるようになりましたよ、泣けますけど。うちを片づけに行ってその周りを見てきたことが全然なかったから。うちを片づけるのが精一杯で、12月に帰ってからようやく自転車で、「こうだったんだ、ああだったんだ」と見て歩ったから、それまでやっぱり見れなかったですよ。「おっかない」って。津波は見てないけど、川の逆流しか見てないんだけど恐ろしい。お世話になった定林寺には碑を建ててもらったし、母の名前刻んでありますよ。

佐藤 善文 70代 男性
 避難所「佐藤山」の開拓者
(平成26年8月4日 佐藤山にて取材)
被災体験談
 この山を作ったのは、15年前です。平成11年あたりから作りはじめたんです。藪で全然人が入れるような状態でなかったので、1人でこつこつと作りました。この小屋作った時は、最初はこの辺の人達みんなからは「津波来ないよ」って言われたんです。こういうのを作ると、みんな車で来てゴミなんか持って来て、迷惑のような話されたのね。それでも、私は津波が来るっていう予感してたし、タクシーで人命預かっているから、人の命守るっていうのは事故起こさないばかりでなく、災害の時も人の命守らなきゃならないというので、ここをやり出した訳ね。「何で作ったの?」とよく言われるんですけど、チリ津波も経験してるし、金華山沖に断層があるから危険だと言われてたから、私ら尚更海の側で営業やっているもんだから、避難所が必要かなと思って。この材料は実家から持ってきて、だいたい3年位でできたんです。
 避難道路が、野蒜駅から上がる道路、住宅から上がる道路、と方々から全部登れるようにしてあったから、一気に津波来た時、みんな上がってこれたのね。ここに向かって来た人たちは、一人も亡くならないで全員助かったわけ。怪我人やずぶ濡れになった人はいたんだけど。歩けない人は、おんぶされて皆上がって来たような状態でね。私が上がって来た時は、ここの小屋は一杯になってたんだけどね。 震災の時、ガスもストーブもあったから助かったのね。30人いたんです、ここに。みぞれは降るし、寒くて寒くてね。ストーブ2つつけてね。外国人もいたらしいですね、中国人だかも2人ここに上がって助かったとかね。ここで2日目くらいまで、情報入らないから、周りで亡くなった人いるっていうのわからなかったのね。
未来に向けて
 今JRの線を外し、サイクリングロードにしたらいいという案も出ていて、その場合海岸の方の避難場所はここしかないから、その時は協力してもらいたいというのが1つと、閖上から気仙沼まで桜をたくさん植えたんです。これは桜ロードって言って、これは残したいと言ってるわけね。仙台から海岸来ると、何かあるとやっぱり途中で休む場所はここしかないんだって。いろんな団体は、ここは注目しているわけね。
 (人が)亡くなった場所は、どうして亡くなったか、人命が助かった場所はどうして助かったか、両方調べなきゃないと思う。研究する余地はあると思う。将来、海に海水浴や釣りに来て、津波来たらどこに逃げるか。高台まで逃げられないから、海岸の近くにこういう所残しておかなければならないと思います。

東名ふれあいサポートセンター はまぎく会
(平成26年8月4日 東名ふれあいサポートセンターにて取材)
被災体験談
 会の名前は「はまぎく会」と言い、震災前から東名地区の老人会の集まりです。男女30人位いて、集まって旅行したりしていたのですが、今は震災で皆散らばってしまいました。野蒜や東名を離れてしまっても、鳴瀬の広報が毎月皆さんの手元に行くわけなんですね。その広報で呼びかけで新しく入ったメンバーと、前からいるメンバーがいます。去年の1月にセンターができて、みんなで楽しくできるようになったのです。それまでは、皆さん孤立していて、家の中に閉じこもってました。
 活動は1週間に1回で月曜日にやってます。みなさん、それを楽しみにして来ています。皆さんは、元々東名だったのですが、今はそれぞれ多賀城の方、高城から二人、あと東名、この男性の方は大田区の人で。彼はここがオープンしてから、3ヶ月後から東名にずっとボランティアで来てくれていて、今も生地とか綿とかネクタイとか、いろんな物を支援していただいて、今日はたまたま休みだったので遊びにきてくれたんです。その生地とかは、大田区に住んでいた頃に、地元の仲間とか、小学校・中学校の頃の友達とかからいただいたり、ボランティアやっている時に知り合った方に呼びかけをして集めました。
 生地は大田区さんとか、栃木とか秩父とか京都の方から来てます。いろんな方から支援していただいて、こういう物(つるし雛)を作ってます。綿も支援で頂いて、着物の帯地もです。今日のメンバーの他にあと3人いますが、都合で休んでいます。作った物は、来年の3月8日にここでひな祭りをやるので、つるし雛を飾って、地域の子どもたちに振る舞うんです。プロジェクトの方が来て、女の子に着物をレンタルで着せて、ひな祭りをしましょうという企画を出していて、これを作っているのです。
感謝のメッセージ
 このセンターができて、会長がいろんなことしてくれて。自分の家も流されたのに、返りみないで東名地区のために、うんとしてくれたの。こうして集まってこれたのも、会長さんと地域の方の協力だと思ってます。私たち、大田区さんが来ると家族同様です。この震災で、人のありがたみ、ここまでしてくれるっていうのを感じました。何にも言わなくても、気持ちをくんでくれて「こうだね、ああだね」って、大田区なんて高校生まで来てくれました。何かあった時に返せるのかしらと思うんです。私たち年配の人たちは、体では動けないので、何か身近にあるもので、自分で持っている物を差し上げれる物は差し上げたいと思います。そういうのは協力したいと思います。

奥松島観光タクシー
 佐藤 輝弥 50代 男性
 佐藤 礼子 40代 女性
(平成26年9月25日 奥松島観光タクシー事務所にて取材)
被災体験談
佐藤 輝弥 
 あの日は、らくらく号「デマンドタクシー」の運転をしていました。小野駅前のミニストップさんで待機しているところでした。突然の揺れで、車が両脇に止まっていたのですが、揺れが凄くて隣の車にぶつかるんじゃないかと思われるくらいで、車から降りるにも身動きが取れないような状態でした。お客さんは、運行と運行の合間だったので乗せていませんでした。揺れが収まってから、次のお客さんの配車の予定があったので、病院に迎えにあがりました。看護師さんに「回せるタクシーをいくらでもいいから、回してくれないか」と頼まれたのですが「これだけの揺れがあったので何台来れるかわからないけど、連絡は取ってみます」とお話はしました。
 それから私は、乗せるべきお客さんを乗せて行ったんですけど、お客さんを下ろした後に西福田の目移(めうつり)という所に、小さな橋があるんですね。南郷の方に抜ける橋なんですけど、その橋が段差ができていて、何らかの登れるような工作をしないと車はそのまま通行できないような状況になってたんです。向こうから先は完全にアウトだなと思いまして、連絡するにも電話もついているんですけど、当然通じませんので、市役所に行ってお願いしてみようと鳴瀬庁舎に寄ってみました。職員さんが対策についてお話されている最中でしたので、こちらの方のお話をするのははばかれたものですから、福田の方の道路状況は厳しいということを伝えました。
 連絡取れませんので、私は会社に戻ろうということで、鳴瀬庁舎から鳴瀬大橋を渡って中下堤防ですか鳴瀬川沿い、吉田川沿いを河口の方に向かって走って行ったら、川が完全に濁って台風で大雨降ったあとで、鳴瀬川が氾濫するような危険な状況のその逆バージョンっていうんですか。河口に流れて行くんじゃなくて、河口から上流に流れて行っているような感じに見られたんですね。「これが、津波なんだな」と思いつつ、事務所の方に戻ろうとしました。事務所に入ってくる踏切が遮断機が下りっぱなしで、まるっきり通れない状況だったんですね。そこを運行している最中に、ラジオで大津波警報が出てるということだったので、会社の方に無線を入れました。
佐藤 礼子 
 前あった事務所の中で、仕事(配車番)をしてまして、揺れが始まった時は犬と一緒に一人でいました。建物自体が古かったせいもあるんですけど、あまりにも揺れがひどくて建物がつぶれるんじゃないかと思ったくらいでした。犬を抱いたまま半分建物の中、半分は外に出て「いつ終わるんだろう」と思いながら、揺れがあまりにも長かったので「これはおかしいな」と思いました。
 (娘を)小学校に迎えに行ったら、みんな体育館に集められてまして、引き取りに行った時点で娘はもう泣いてたんですね。でも、私が迎えに行ったのは早い方だったみたいで、まだ待機していたお子さんもいっぱいいました。引き取って帰ってきて、「ランドセルを家の2階に置いてきなさい。いろいろ倒れていて危ないから、靴はいたままでいいよ」と言い、事務所に戻ってきたんです。義父と「すごかったね」と話していたら、ちょうど社長(輝弥さん)がタクシーで事務所の前に止まったんですね。その時、外に出ていた義母が「大変だ、波が来ている。津波だ津波だ」というので、びっくりして見たら線路の辺りが、水がザアーと来ているんじゃなくて、ぶちゅぶちゅとしてたんですね。社長が前に乗り付けたタクシーに、みんなで乗り込んで逃げたんです。逃げて行く最中に見たら、黒い壁みたいな高さが2メートル弱の波が、ずーっと押すように来るのが見えました。
 山の斜面を登ってそこで見てたんですけど、家とか車とかいろんな物が流れてきて、娘を迎えに行ったさっきまで乗っていた車が流れて行くのが見えました。自宅の脇に車庫があったんですけど、その中にあった車がダフーと水に浸かって、クラクッションがずっと鳴りっぱなしでした。あちこちでいろんな所からクラクションが聞こえるんですけど、「助けて」と言って鳴らしているのか、勝手に鳴っているのかそれの区別がつかなくて。斜面に登った時他の人も一緒に登っていたんですけど、一緒に登ってた方のご自宅が見えるんですけど、そこに水が流れていって「娘が家にいる、無事だといいんだけど」と心配されていたんですけど、どうすることもできなくて。あとからその娘さん、亡くなってしまったんです。
 あの時、目の前に社長が車で帰って来なかったら、あと義母が津波に気づかなかったら、誰も気づかなかったので、たぶん流れてたかなと・・・本当に偶然なんですけど、社長ももし間に合わなかったら、途中で車ごと呑まれてたと思うんです。
未来に向けて
 よく、お客様のお陰でとか、地域の皆様のお陰でとかいう言葉がいろんな商売やっている方から言われますけど、実際私らもその通りでですね、今回も私らが動いたことによって、すごい喜んで下さるお客がいる。どうでもいい仕事ではないってことで、誇りに思ってます。より安全な運行を提供していければなと。観光タクシーが走ってて良かったと、うちのタクシーのカラーがけっこうイメージが強いようでですね、お客様からすると昔の風景の1つのようなんです。野蒜周辺すべて無くなってしまいましたけど、野蒜駅に待機しているとか宮戸島を走っているとか風景の1つだったわけなんですね。そういう風景を残していくためにも、頑張っていきたいなと思います。

伊藤 礼子  40代 女性
 野蒜西余景で被災
(平成26年11月6日 図書館にて取材)
被災体験談
 私は野蒜の西余景の、友達でもあり仕事関係のお客さんでもあるお宅にお邪魔してた時に地震が来ました。その友達は臨月を迎えた妊婦さんだったんです。息子の同級生の子どもさんが帰ってきたところだったので、とにかく「テーブルにもぐれ」と言って。妊婦さんと子どもを守るのが、私しかいないと思ってしまったんですね。まずレースのカーテンを閉めて、何か飛んできたら危ないから外の状況を見れるように、レースのカーテンを押さえてて、とにかくこの二人を守らなきゃという気持ちで。揺れながらも友達に「毛布2~3枚持ったほうがいいよ。長丁場になるからね。」という会話もしているんです。揺れてる最中だと思うんですけど、お互いの子どもたちが保育所、うちの息子が小学校で「どうしようか?」と。小学校に逃げるという頭で2人ともいるので、私が小学校の息子を迎えに行って友達に保育所は連れてきてもらおうかなという話もしてるんだけど、「いやお互いの子どもを守ろう」という話になって、それぞれ行動しました。
 (野蒜)小学校の所はもう渋滞でした。体育館入る所に車止めがあって、誘導している人に「この車止め取らないと、亀山の方にずっと上って行って渋滞するから取らなきゃならないですよね。とにかくここの校舎に入れなきゃないですよね」と。1本道しかないわけだから、渋滞するのは目に見えてますよね。そこの車止めが外れなかったんですよ。だからもう駄目だと思って先生たちは体育館に行く、あと何人位父兄がいるとか教えてもらわないと私もわからないので、一人若い先生が来てくれて。お母さんたちも何人か来るんです。「こっち行くと渋滞だから、こっちこっち。ここしか入れない」って。体育館が避難所だから「ここから入れ!入れ!」と誘導しながら行って。あと先生が「もうこの位で。あとだいたい全部来たと思います」って。とにかく必死に保育所の子どもたちをと思ったんですね。
 体育館に戻って、そこで「津波だ!!」と聞こえたんですね。ふと、見たらすごく静かな感じで「あれ?」と思ったら、遠くから「ぼ~」と静かに聞こえて、作業着着た人が2~3人真っ直ぐ走ってきた人と、曲がった人がいたんですね。曲がった人はどうなったかわからないけども、その人達の後ろに大きな建物だと思うんですけど、ぷか~ぷか~と来たのでスマトラの津波をテレビで見てたので、津波ってひどいとこの位になるんだと思ったので「津波だ!逃げろ!!」って言って、校舎しか頭にないので校舎は開いてたんです。確かに開いてました。とにかく「逃げろ!!」って言った時に、いろんな人たち集まっているから、もうズーズー弁だと何か思うんですね。不思議と。「逃げろ!!」と言うと「どこさ、逃げるの?」と聞くから、ああやっぱりそうだと思って。「校舎さ逃げろ!昇降口だ!!」って。それ聞いた知り合いの人たちがいて、すごい声大きかったんですって。校舎に逃げて1階と2階の踊り場の所に行ったら、がちゃがちゃがちゃとか「ぎゃあー」とかすでに聞こえましたね。本当に危機一髪だったんです。
未来に向けて
 避難訓練も保育所の先生に言ったんですけど、避難訓練するからってお母さんたちそこで待っているし。そういう避難訓練じゃなくて、小野保育所だったのですが桜華小学校や未来中学校やこの辺の人と一緒に避難訓練が必要じゃないですかって言ったんです。早かったねでは評価に入らないと思います。先生達もいろんな先生いて、意識が高い人はうんと意識高いんですよ。自分たちはたまたまここにいて、あと移動するからいいの話じゃなくて、自分たち自身が今被災校にいるけど、どこか遊びに行って海で何あった山で何あったとかいう時もありますよね。子どもたちの心のケアだと言って、学校で楽しい行事をすごくやってくれるんだけども、楽しいだけでは駄目だし心のケアってとても難しいことですごく時間かかるんですけど、楽しい楽しいと言っても、例えばその時に5年後10年後に何かあった時にトラウマになる子たちって、どうしたらいいかってパニックになる子たちって多いと思うんですよ。だからこそ今「辛かったね、悲しかったね、怖かったね」というのを、みんなで心のふたを開けて語り合って「そうだったよね~」って。先生は経験してないでしょって言われたって、経験してなくても大人は分かり合えなければならないし。みんなで全部がそうできるかってそうじゃないんだけど、怖かったけど防災のためにどうしたらいいのかっていうのを、ちゃんとした授業の中で取り上げてもらわないと子どもたちどうしたらいいか。親だって怖くて話できないとか、どうしたらいいかわからない親がいたらその家庭では話できないことですよね。だから、学校で教育してもらってそれを家庭でもとか、大人たちも参加してもいいですよとやってもらわないと、あと何年後かに怖いなと思うんですけど。教育委員会だけじゃなくて、市全体としてね。過ぎたからじゃなくて、これからというのもあるし。そういうふうな思うことを、いろんな人を交えて話す機会があるといいと思います。いろんな人が言って、守るものが守られたらいいのかなと思ってます。

亀廼井 雅文(かめのい まさふみ) 50代 男性
 白鬚神社 禰宜
(平成27年2月12日東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は石巻で宮城県神社庁桃生支部の監査と役員会があり、私が事務局をしてましたので全部書類を整え出かける直前で、ちょっと時間があったのでコーヒーを入れて飲んでたんですね。その時に地震の揺れがありまして、もう歩けなく立てない状態でした。それなりに静まってきたのが1分ちょっと位過ぎたころですかね。部屋まで行ったらさらに揺れが強くなって、外に出れたのが2~3分後位です。一番びっくりしたのが揺れもそうなんですけど、もの凄い音がして2階の棟瓦が落ちてきたんです。バリバリバリっと、その音が一番印象的だったんですけども、それが家の前後ろに落ちたのもあるし突き破って風呂場に落ちてきたんです。神社も心配になったのでそのまま真っ直ぐ神社に行きました。神社は鳴瀬川の河口でしたので、もう避難は始まっていまして消防の人に「亀廼井さん、津波警報出てるよ」と言われ、無事を確認してすぐ家に戻ってきたんです。戻ってきたら、小学校の体育館が避難場所になっているのでその付近が少しずつ騒がしくなってきたんです。川向いの洲崎地区の区長さんが、早々と来て車の整理にあったたんです。「亀廼井さん、校門の所で車がつっかかって(渋滞して)いるからあそこで整理手伝ってもらえませんか?」と言われたんです。避難してくる方を誘導したんですね。20~30分そうやっているうちに悲鳴があがって、凄い音が聞こえてきたんです。バリバリって家が壊れる音。「うん?」と見たら、校門の真っすぐ前の道路の先にJRの踏切があるんですけど、そこに車を運んでくる津波が来たのが見えたんです。おそらく南から来た津波じゃなくて、東から来た津波ですから20~30メートル先まで来てたと思います。でも津波が見えたっていうのが一番よかったんですね。見えた瞬間に子どもの頃から「津波を見たら山に逃げろ」とばあちゃんに常に言われてたから、山に走ったんです。小学校の避難場所だった体育館の脇が崖になっているんですけども、その崖に生えている草にしがみ付きながら崖を登って行って上がったんです。その時ちょっとでも遅れればもう呑まれたと思います。
未来に向けて
 どこでも何か起きるでしょうけど、海の近くということで津波だけは言い伝えていってほしいと思います。津波を甘く見ないようにといことですね。
 あと、中央集権一極集中はやっぱり駄目だなと思います。これに即して再建を図っていきたいと、特に地元にあるものを活かして。野蒜で言えば、海です。そういうのを今後、この津波で捨ててしまわないでちゃんと海水浴場を安全な状況で作っていく、あと宮戸の奥松島も松島に負けないように。奥松島をよりディープに掘り下げていって縄文時代まで掘り下げれば、歴史的にこっちの方が完全に呼べるし。この辺は縄文深海の通りの風景をそのまま残しているんですから。海で言えば大きい遊覧船は無理だから、小さい島めぐりの船とか。ホテルに対しては民宿街を復活させていくとか、そういう感じの復興を自分なりに考えてはいます。どういう働きかけしていけるかはわかりませんが。
宮崎 敏明 40代 男性
 東松島市立宮戸小学校 教諭
 宮戸小学校にて被災
(平成24年8月10日  宮戸小学校にて取材)
被災体験談
 地震発生時、子どもたちは1年生を除いて、まだ授業中でした。1年生は下校していました。揺れがおさまったところで児童を校庭に避難させました。保護者より、15時頃に津波が来るとの情報が入りました。保護者引渡しを考えていたのですが、その情報をもとに、とにかく帰さないということで教頭に確認をしました。それと前後し、続々と住民の方が押し寄せてきました。1年前に耐震工事をしていたので、体育館の方に移動することになりました。住民が車で続々押し寄せてきたのですが、約900名が本校に来ることになりました。
 15時55分、校地下ののり面まで津波が押し寄せてきました。フェンスのところまでは100メートルくらいありましたが、もし校庭にまで水が来た場合は校舎に逃がさなくてはいけないと思いました。
 1日目は食べ物がなかなか手に入らない状況でした。不幸中の幸いで震災当日、6年生が先生方への感謝の会を企画していまして、お菓子などを作ったものがいくつかあったんですね。子どもたちにはそのお菓子を食べて飢えをしのいでもらいました。これは本当によかったです。あのお菓子には本当に感謝でしたね。
 次の日の朝、状況を確認しました。4つのうち3つの浜、大浜、月浜、室浜は壊滅状態。里浜については残っている家もあるけれど、もちろん完全に大丈夫だというわけではなく、床上浸水などという状況でした。島と野蒜とをつなぐ松ケ島橋は水没し、段差があるとのことでした。
 12日、ひとつ残っている里浜から食料、燃料などをたくさん供給していただきました。宮戸では里浜のみなさんの協力で本当に助かりました。民宿もありますから毛布などもすべて提供していただきましたし、発電機もありました。本土と分断されて孤島となってしまった中でも、ひとつだけ残った浜からいろいろなものを提供してもらえたという面では、改めて常日頃からのコミュニティの大切さを感じました。
 宮戸小についても防災マニュアルはありましたが、“帰さない”というマニュアルはありませんでした。しかし、海の仕事をしている保護者の方から津波が来ると聞き、そして逆にまわりの方がみんな宮戸小に逃げてきた。やはり海のことを知っている現地の方の情報をもとに、そのときの判断で避難できたことがよかったと思います。不幸な出来事ではあったのですが、宮戸地区の場合には日頃からのコミュニケーションが生きたケースだったのかなと思います。
 4月21日に新学期がスタートすることになり、4月11日から20日までは自主学習期間を設けました。保護者と子どもたちにとって、学校が再開に向かっていることへの安心感を感じ取ることができたようです。4月10日までの校舎の明け渡しを確認し、全住民で清掃活動をしていただきました。
感謝のメッセージ
 たくさんの人がいる中で校庭の花壇の外側に水仙がひとつ咲いたんですね。それにものすごく心が揺さぶられましたね。つまり、芽が出た時点で約900人の方が行きかっていましたから、そんな中で、芽に気づいて誰も踏まなかったんですよね。少しずつ芽が大きくなって、ちゃんと花を咲かせた。花を咲かせられるという水仙の力強さもそうですが、それを踏まないで見守っている島の人たちの優しさを改めて感じましたね。
未来に向けて
 宮戸小学校では“宮戸島復興プロジェクトチルドレン”ということを行いました。子どもたちが夢や希望を持って学校生活を送るために、10年後の宮戸島を図工で表現しようではありませんか、ということでこのプロジェクトが始まりました。10年後の宮戸島の様子を思い、夢や希望をもって毎日の生活をがんばろうとする自分になれるようにということで取り組んでもらいました。全作品が出来上がり、夏休み中に校内展示をしました。108名に参加していただいて回答をいただいた結果、約70%の人に「子どもたちの絵から元気をもらった」「一人一人の個性が出ていてよかった」と言っていただけました。自分が元気になるというねらいも含め、家族が笑顔になるというねらいも達成されたなと思いました。
 このように感じたあたたかい思いを親子による造形活動を行うことによって、一層、夢や希望に向かって歩み出させたいと思いました。子どもたちが望んでいる思いを、親が聞いてあげ、それを字に表しました。そしてこれは東京のデザイナー14名ほどによって、Tシャツにしていただきました。親子で一緒に作った文字も入っている。ということで、かけがえのない世界にただひとつのTシャツになりました。
 各自の絵を児童自ら、同じテーマごとにグループを作ってひとつの壁画にしようということになりました。釣りができる宮戸になってほしい、お客さんがいっぱい来てくれる宮戸になってほしい、自然がいっぱいの宮戸になってほしい、夕日がきれいな宮戸になってほしい、など、だいたい6つの枠がありました。そのグループごとにさらに話しをし、こんな絵にしたいなということを模造紙に描いてもらいました。その6つできた絵を、さらに全員で話し合い、こんな宮戸にしたいというのをまとめました。
 夢を夢で終わらせないためにということで、いま、ハマボウフウ、ハマヒルガオの再生に取り組んでいます。ハマヒルガオについては大浜に移植をしました。ハマヒルガオというのは小さな芽のうちから隣の芽と根をからませて、手と手をつなぎ合って海風、波に負けないようになるそうです。そうやって、手と手をとりあって強く生きてゆくんだね、みんなもそうなってねと、教えていただきました。花言葉は絆なんだそうです。まさに、今の子どもたちの取り組み、こうなってほしいなという願いが表れているなと思いました。ハマボウフウについては、根が地中深く、1メートル以上も伸びるんだそうです。そうやってしっかり根を張って、津波にも負けない強い人になってね、というお話もいただきました。夢や希望を持って、しっかりと根を張って、協力しあって島の再生に向かっていってほしいなと思いました。
 子どもたちの夢や希望が、10年後、本当に高い志となって震災前以上の宮戸になってほしいなと思います。不幸な出来事、辛い出来事ではありましたが、それに負けないで頑張っている宮戸の子どもたちですし、そしてそれを支えているのは本当にすばらしい宮戸島のみなさんです。私も宮戸小学校に勤めていて、人間の生き方といいますか、生きるための心構えというか、そのようなものを学ばせてもらっています。これからも、みんなで頑張っていけたらいいなと思います。

鈴木 勝 40代 男性
 宮戸島月浜にて民宿経営
 石巻で買い物中に被災
(平成24年9月7日  東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は石巻のイオンにいました。あの日はたしか金曜日で、私と妻とで土、日の民宿のお客さん用の買い出しに行っていたんです。地震の揺れがすごく、私は漁師の息子なので、“地震イコール津波”っていうのは小さいときから、私の親父、そのまた親父のおじいさんからも、チリ地震津波の経験とか聞いてました。これはすぐ帰んなきゃいけないってことで、裏道を使って帰りました。子どもたちの安否を確認するのに、一番最初に宮戸の小学校に行ったんです。その時、ちょうど雪がパラパラ降っていて消防団のジャンパーと、毛布を取りに自宅に戻ろうと思ったのです。
 父は、うちにはバスがあるので、ラジオで女川に6メートルの津波が来たっていう情報聞いたみたいで、年配の人たちを小学校に避難させてたんです。じいさんは、バスで2回くらい運んだらしいんですけど、2回目のときに危ねぐ(なく)津波に巻き込まれそうになったそうです。
 家に戻って、着いた途端10秒くらい後に波が来てしまって。裏にある民宿の2階に行ったんですけど、そこでもやばいということで、出窓に上ったんですよ。こんどは家の中に波が入って来て・・。これはまずいと思って、2階の雨どいをつかんだら、たまたま上れたんです。屋根に上げたんですよ。そしたら、もう、そこにいた場所もすぐに水没してしまって。2階の半分以上浸かったので、だいたい9メートルくらいですかね。それでたまたま、屋根の上で助かったんですよ。波が引いた瞬間、私たちがいた出窓に、どっかの丸太か何かが引っ掛かったんですよね。それも、こんな紙切れ一枚のようなべニヤ板に挟まって、架け橋のような感じで止まったんですよ。その上を降りて家の裏の五十鈴神社に逃げました。安全になってからみんなで小学校に移動しました。
 小学校の体育館と、教室に避難したんですけども・・うちでは、ばあちゃんと娘を小学校に置いて、親父と私たち夫婦と息子2人は、寝るときはワゴン車で寝ました。約1ヶ月くらいは小学校にいたと思いますね。その後は宮戸の里浜にある漁協の倉庫に、月浜の約60人で雑魚寝ですね。仮設ができるまで、2~3ヶ月くらいはいたのかなぁ。
 宮戸島の被害は、大浜と月浜は外洋なんで、一番壊滅的にやられているんですよ。うちら方の、月浜は残るっていう人はいるんですけど、大浜がだいぶいなくなるみたいですね。室浜もけっこういなくなっているのが多いみたいですけど・・。たぶん一番残るのが月浜だと思うんですよね。
 今の仕事は漁師よりトラックの運転が昔から夢だったんですよ。だから今はもう、自分のやりたいことプラス、いろんな仕事ができるから楽しくてしょうがないですね。現場の人たちもみんないい人たちで。やりがいはあるんですよね。
感謝のメッセージ
 今までいろんなボランティアの人たちが来てくれて。奈良県の大和郡山市に家族5人で招待されたんですよ。宮戸のお祭りのときに、金魚すくい大会があって、長男が52匹すくって、優勝したんです。それで全国大会に出させてもらって、大変でしたね。カメラがずっと金魚のふんみたいに付きっぱなしで。今でも大和郡山の人たちと交流があって、宮戸のお祭りって言えば来てくれるんですよ。子どもたちも友達になったし、お父さんたちとも友達になってね。招待してもらったときは、ちょうど組合の倉庫にいたときだったんですよ。気晴らしというか気分転換になりましたね。全国金魚すくい大会っていうのがあるんですけど、会長さんが、金魚を送ってくれたんですよ。もし、また東松島で金魚すくいやりたいって言えば、喜んでバックアップするからっていう話なんですよね。
 やっぱり、残っている人たちで、今までどおりにはいかないと思うんですけど、昔のように、みんなで楽しく暮らせるような地域にしたいんですけどね。震災がなければ・・って思ってもやっぱり、自然災害だからね。またいろんなお客さんたちが来られるように、復興することですかね。前向きに進んで行くしかないように思いますね。
未来に向けて
 これからは、私たちの代でなくて子どもたちの代ですからね。“えんずのわり”もこのままずっとね・・。下にもやろっこ(男の子)がいるから、3人のうち2人じゃないですか。 “えんずのわり”は俺の代でこれ、潰してられねぇなっていうプレッシャーがあったみたいですよ。  震災を機に、子どもたちはずいぶん変わりましたよ。私がいない時なんかは、海苔仕事する時には、船に行って自分で進んでやっていたしね。海が好きみたいですね。特に長男なんかは、じいさん、ばあさんと一緒に住まないと嫌だって言うんですよね。やっぱり生まれた時から一緒に住んでいるから。とにかく俺は宮戸からは絶対出ないからって。やっぱり自分は生まれ育った宮戸にいたいっていうのがあるんでしょうね。

山内 良裕 50代 男性
 奥松島海苔生産グループ「月光」代表
(平成25年8月9日 宮戸 奥松島海苔生産グループ月光にて取材)
被災体験談
 3月11日は、夜明け前に海苔を摘んで来て、海苔の生産作業をやっていました。朝前に海苔を摘んでくるんだけれど、朝前だけだと早く終わってしまうので、午前中に機械を回してから、もう1回摘みに行って、それから協同作業っていうか準備作業に出ました。それが終わって3時頃、組合で慰労会をやろうとした途端に、コップに手をかけたら地震が起きた。最初「地震だ」って言っていたんだけど、すぐに大きくなってね。これでは駄目だと思って。2階にいたので、階段から降りてくるのもなかなか大変でした。
 家族は9人いたんだけども、そのうち、下の息子は仕事に行っていました。息子の嫁さんは、確定申告に行っていたんだね、石巻まで。連絡はすぐについたみたいなんだけども。終わって矢本で買い物をしていて、そのまま帰って来たんだけども、途中で津波なんか来たら、そこでおしゃかだった(だめになっていた)んだね。津波が来る前に着いたから、危機一髪だったっていうか、安心したんだけどね。家族が、何をしたらいいのかわかんないような感じで、立っていたんだね。すぐに、「車に乗って、高台に避難しろ」と言って、避難させて。
 その後が俺の馬鹿なところで、俺と息子は必要なものを取りに行ってこよう、ってことで(家に戻りました)。ちょうどガソリンの買い置きがあったので、100リッタードラム2本、ガソリンと発電機だけは軽トラに積んで、また高台に避難しました。その時は軽トラのラジオはつけっぱなしでした。その時に「女川に6メートルの津波が来た」とラジオの放送があったのね。高台の方に戻っていこうとしたら、まだ下で区長さんは「津波が来ますから、避難して下さい」と防災無線で話していたんだね。一生懸命に話していたんだけど、とにかく女川に(津波が)来たから、「こっちも必ず来っから(来るから)早く逃げた方がいいよ、もう誰もいないからわ(いないから)」ということを伝えて、逃げて避難してもらったんだ。
感謝のメッセージ
 みんなありがたいんだけども、3週間くらいつながらなかった道路がつながってすぐ、山形からわざわざ車でガソリン20リットルたがえて(持って)来てくれたんだね。何を言うのかと思ったら「山形まで一緒に行きましょう」と。「何とか、食べるものとか泊まる所はあるから。とにかくここでは大変だから、何もないから。山形まで一緒に行って、避難生活したらどうですか」と言われたんです。その気持ちがね。
 そういう人が結構いました。親戚にも、「塩釜の方で、1軒空きがあっから(あるから)、そこに避難したらどうだ」って言われたんだけど、ここを離れる気持ちはなかったね。流されたっていっても、月浜はわりと山の方に家が押し込められたので、やっぱり瓦礫の中には、自分の物もあるので、そういう物も探さなきゃならないし。離れる気持ちはなかったです。

門馬 善道 60代 男性
 語り部ガイド
(平成26年2月25日東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 私は地震が来て落ち着いた段階で、(石巻市立病院の)窓辺で日和大橋を見てました。(津波が来る)30分前位から引き潮が始まってました。市の広報車がずっと海の方に向かって行って、その車がまともに波に流されるのから、津波が道路を越えて来るのを全部頭からっぽの状態で見てました。日和大橋から、日本製紙の方に行く道路を一気に越えて来る津波は凄かったです。私の車も浮いて川に流されるまで、ずっと見てました。景色が変わったのは、第1波がきて5分くらいの間ですね。5分くらいで1回目の波が北上川にだあーっと行って流されたと思っていたら、門脇小学校から日和山に行った波が戻って来るのに、住宅が全部流されて文化センターと病院の間、病院の駐車場で渦を巻いて2回転くらいするんですよね。
 真っ暗闇になる前後から門脇小学校の火と煙が見えたんです。真っ暗になる段階では、もう門脇小学校が燃えて真赤になっているのが見えたし、日本製紙の1カ所から高い煙が出て、南浜町と3か所くらいで煙が出てました。あと、多賀城の石油コンビナートは遠いけど夜中じゅう真っ赤になって見えてました。学校の火は恐ろしかったです。こげ臭いにおいがしてました。
 12日の午後あたりに、計量コップで10CCずつの水分と、ラップにくるんだアルファ米を渡されました。整形外科あたりに入院していた年配のおばちゃんたちが、「お菓子をここにいる人達に配って」と持ってきました。それで少し何とかなるなって感じにはなりました。女川から歩いて来たという人から、女川・渡波が「ものすごい」っていう情報が伝わってきて、2次的なショックを受けました。ラジオの情報で山元町とかのラジオ発信は多かったんですけども、東松島市とか石巻の情報は比較的少なかったんですよね。福島の原発のニュースがどんどん流れたために、地元の情報は入らなかったですね。
未来に向けて
 人と挨拶する時、「おはよう。こんにちは」ですれ違うんだけど、私らの場合はもう一歩踏み込んで「このごろ変わりない?」って声をかけます。それが必要だから、それは心がけているの。「何か寒かったね、今年の冬。体調崩さなかった?大丈夫」っていうようなニュアンス、態度、それは私個人ではうんと気をつけいるんです。
 牡蠣小屋もあくまでもアルバイトだけど、県外から被災を見ながら来る人が多いです。多いのが山形、福島、栃木、遠くは関西方面。その中には奥松島に、20年前に来たとか10年前に来たとか民宿に子ども連れて何回も泊りに来たとか、昨年はそういう人たちがだいぶ来ました。「おじちゃん、この松の木枯れてるけどどうしたの?」「こここんなに草生えているけど、津波でやられたの」と聞かれるので、仕事しながら「あそこに見えるのは野蒜海岸だよ。松の木ちらちらあるのは、本当はこういう状態だったよ。あそこにあるのは、かんぽの宿だよ」と説明しています。生の声を聴きたいからってわざわざ遠くから来ているんだから、牡蠣小屋の経営者には、牡蠣を売って儲ける事よりも、支援のお礼かたがたそれも含めて商売しなくては駄目だと言っているんです。高台の工事に来ている人も食事に来るから、このおじちゃん北海道から工事に来ているから喋りなさいとか、小屋の中をそういう雰囲気にしてます。

木島 新一 60代 男性
 語り部ガイド
(平成26年7月31日自宅付近にて取材)
被災体験談
 地震の時は、私と女房はたまたま家にいたんだ。家は高台にあって避難所になっているので、いつも水なんかはタンクに確保しているんだけども、1か月ほど前にも地震があったので、うちの女房が気をきかせてその水を捨てて、ポリ缶を干してたんだな。そんで、地震きてはっと思って、女房はポリ缶持ってうちは高台で水が出なくなってたから、下の方はまだ水出るかなと思って、隣近所を避難を呼びかけながら水を貰いながら行ったんだけど、下の方も水は出なくなってたので「大丈夫ですか?避難して下さい」と話したらしいのね。俺は「ああ、これは津波来るな」と思いラジオでも津波(がくる)と言ってたから、うちでも危ないと思ったので、後ろの山に登って、草刈機械で草刈って通路作ったんだ。ちょうど岩を切って風除けになる所があったので、そこにブルーシートなど運んだんだな。うちの女房は「絶対、ここまで来ませんよ」と言ってたけど「いや、わかんないからすぐ逃げろ」と。何か家の中探して、持ち出そうとしてたけど「そんなものいいから、とにかく逃げろ」と逃げたんだけどね。
 みんなも、ぬれ鼠になって逃げてきたんだけど、家でも危ないから、山の上まで荷物運んで、ストーブとか毛布とか運んだんだ。運び上げてちょっと安心したんだけど、雪が降ってきて寒かったね。その日の夕方水がなかったので、雪を集めてお粥にて食べたな。米はいっぱいあったし、魚とかは冷蔵庫にあったから心配なかったんだけど。水だけは心配で、雪降ったけど次の日は晴れるなと思って、雨どいを少しずつずらして、そこに樽とかバケツ置いて溶けたら水溜まるようにして。雨どいにタオルを二重三重にぐるぐる巻きにして、漉して飲み水をとったんだ。でも、小さい子どもさんの分はペットボトル1本しかなかったのさ、だけど漉した水飲ませるのも心配だったんだね。その時、家には私含めて10人いたんだね。
 その後、ヘリコプターが頻繁に飛んでいたんだけど、自然の家(宮城県松島自然の家/野蒜字洲崎)の職員が次の日か当日かはわからないけど、電話で喋っているのをラジオで聞いたら「宮戸は壊滅だ」と言ってたから、残っているのは俺たちしかいないと思ってね。あの時はすごく不安だったけどね。子どもさんが3日目には病院に行かなきゃないということで、大きなコンパネがあったので赤ペンとペンキで「SOS、子ども病気」と書いて屋根に上げたんだ。「おーい」という声が聞こえたら誰かと思ったら里浜の消防団が、堤防の所が壊れていて家の前まで船で来て、迎えに来てくれたんだっちゃ。俺と女房と若い人3人残って、あとはみんな行ってね。そのお子さんは、すぐヘリに乗って搬送され助かったんだ。俺もあとから宮戸小学校まで行ったんだ。
未来に向けて
 宮戸は、ウォーキングトレイルと言って、宮戸全体みんな遊歩道になってどこでも歩けるようになっていたんだ。その道も年に2回位草刈りしてるわけだ。やっぱりその道路があったのが、一番よかったし。あとは、ずっと昔から同じ人が住んでいるから、言い伝えを守っているんだな。この地蔵様から、右に逃げなさいとか左に逃げたら必ず犠牲になるよとかってあったから助かったし。あとは、室浜と観音寺を結ぶ道路とかあって、その道路もお盆になるとご先祖様がこの道を歩ってくるからと言って、今でも年に1回くらいは草刈しているみたいなのね。だから、いつも語り部で言うのは、いろいろ小高い山とか丘とかあったけども、そこはほとんど利用されてなかった。やっぱり山に登る道はつけておくべきだと、俺は話しているんだけども。そういうことで、宮戸と野蒜の犠牲者数の明暗が、分かれたのかなと俺は思うと話しているんだ。自分たちはどこに逃げるんだか、常に頭に入れておかなきゃないと話してんだけどさ。
菊池 祐子 30代 女性
 東名・野蒜の情報誌“てくてく通信”を発行/福祉施設勤務
 平成23年3月11日 和歌山県高野山での修業中に震災を知る。
(平成24年9月11日  東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 3月11日は和歌山県高野山で修業をしていまして、慌ててテレビの方に行ったら、リアルタイムで名取市のすごい濁流が映っていて、「これは・・なんだ?」と思ってびっくりしました。
 4月から東松島市の東名の“すみちゃんの家”という高齢者施設に勤めるということで約束していたんです。その代表のところがどうなっているのかなって思って、何回も電話したのですが、つながらなくって・・。帰りたいっていう気持ちが強くなって、3月24日に山形経由で、山形からは高速バスで戻って来たんです。やっと塩釜の自宅に戻ってきて、代表と電話連絡が取れたんです。なんとか小野とか野蒜の方に入って、そこで一緒にボランティアというような形で入ったんです。
 すみちゃんの家は仙石線の東名駅の近くだったので、建物自体は残ったのですが、1階は全部だめで泥だらけでした。二階は大丈夫だったので、代表と、所長と一緒に、二階に泊まって復興作業をしましょうということで、こつこつと作業を始めました。
 7月7日にそこでデイサービスを始めました。ようやく再開復興みたいな感じで、やっとそこだけきれいになって。ひたすら泥かきの4ヶ月でしたね。お泊りする方もスタッフの方も戻ってきて、なんとか再建という形ですね。ゆくゆくは高台の方への移転を考えているみたいです。
感謝のメッセージ
 いま、“てくてく通信”を作っているんですよ。なんとか野蒜を元のように・・野蒜に住んでいた人たちが少しでも戻ってくるようになったらいいなっていう思いが一番あります。 いろいろ調べて、みなさんに発信すれば、仙石線も動くかもしれないし、とにかく、何かそういう声とか状況を伝えれば、いい方向に変わるんじゃないかなっていうのがきっかけでやってます。東名、野蒜の方だけじゃなくて、外部の人にも伝えたくて、月に1回発行してます。なんとか仙石線が戻ってきて、東名と野蒜の町が元気になればいいなって思います。それを続けていけば何かが変わるかな、思いがつながるかなっていうのが今の思いですね。
 野蒜の海の方を見れば、建物がまだ水に浸かっていたりとか・・。自分は亡くなった方のことを忘れないように、供養し続けることが義務なのかなって。思いをつないでいくことが、自分の使命なのかなって、今考えていて・・。それが、お寺っていう形なのか、ちょっとよくわからないんですけど、とにかく心のよりどころになるものを作りたいなって思っています。忘れないでいることが供養になるのかなって思います。
 亡くなった方が応援してくれているから、その分、私たちも頑張らなきゃないんだって思いますね。亡くなった方の思いを無駄にできないなっていうのは、すごく思っていて、それを伝えていかなきゃいけないなって・・。
 知り合いの尼さんが、「あなたが行くところがお寺になればいいんじゃないの」って。どこかに行って、写経の会をして、そこがお寺になればいいし、何かお話し会をしてそこがお寺になればいいし。そこに行って供養したところがお寺さんであればいいのかなって。最近はそういうスタンスで考えていますね。
未来に向けて
 この前、富士山に行ってきたんですよ。いま、夢ハンカチっていう、ハンカチに夢を書いて富士山に揚げようっていうイベントがあって、それに参加しまして。夢を持つことで人は元気になれるっていうか、そういうことを今考えていて・・。わたしの師匠、教えて下さっている住職が言うには、どんなに食べ物があっても人は生きていけないと。夢とか希望がないと生きていけないと言っていて。夢ハンカチというイベントを企画している方も、夢がないと人は死んでしまうっていう話をしていて・・。みんなで夢を持てたらいいなって、震災で傷ついて夢が見つけられない、希望が見えないっていう方たちも、元気になるために夢を持てたらいいなって。今、そんなことを考えている感じです。
 うちの母は縫いものをして、何かをつないでいくことが私ができることだって夢守袋を作っています。全国各地の人が震災のことを忘れないで、つないでいってほしいなって思って。
石巻日日新聞社のみなさん
(平成27年3月26日石巻日日新聞にて取材)
被災体験談
外処 健一 
 40代 男性
 東松島市赤井
 あの時は報道部のミーティングがありまして、私は(石巻)市役所にいたんですけどそこから戻って会社(石巻市双葉町)に帰ってきました。みんなで集まってミーティングをしようかなと思っていた矢先にあの大きな揺れが来たんです。揺れが治まって各担当者がそれぞれ海の方、あるいは担当行政区の方に散り散りになりました。私も市役所に行ったんですけど、向う途中まだ道路は空いていたんですが信号機がガタガタ揺れたりとか、車に乗っていても電車に乗っているような感じだったんです。道路が真っすぐ走れないと言うか。役所に着くと、雨漏りがして職員が対応に追われていて、その時はまだ津波が来るいう予見が全くできてませんでしたので、ほとんどの方が宮城県沖地震来たねという会話をしてたんです。そうこうしている間に、浜の海の匂い潮の匂いがだんだん漂ってきまして、窓の外を見るとじわじわと水が市役所の周りを囲むようにして入って来ました。もうみるみるうちに1メートル近く上がっていきました。いろいろ情報が錯綜してまして、我々としては市内がどれだけの被害なのか全然把握できなかったということもありました。黒板に役所の職員が書いているのをこちらもメモして、会社があるのか残っているのか残っていないのかそれすらもわからない状況でした。
平井 美智子  
 50代 女性
 東松島市矢本
 その日の新聞の印刷が終わって、3時からミーティングというちょっとした空いた時間だったので、翌日の紙面で作っておけるものってことで土曜日の紙面作りを、報道部の隣りに編集制作の部屋があるのでそこで担当者とパソコンを見ながらやってた時に揺れ始めたんです。初めからけっこう大きな揺れだったんですけど、いつまでも止まらなくてすぐ机の下に体を入れたんだけども3分以上の揺れだったので、過去の地震とは比べ物にならないくらいの規模の地震だととても恐ろしくなりました。すぐ報道部の部屋に戻ってみんなに指示して、それぞれ担当の場所に警察・消防の担当はそちらの情報だとか。記者になって30年ですけど石巻で地震が起きたら必ず津波が来るものということが前提だったので、私は現場じゃなかったんですけど、今回は津波が来る恐れがあるのでカメラを構えてということを指示したんです。人によっては、日和山の方に行ったり北上川の河口の方に行った者もいたんですけど。私自身は、とりあえず日和山から取材しようと思って山頂の方でカメラを持って待ち構えていました。 30分したら、日和山の上の方で雪で景色が見えなくなってきた時にみんなが大騒ぎ始めたんです。指を指している方を見てみると津波が襲ってきていました。今度はぱちぱちと凄い音がして見たら火が出始めていて、あちこちで車のクラクッションのすごい音がしてたり燃える音とかして、もの凄い事が山の下で起きていました。
熊谷 利勝 
 30代 男性
 石巻市和渕
 私は当時も東松島担当でした。議会が最終日だったので(東松島)市役所の方へ取材に行きました。議会が閉会し議会事務局で取材してまして、その時に揺れが来て部屋の中はしっちゃかめっちゃかのような感じで机の下にもぐりながら、ロッカーを必死で押さえてたのを記憶してます。何とかその揺れが治まって、カメラがあったので庁舎内のいろんな物が散雑に散らばっている様子を写真を撮って、防災課に行きました。防災課だけ電源があってテレビがやってたので、そこで津波が来るという話は聞いて、震度は6強だったと思います。そんな情報を集めている最中に庁舎内から退去してくれという指示が出たので、車で矢本西小学校に行ったんです。その後は信号がその時もうついてなかったので(国道)45号線方面が渋滞してたので、西から東へ行くような感じでヨークベニマル(矢本店)の前あたりを通ったんです。
 そういった中で車はどんどん海岸の方に行ってしまったんですね。取材しながら会社に戻ろうという考えで、途中で大曲市民センターに行って大曲浜の方から避難してくる人の様子を取材したりしてました。あとから写真を見た時その時は3時40分くらいで、でもまだ大曲市民センターの雰囲気はそれほど緊迫した感じはなかったです。あの時も避難してきた人は情報を持ってないんですね。警報が鳴っているというのも津波が来るっていうことも知らなかったようです。その時、大曲市民センターの脇の通りは北側に向かってかなり車が渋滞していたんですね。でも南側は空いてたんですよ。避難して来た人も南側は空いているから石巻方面は行けるっていう話はしていたので、それを間に受けて市民センターから南の方に行って左折して東の方面に定川橋の方ですが、進めて行ったところ橋の途中で道路が途切れていてひび割れて行けないような状態で通れなかったんです。路方に車を止めて、定川橋の上にハザードランプをつけた大型のトラックの写真を収めようと思って、数メートルほど小走りで走ったところで目の前に、前の方からさあっと水が来たんですね。
 「これは津波だ」と思いまして、反転して一番最初に目に入った一番高い物、会社の前の門扉ゲートだったんですけどそれに走って行ってよじ登って、みるみる流れが強くなっていって同時に嵩も増していって、けっこう門扉と自分が上がった所と合わせても2メートル位はあったと思うんですけど、そのゲートの上に登ってですら腰くらいまで水が来てしまい「これはまずいな」と。その時にちょうどプラスチックの青い色の魚を入れるような箱がうまいぐあいに流れてきたので、それを手を伸ばして捕まえて浮輪代わりにして、覚悟を決めて流されようと。引き波になったところで浜の方から流されてきた船が横倒しのまま田んぼのど真ん中でちょうど止まってたんです。そこにうまくたどり着けたんでよじ登りました。
 そうこうしているうちに日が暮れました。私がいる周りはほぼ静寂でした。間もなく石巻方面から真っすぐ私の方に向かって来るヘリがあったので、手を振ったらふっと行ってしまって。そしたらぐるっと旋回して脇に来たんです。「あっ、よかった」と思って。上から消防隊員のような方が降りてきて、自分の体にベルトを巻いてぐうんっと。一瞬ですね。真上から船とその周りの波紋みたいのが見えて、だんだん船が小さくなっているところまで覚えています。あとは機内に入ってそこから記憶がないんです。
未来に向けて
外処 健一 
(質問)震災を経て、これからの紙面作りにおける意気込みをお聞かせください。

 この災害で一つの力を身につけたんじゃないかなと思います。というのは災害をイメージできる力。これがたぶんこの地域の方は備わったと思います。阪神大震災がもしここで起きた場合、どのくらいの規模にあたるのか全然想像つかなかった。ただ今回大震災を経験したことによって、同じような災害が起きた時にこの地域は一体どうなるのかというものが、皆さん実体験でわかっています。
 これからやっていかなくてはならないことは、災害が起きたらこうなるよというもの(イメージ)を忘れずに未来に発信していけるかということなんです。よく風化と言われますけど、風化はどこから始まるのかというと、関東でもなく関西でもないし海外でもないんです。ここから風化というのが始まるんです。我々が伝えることを止めてしまう、もしくは伝えなきゃならないことを伝えなければ皆さんの記憶というのはどんどん消えてしまう。だから風化という言葉がないような状況にしたいと思いますし、被災した我々も同じような災害で同じ悲しみを繰り返さないようにするためにもイメージできる力をどんどん広めていかなければならないと思います。
平井 美智子 
(質問)震災を経て、これからの紙面作りにおける意気込みをお聞かせください。

 一言で言うと信頼ですね。世の中いろんな情報が出回っていますし、確かな情報、ためになる情報もあるんですけど、やはり日日新聞が書いているから間違いがないと、これからも地域の皆さんが思ってくれるような情報を続けて出していって、私の時代の次の世代の記者たちが動いている時も、それがDNAとして続いてくれればいいなと思っております。
熊谷 利勝 
(質問)震災を経て、これからの紙面作りにおける意気込みをお聞かせください。

 地域と共に歩んでいきたいと思います。

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