震災
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 市民の体験談をダイジェストにまとめたものを公開しております。
 フル版については、東松島市図書館館内においてiPadでご覧いただけます。
片倉 日出海 50代 男性
 文具店「文尚堂」経営
 会社で被災
(平成24年6月19日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は会社にいました。すごい揺れでした。一番先に考えたのは、教科書を津波から守れということでした。倉庫に入ると地震で教科書がくずれていて、津波がきたのですが、家財や店のことは後回しにして、全員で水を防ぎ、教科書を高いところあげて、何とか教科書を守りました。その後は遅れながらも、各学校・各教育委員会に教科書を納品しました。ただ残念なことに、子どもさんが津波で亡くなって、戻ってきた教科書もずいぶんありました。
 私の地区ではしばらく電気も水道もありませんでしたから、泥かきは大変で、終わったのは5月の連休明けくらいでした。電気と水道の復旧は同じくらいで、水は毎日駅前で自衛隊が給水していましたし、電気もしばらく使えませんでした。店が使えなくなってからは、自宅の2階にいました。幸いにも昔ながらのだるまストーブがあったので、煮炊きや暖をとることができました。

柳田 真紀 30代 女性
 矢本東小学校へ子どもを迎えにいく途中で被災
(平成24年6月19日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は雪が降っていて、傘を差しながら一番上の子どもを迎えにいくところでした。学校までの道を歩いていたら、グラっときて、家におじいさんと下の子がお昼寝していたので、上の子は小学校の方で何とかしてもらえる、まずは下の子だ、と思い急いで走りながら家に戻りました。家の中はテレビが1台倒れて壊れたり、タイルが1枚はがれたりしたくらいで済みました。うちはプロパンガスが無事だったので、ガスの火は使えました。
 大変だったのは食べ物とか水、ガソリンなどのライフラインですね。ちょっとした停電なら、明日ぐらいに点くという見通しがつき、今日1日頑張ればいいと思いますが、今回の震災は答えがなかったので、答えがないと人は不安になるので、いつまで頑張ればいいんだろうという気持ちになりました。毎日食べ物と水とガソリンをどこから手に入れるか考えましたね。子どもの学校やコミュニティセンターなどで、お米や牛丼などをもらえたり、床屋で髪を切ってもらったりしたことがあり、ありがたかったです。
未来に向けて
 今回、改めてわかったことは、ご近所づきあいの大切さですね。自衛隊を退職してご夫婦で住んでいる方など、大溜地区はお年寄りが多くて、私たちは若い方に入るので、情報だけは集められますが、本当に困った時どうすればよいかという知恵はおじいさん、おばあさんのほうが持っているんですよね。例えば、私たちが水をとってくるので、米を炊いてくださいなど、妙な連帯感が生まれて、そこから10倍20倍も仲良くなったので、震災も悪いことばかりではないなと思いました。私たちは今回の震災に遭ってから、お互い様でやらなくちゃ、という気持ちで優しくなれたし、勉強になったと思うのです。

三浦 正信 50代 男性
 鮮魚店「三浦水産」経営
(平成24年6月26日 三浦水産 仮設店舗にて取材)
被災体験談
 3月11日は勤務先のスーパーマーケットにいましたが、経験したことのない揺れだったので、7人いたスタッフはすぐ解散し、お客さんは帰って行きました。その後、自宅に戻り女房を実家の広渕(石巻市)まで連れて行き、自分の実家の上納まで行きました。その途中、定川の水がものすごく引いていて大変なことだと思い、親を車に急いで乗せ、45号線に向かいました。その時、車の半分は水が来ていましたが、五味倉の方へ抜けて何とか助かりました。その後は大溜の自宅に、親戚、知り合い、親が15人。45日位避難していました。
未来に向けて
 4月から友達に車を借り受け、行商を始め、地元の前のお客さんを回って、店は10月の中頃から始めました。魚は仙台から仕入れて来ましたが、震災後、地元の魚はなく、ほとんど北海道の魚です。石巻の魚が揚がるまで、半年かかりました。ほやなどは値段が上がっていますが、お客さんは食べたいものは食べるようで、魚はなくてはならない素材みたいです。ほやは、三陸で獲れるまで最低3年はかかります。仮設で店を始めて、お客さんは魚を買う所なく、困っていたからと喜んでくれました。今は行商と両方やっています。この前、仮設に演歌歌手が来た時はみんな笑顔になりました。ここで、さしみをご馳走して飲みました。久々の笑顔でしたね。

下町二区婦人会
(平成24年7月13日 矢本東市民センターにて取材)
被災体験談
西潟(にしくら) 寿美 
 石巻から矢本に来る途中の湯殿山(石巻市清水町)のあたりで地震にあいました。そこの橋が割れそうだというので大街道(石巻市)に出たんですよ。そしたら「今、津波がきたから」という声があって、見たらごみと一緒に津波がさーっときたんですよね。そうしているうちに会社の外階段が見えました。12段の。で、「すいません。ここに上らせていただきます。」と言ったら、わたしより前にいた女の人が「私は介護に行かなきゃないから」と言ったけど「もう波きてっから、あんだも上がってございん(上がってきなさい)」って言って、一緒に12段上がりました。二階から下を見たら、人が一気に流されてて、男性も女性も「たすけてー たすけてー」って。店長さんたち2人もこちらに上がってきたと思ったら、一気に波がきてそこにあった30台くらいの車も一気に流されてしまいました。目の前で。
斉藤 テルヨ 
 私は石巻の魚町1丁目で働いていました。海から50mしか離れていないところでしたから、津波が来るので、松並の工場に避難しなさいって言われたんですけど、私は松並工場に行ったことなかったんで、とにかく会社の車に6~7人で乗って、松並に向かったんです。車で向かう途中も、電信柱は倒れているし、道路はめくれているし、もう駄目だと思いました。じゃあ学校は全部避難所になっているから学校に逃げましょうということになり、渡波中学校に入ってまもなく津波がきたんです。最初、すごい驚きの声があがりました。校舎のベランダのほうに出てみたら、校舎と校舎の間からダムの放水のように水が入ってきたんです。それが渦巻きになって、あっという間に私たちが乗ってきた車も飲み込まれました。すぐ国道側を見たら、ちょうど引き潮になってきたのか車が重ね重ねになって、家は流れる、車は流れる。人の叫び声がして、屋根に上がっている方などたくさんいました。でもどうすることもできない。津波を見たのは初めてですが、とにかく水の速さが半端じゃないという感じでした。
岩崎 治子 
 私は主人と買い物に出ようということで、車で国道45号線を走っていた時に、携帯電話の緊急地震速報が鳴ったんです。それから間もなく地震が来て、車が踊るように大きく揺れたので、「お父さん、車を止めて。」と言って、すぐにラジオを付けたら、6メートルの津波が来るとの情報が入ったので、すぐ自宅に戻ったんです。主人は自主防災会の役員をしているので、近くに独り住まいの方や身体の不自由な方もいたので、その家庭を回って、市民センターに避難させたりしました。主人が戻って来たので、私たちも避難しようと言っていた時に、波が道路を川のように流れて来て、家の中にも水が入って来たんです。私の家ではリュックサックにラジオ、懐中電灯とかの避難用品を入れてあったので、それを持って2階に上がりました。寒かったんですが、避難することは考えていませんでした。2階にいれば何とかなるのかなと考えていました。ラジオを聞きながらいたのですが、寒くて、一晩震えながら、一睡もできずにいましたね。窓を開けて見れば、一面海のよう川のようになっていました。隣近所もどういう状況なのかも全然つかめないんですね。
大江 みさ子 
 私はすぐ東市民センターに避難してくださいと言われたので、避難したんです。家も閉めない、鍵も掛けない、財布も持たないで、手提げだけを持って避難したんですが、その後、国道45号線まで津波が来たから早くここを出て、矢本東小学校に避難するよう言われたんです。東小学校まで行ったら3階に上がりなさいと言われて、上がりました。3階で3日間過ごしました。避難してすぐは、食べ物は、せんべいとかがあったんですが、その時はおなかが減るとか、水が欲しいとうことがなかったですね。まさか自分の家に水が入っているとは思っていなかったんです。ところが、家には床上まで水が上がったんですよ。独り暮らしなので、自分ではどうしたらいいか分かんないのね。5日目に、人を頼んで、泥のかきだし、流れて来た物の処理をしました。作業には息子や弟も来てくれました。また、近所から水をもらって、やかんで沸かして飲んだりしました。あまり食べなかったので、すごく痩せましたね。
葛西 美和子 
 私は地震の時に避難する場所とかの考えが及ばなくて、その日は東大溜の実家に世話になりました。ところが実家は地震で凄かったんです。私は独り暮らしなので、次の日は仙台にいる息子に送られて柴田町の娘のところに行きましたね。
田母神(たもかみ) えみ子 
 地震の時、ヨークベニマル矢本店で買い物をしていたんです。ものすごい揺れで立っていることができず、座るしかありませんでした。地震が収まってから、急いで家に帰りました。私はまさか家まで津波が来ると思っていなかったんですが、区長さんが津波だから早く逃げてと言ったんです。でも、逃げるのが遅くなって、とにかく逃げようと思っていたら、道路に水がさざ波になって来たの。おじいさんが吉田酒屋さんの方から逃げようとしていたら、長靴がぶくぶくになっちゃって、ああ駄目だと思って。しょうがないから、我慢して家に居ようねってなったんです。窓から一晩中見ていたら、タイヤだのいろんな物が流れて来たんですね。家の周りに置いていたものが水で流されて、ごみを入れている桶もぐるぐる回って、水が渦巻いてね。駐車場が低くて、水がいっぱい入ったから、泥が凄かったの。

三浦 勝志  50代 男性
 矢本農民連 会長/松島基地松友会 会長/元 東松島市社会教育委員議長
 外出中に被災
(平成24年7月19日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日、家族は全員外出していたのですが、地震の後みんなで家に集合して、逃げるとか逃げないとか、津波が来るまで、かなり時間に余裕はありました。ラジオで津波は海岸に来ていると聞いていました。その時は大潮で、干潮で1メートルくらい下がっている状態でした。それまで言われていた2メートルの津波では、1メートル下がっているので、立沼までは来ないんだということで、ゆっくり帰ってきたわけです。
 帰ってきてからは、分館(立沼生活センター)で消防団とたむろしていたんですけど、南の海岸線を見たとたん、松の木の3倍の高さの波しぶきが上がって、それから松の木が抜けて飛んでいったところを目にしたんです。分館の斜め後ろが自宅なんですけど、そこまで走って、地震で倒れていた作業場からはしごを持って、5人で上がって。私が最後だったんですけど、その時に足元まで波が来たんです。それが最初の津波でした。屋根に上って、雪が降っていたので、トタンを破って中2階に入って一晩過ごしました。屋根の上で、私たち家族の将来について話しました。百姓もやっていけないし、会社に行っても仕事がなかったりするので、これからはとにかく大変だと。
 次の日の朝、自衛隊さんたちに救出されました。立沼弘法地区は、役所場・矢本一中・コミュニティセンターの三つにほとんどの方が入りました。私も矢本一中の2階の一室に入ったわけですけども、とにかく喉が渇いたし、朝から何も食べていないので腹が減った。矢本駅の裏のスーパーが開店していて、たまたま財布を持っていたので、あり金全部を出してバナナを買い、教室で分けて食べました。

山口 郁夫 60代 男性
 ヤモト歯科医院 院長
 職場(ヤモト歯科医院)にて被災
(平成24年8月9日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 地震のあと、停電も長引くだろうと思って、水道も止まったので、診療はできないから、まず避難ということにしました。女房は民生委員をしていて、介護を受けていたり、独り暮らしの人がいるので、そっちの方が心配だろうから、とにかく行って無事であるか確かめてくれということで、先に診療所を出ました。私は診療所の鍵をかけて、最後に出ました。自宅に帰ったら、矢本東小学校に避難すると聞いたんですが、俺は避難しないよと言ったんです。でも一人だけ残しても心配だからと女房が言うので、犬を2階において、周りのお年寄りと矢本東小学校の2階に避難しました。
 線路近くまで津波が来ていると言われて、これは大変だと、津波で診療所は完璧にやられたなと思いました。次の日、仙台にいる次男の息子が来てくれて、大丈夫だとなりました。次男と診療所に行ったら、津波の泥の跡が壁についていたので、ああ入ったなと思ったんだけれども、中に入ったら、ほんのちょっとの隙間で止まっていたのでよかったなと思いましたね。
 診療所を再開したのは、電気と水道が来てからだから、3月末には診療を始めましたね。全国のロータリークラブが災害支援をしたいということで、どこにどういうものを送ったらいいかとか、問い合わせが結構来て。うちが石巻4地区のまとめ役だったので、その対応が大変でしたね。
未来に向けて
 津波を経験して後世に伝えたいことは、一人一人のリスクアセスメントというか、自分の会社は会社でも、どういうところに職員がいるだとか、手を切ったりするような危ない機械とかは、きちんと対応できるように管理しておくべきです。そしてもし駄目になった時にどうしたらいいか。例えば、うちの診療所でも、どこの場所をまず修理して、人的なものはどういうふうにしたらいいか。きちんとどのぐらいの予算がかかるかもしれないというのは、やっぱり把握しておいた方がいいと思います。一つの家庭内でも、もしものときには、品物が壊れたりすると、あとあとちょっと大変だから、一番に修理しなきゃなんないとかいうのを考えてメモ書きしていた方がいいような気がします。地震のときには、地震袋だとか、避難袋。必ずしも地震だけでなくて、電気が切れたときはどういうふうにするとか、水道がストップしたときは、水は何リットル分は常に用意しとおかなきゃなんないとかね。あとはストーブね。電気使わない、温風じゃなくて、昔のだるまストーブみたいなのは必ず1台あった方がいいね。今回もそれがあったから、その上で鍋やって、ろうそく灯しながら、鍋突っ付いてね。全部それで料理できたからよかったね。それが特に感じるね。各家庭でもきちっとやっておいた方がいいね。

遠藤 武 10代 男性
 ジュニアリーダー
 矢本第一中学校で被災(当時 矢本第一中学校2年生)
(平成24年10月25日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 大震災の時は矢本第一中学校2年生で、校舎内にいたんです。何が起こったか分からないくらいすごい揺れで、長く揺れて動揺していました。それで先生の指示で、全員とりあえず、しゃがみました。揺れが収まってから、泣いたりしている人もいました。その後、校庭に避難しました。その時、すごい雪が降っていたんです。寒い中ジャージで、30分ぐらい待機のままでしたね。その後、迎えに来る人もいるのではないかということで、体育館に避難しました。生徒だけで帰るのは、学校では許可しませんでした。津波警報が出て、とにかく高いところへ避難という指示を受けて、校舎の3階に避難しました。
 大変な被害を受けた人がいっぱいいて、僕の家では浸水の被害もなく、家族も無事だったので、学校で仲間と一緒にボランティア活動をしました。震災の次の日は、一度家に戻って、電池とか水とか使えるものを持って、所属する水泳部の仲間たちと一緒にボランティア活動したんです。先生方も食料が無い中で世話をしていたので、家にある食料を少しだけもらって、先生方に食べてくださいと渡しました。乾電池も懐中電灯に必要だったので学校で使ってもらいました。
 学校に泊まったのは震災の日だけでした。次の日からは、普段と同じような感覚で学校に行っていました。7時ごろ行って5時ごろ帰るということで通っていました。日がたつにつれ、いろんな物資、水とかが来て、例えば教室ごとに避難している人に配ったり、給水車からポリタンクに水を酌んだりとかしました。先生方の指示も聞きながら、あとは自分たちでできることを必死に探してやりました。避難していた人からは感謝されましたが、すぐには喜んでいられなかったというか、ああ、もっとやるべきことをやらなくちゃ、と思っていました。毛布が来たのですが、結構重かったので、流れ作業で運んで、終わったと思いながら、ああ次の所に行かなくちゃということの繰り返しでした。
未来に向けて
 ボランティアをやっていて、市民が避難所生活で体力的にもつらい状況で、また、落ち込んでいるのを見たりして、これだけボランティアをやっていても何も変わらないのがつらかったです。物資を運んで、少しは笑顔になっても、また沈むということがありました。自分の力はこんなにも小さいのかと思ったことがつらかったです。ボランティアで、精神的にとか体力的に疲れたということは、なかったのですが、これだけやっても何も変わらないというか、1カ月では何も変わらないのは分かるんだけれども、それでも、これをいつまでやっていかなきゃならないのかな、という考えになったことがありました。
 石巻工業高校に入学して、クラスの人と友達になったときの話しなんですけど、ゲームの話が出て、「このゲーム知ってる?」と聞かれ、「ああ、知っているよ」と答えたら「これ面白かったよね、でも流されたんだ」と、笑顔で言うんですよ。それに対して何も返せないんですね。えー、何て言えばいいんだろうと。笑顔で返してくるんですけど、家とか家族、親戚などで何か失ったものがあるはずなんですけど、強く生きている姿を見て、津波を受けたところは違うんだなと思いました。話を聞くと、震災の時に、僕なんかよりはるかに過酷な状況の中で、大きいポリタンク二つ持って水を運んだりとか、すごいことをしてきたんだなと思いました。それに比べて自分がやってきたことは、ちっぽけなことなんだなと思うぐらいに、過酷な状況を乗り切ってきた人がいっぱいいたんです。それに驚きました。
 ジュニアリーダーの人数は、中学生で10人くらい、高校生は15人ぐらいだと思います。今年の活動で印象的なのは、子供会で子どもたちが元気なのがいいなと思いました。本来ジュニアリーダーは、それを上回っていなければいけないんですけど、それ以上に元気で、震災を忘れているよ、なんていうような盛り上がりで、心配することないな、これだったら楽しくできるなということでしたね。ジュニアリーダーをもっと活用してもらえるとありがたいですね。高学年でリーダーになって、先頭に立って下の子どもたちをまとめている小学生もいるので、ぜひジュニアリーダーに来てほしいし、インリーダー研修にも参加してもらって、ジュニアリーダーのことをたくさん知って、ジュニアリーダーになっていろいろ手伝ってほしいなと思います。

浅野 一弥  40代 男性
 酪農家/消防団員
 小松沢田地区の自宅にて被災
(平成24年11月6日  東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 震災当日、地震があった時は、家から飛び出して、カーナビのテレビで地震の状況を確認しました。その時は雪が降ってて、かなり寒かったですね。私の両親は孫(弟の娘)を心配して、赤井に迎えに行きました。立ち話をしていたら、マンホールから水が噴き出してきて、みるみる向こうから水が出てきたと。逃げたつもりが、ぐるっとまわって狭い袋小路に入ったみたいで。車に乗った状態で、どんどん水が腰まで入ってきて・・。なんとか、命からがら逃げたみたいですね。結局、孫娘たちには会えず、津波をかぶって、赤井地区体育館にうまく避難することができて、そこで一晩・・。
 私は親が帰って来ないまま酪農をしているんで、その状況でも牛たちには餌を与えなくてはならなかったので、とりあえず飼養してました。地震のショックからなのか、産気づいた牛がいまして。そのショックで出たんですけど、悲惨なことに・・子どももだめ、親もだめ。わたしも引っ張るに引っ張れなくて。器具もどこにあるか見えなかったし。逆子だったしどうしようもなかったんですね。
 翌朝になって、なんとか親は歩いて帰って来たんですよね。2人とも水に浸かりながら。赤井の小学校前の通りからぐるっと遠回りして来たみたいです。無事だったんだと、見て安心しました。
 牛というのは、1頭あたりだいたい1日に180リットルくらい飲むんですね。そういう生き物なので水の確保がいちばん大変で。最初は井戸のあるところを聞いて、近所からもらったり。あとは地下水を汲んでいたところがあって、そこを思い出して汲み上げたらなんとか・・。渋水じゃなくて、きれいなさらさらした水で。ラッキーでしたね。その水を1日3トンくらいずっと汲みながら・・毎日それに追われていました。近所にも分けていたので、日々そういう作業で終わりましたね。
 一週間あけて、そこからわたしは消防団の方に参加しました。私は大曲地区を歩いたんです。浜の方に移動したんですが、もう、言葉が出ませんでした。自衛隊の若い方たちと一緒になって捜索しました。流されてきた瓦礫というか、家屋の下敷きになったところから遺体を見つけて、そこから搬送というところまでいったんですけど・・。初めてそれを見たときというか、持って運んだ時・・泣きたくなりましたね。もう心を殺すしかないんですよね。早く見つけ出して、渡して・・っていうのをやる。ほぼ作業に近いですよね。作業だと割り切ってやるしかないという感じでしたね。活動は3月31日まで毎日やって、そこで一旦打ち切ったんですが、4月7日にまた再度・・。大きな地震があったときにまた活動に出て、最終が7月だったかな。
 福島からの放射能の影響は実際、ありました・・。藁とかに付着したものは、鋤き込んでなんとか天地替えしていかないと、という大きい挑戦という形で・・。私もその間に、いろいろなところで研修とか、情報を聞いたりとかしていたんですよ。県がそういった会を主催してくれて、そこでいろんな情報交換をしました。検査していますけど、ミルクには一切でていません。そこは気を付けています。もちろん常に検査しているので。
感謝のメッセージ
 自衛隊の若い方はすごいですよ、あの人たちの精神力というか体力というか。ほんと、ありがとうって思いましたね。あれは我々だけじゃ、どだい無理です。ここまで早く動けるのも、なかったと思いますね。初動が早かったっていうのと、それプラス、消防団の他のみなさんの力があったから、こんなに早く進んだんですね。東松島って早かったらしいですね、県の人たちの総括から言うと。自衛隊の人たちに言わせると、もっとかかると思っていたって。ところが、こんなに早くスムーズにいったのは、なかなかないって。もともとの計画より1ヶ月早かったらしいです。
未来に向けて
 農協単体で、青年部単体で何ができるかって言ったら、やっぱりそういった仲間内を回って、復興支援っていうか・・。ハウスの撤去とか補修、ヘドロの除去とか。あとは今になってやっと、県外から、静岡、九州からの方々が乗り込んでくれてやってくれているっていう状況です。震災の1年の間にいろいろあって、今また、ツアー組んで、団体で応援という形で来てくれるっていう動きがあります。

石森 祐介 20代 男性
 被災地障がい者センター石巻
 自宅(立沼)で被災
(平成25年6月6日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 祖母を待って避難しようとした矢先に津波が来たので、とりあえず2階に逃げました。津波が来たのは3時半から4時頃だったと思います。私たちの地域の場合は、音もせずに水がさーっと塀ぐらいの高さまで来たという感じです。その後、玄関から水が入ってくるのを見て、急いで2階に上がりました。階段が急で、普段は1階で生活しているのですが、震災の時は全力で上がりました。水は床上1メートル40~50センチメートルぐらいましたが、私自身はあまり濡れませんでした。2階の窓から外を見た時、すでに雪がふぶいてました。余震があり、ラジオで情報が流れていましたが、この世の終わりではないかと思いました。
 ここは海から2~3キロ離れているし、2003年、2008年とたびたび地震はありましたけれども、津波は来なかったし、あそこに津波が来るとは思わなかったですね。今まで津波警報が出ても、せいぜい2~3メートル水位が上がるくらいの、陸には来ないものでしたから。翌12日に陸上自衛隊に救助され、東松島市役所に避難しました。
未来に向けて
 震災をきっかけに、物の価値観は大きく変わりました。地域にずっと根を張るのではなく、いろいろなところに動き回りながら活動したいと思っています。ただ、何かあったら戻ってこられるところは東北であるべきだと思います。
 精神論的な話になってしまうのですが、こういう身体に生まれたということは、ひとつの運命だったんじゃないかなあということもあって、私としては、どのような状況にあっても、障がい者支援に関わる仕事を続けたいと思うし、逆に震災前に考えていた就職というのは全然考えられません。ちゃんとした仕事じゃなくてもいいじゃないかとか、どんなに金があろうが、人の資本というか社会資本というのか、人との出会いに恵まれていることが大事だと実感しています。今後も、それを大事に活動していきたい。東京やら東海方面で地震が起こってしまったら、私たちもなにかしらお手伝いしたいと思っています。

武田 幸子  50代 女性
 真壁病院看護部長
 職場(病院)で被災
(平成25年6月12日 真壁病院にて取材)
被災体験談
 最初の揺れは、「地震だな」程度だったんですけど、だんだん大きな揺れになってくるし、長いし、とっさに階段を上がったのですが、途中で(揺れが大きくて)上がれなくなっちゃったんです。それでもなんとか手すりにつかまって、3階まで上がりました。3階にはほとんど動けない患者さんがいまして、それが気がかりでした。いろんな機械をつけている患者さんもたくさんいました。廊下の機械は行ったり来たりしているし、ベッドも行ったり来たり、ご家族もパニックになっている、といった状態でした。とりあえず、「揺れが収まるまでは動くな」という指示をさせてもらいました。その時は(避難に関する)放送があったのかどうかわからないくらい、パニック状態だったと思います。
 電気はすぐに非常電源が作動したのですが、津波が来たことでダウンしました。ちょっと時間をおいて復旧しましたが、今度は燃料がもたないと。人工呼吸器をつけている患者さんもいたので、それが止まってしまうと(電源が確保できないと)どうにもできないので、交代で手でバッグを押そうということになりました。あとは患者さんのベッドを壁際に寄せました。点滴の機械が患者さんに倒れ掛かっている状態でした。余震が来ることが予想されたので、倒れてもぶつからないようにしました。
 病院の脇に水が流れてきてから「これはもうだめだ」ということで、1階の患者さんを2階に上げました。病院が道路からかなり高くなっているので、水が病院内に入るということはなかったんですけど、地下にカルテとか写真とか薬剤が備蓄されているのですが、そこで1.5メートルくらい入りました。泥と水でかなりやられました。
 翌日は、患者さんの食事の提供とケアですね。おむつ交換だったりお手洗いをどうするかだったり。外からの避難者も多かったので、お手洗いは全部封鎖し、ポータブルトイレにしました。おしっこや便の吸収をよくするために紙おむつを使ったり、においを抑えるために紙で押さえたりしました。患者さんの食べものは備蓄のもので何とか間に合ったのですが、職員の分は非常に不足していて、前日夜にあまったご飯で小さなおにぎりを作ってもらって、それを3人とか4人で分けて食べたり。水は自動販売機があったので、職員と避難した人に提供しました。
感謝のメッセージ
 自衛隊には燃料の支援をしていただきました。飲み水を次の日ぐらいにはポリタンクで運んでいただきました。スタッフの間では、できる人が、被災したスタッフのために、おにぎりを握ってきてくれたり、味噌汁を作ってきてくれたり、寒いから洋服や毛布を持ってきてくれたりする光景を見て、日本も捨てたもんじゃないな、と思いました。その時は助け合いの精神で、やれる人がやるといった状況でした。私も気持ちの上で大いに助けられましたね。
 つらかったことは、スタッフの安否確認ができなかったことでしょうか。あとはご遺体が運ばれてきても身元確認ができず、家族と離れてどんな思いで亡くなったのかを思うと、つらいものがありました。「苦しかったでしょう」と言いながらお顔を拭いていました。
 自分の中でやれることを精一杯やったつもりですが、後で振り返った時に、本当にそれでよかったのか?と思ったりもしました。
未来に向けて
 (患者を)守らないといけないという使命感が、医療従事者は、というか看護師は強いです。そのために自分を犠牲にしてしまうことが非常に多いですね。それはすばらしいことではありますが、どこかで自分を逃がしてあげるところをもたないと、くたびれてしまう。使命感も大事だけれど、自分自身も大事にしてほしいなあ、と思います。自分がだめだと人を助けることもできないので。
 自分の状況を話せる人がいると言うのは大変大きいですね。いいことでも悪いことでも。一人だったら耐えられないでしょうね。

武山 義之 40代 男性
 矢本消防署勤務
(平成25年11月12日 図書館にて取材)
被災体験談
 地震発生時は、ちょうど非番で石巻の湊地区を車で走行中でした。家が渡波ですぐ近くでしたが、その時は早く署に駆けつけなければという気持ちでいっぱいでした。子どもが小学生、中学生、幼稚園と3人いるので気になってましたが、とりあえず矢本に向かいました。
 津波浸水区域から避難してきた人から、一人暮らしの老人がいるとか、家族と連絡が取れないから何とかしてくれといった救助を求める声があったので、そちらに徒歩で向かいました。車は入れないので人力で水をかき分けて行くしかありませんでした。市営グラウンドには30人ほどの人が避難していました。寒さで亡くなったお年寄りに心肺マッサージとか人工呼吸をしました。搬送する手段もありませんでした。一人で逃げてきたという小学生もいましたし、いろんな方がいました。
 水深も腰くらいの高さまで下がったので、徒歩で深夜近く署に戻りました。その後は取り残されている人がいるということで民間のボートを借りて救出に向かいました。
 私は消防官であるとともに救急救命士でもあるので、その当時は救急車が専門でした。ですので、その後は救急出動をずうっと続けました。震災後はサイレンと救急車の音がずっと響いてたと思うんですけど、避難所から病院へ、次の日水にぬれていた方を日赤病院に搬送したりをピストンのように繰り返していました。救急車が出動している場合は、他にある車両を使うしかないので、広報車でけが人や病人を搬送しました。
感謝のメッセージ
 例えば救急車の中でも「毎日救急車の音が鳴っているけれども休んでますか?」とか、患者さんや患者さんの家族から気を遣ってもらいました。中には「子どもさんいるんですか?」とか聞いてくる方もあります。「お会いしましたか?」と聞かれて「まだです」と言うと「無事でいることを祈ってますから」など、やさしい人たちが・・・。こっちも励まされたりしました。 
未来に向けて
 消防官の仕事はやりがいがあるんです。反面、震災や火災現場では危険が伴うことがあります。私たちは、地域住民の生命、身体、財産を災害から守るというのが仕事です。その使命感が大切で、もちろん体力や専門的な知識、技術を身につけることが大切であるんですけれど、一番大切なのは、人を思いやる心かと。それがなければ消防官は務まらないんです。
 私は社会人になって、民間の企業に勤めましたが、やっぱり小さいころの夢があきらめきれず消防士にチャレンジしました。
 だから消防士になりたいという中高校生がいましたら、夢はあきらめないでくださいと言いたいです。

松 幹太 20代 男性
 東松島市矢本字三間堀
(平成26年1月23日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は仕事でした。渡波(石巻市)の業者さんに呼ばれていたので、車の引き上げで向かっていたんですね。「雪だな」と思いながら走って、いつも通り着いて、右折で入るのでウインカーを上げたんですよ。それからドーンとなったので「あ~、事故だ。やられた」って思ったら、前も後ろも人がいなくて。「え~?事故じゃない?」って思った瞬間に、車が揺れている、って気づいたんです。揺れが収まるまでは、車を道路の真中に止めたままにして、少し揺れが収まった時に車屋さんの中に入れました。「どうする?」って車屋さんの中で話していた時に、たまたまいつも車屋さんに来るおじさんに「万石浦の水が全部無くなったぞ。津波だ!!」と言われて初めて「あ、津波が来るんだ」って。「とりあえず電気もつかないから、避難しよう」って言って、私は祖父の実家が湊(石巻市)にあったので、何かそっちがすごく気になって向かいました。
 「いたかな?もう避難してたかな?」と思いながら、おじいさんちに入ろうとしたら、旧日赤(旧石巻赤十字病院)が、ちょうど取り壊しが終わったあとに、老人ホームの施設を建てていたんですね。まだコンクリートだけだったんですけど、働いている人全員と、その辺にいる人が上に集まって、すごい騒いでいたんですよ。「津波だ」みたいな。でも全員がばらばらに喋るから、「何を言ってるんだろうな?うるせえな。」くらいにしか思ってなくて。おじいさんとおばあさんと、その他に親族の女の子がちょうど来ていたので、俺が交って4人になったんです。「もう駄目じゃない?小学校に逃げない?」って話をしていたら「大丈夫だ。津波のために嵩上げて家を建てたんだから」って言ったんです。「(津波が)来たらもう駄目だよ。いいから、逃げっぺし(逃げるよ)」って言っていたら、向いが自転車屋さんだったんですけど、その自転車屋さんのおんちゃん(おじさん)が走って来て「津波だ~」って。走ってきたから「何したんだい(何ごとだろう)?」と思ったら、そのおんちゃんの足をスーッと津波がさらっていって。そのおんちゃんは助かったんですけど、そこからダアーっと水が来て「とりあえず、2階に行こう」って言って、2階に行った瞬間に、もうしっちゃかめっちゃか。津波が入って来て。おじいさんちに来て、5分くらいで津波が来たもので「セーフだったな、幹太」って言われて。「どうする、どうする」っていう話になって。車がいろんな方向に流されて行ったり、もう飛んでくるように流れてきたりしていたもので。

清水 好和 40代 男性
 東松島市矢本字新沼
(平成26年5月28日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 震災当日は、自宅工場で父と叔父と3人で作業をしてました。大きな揺れだったので、普通ではないと工場からみんなで外に飛び出したところ、工場にあった製品すべて引っくり返ってました。外に全員出たために誰も怪我しないですんだのですけれども、揺れが尋常でなかったのでとにかくみんな避難所に避難しようということになりました。わたしは消防団に入ってたので「俺は消防団の方に行くから、津波は自分の家の方までは来ないだろうけど、来るかもしれないからなるべく海から離れた避難所に避難したほうがいい」と家族に話をして、わたしは消防団に行きました。それからは、消防団の活動の方に入ってしまったのですが、積載車に乗っていても津波が来るっていうのを我々も意識してなかったんです。自分たちの地区の自衛隊の近くの田んぼに差し掛かったところ何かやっぱり様子がおかしく、まわりのみんなから「津波が来た」っていうのを教えられて、自分たちもはじめて「あっ、これ津波なんだ」っていうのがわかりました。周りにいる住民の人達も逃がさなきゃないし、我々もすぐには逃げて来るにはいかなくて、あっち回ったり、こっち回ったりしながら、何とか自分たちの車で、水没しないまま津波が来ない所まで逃げきれました。
 それから、その日は夜通し消防団でいろんな作業をしてたわけなんですけども、当然自分の家族とも連絡とれなくなったし、一緒にいる消防団の方も家族と連絡とることもできなくなりました。自分の家は浸水地域になってしまって、そこまで自分たちも戻ることもできなくて「家族はどうしただろうな」と周りのことも心配だけど、自分の家族のことはものすごく心配でいたんです。その日の夜中くらいに、やっと水の中を自分の家まで戻ったら、やっぱり工場の中は水浸しになっていて、「やっぱり、ここまで来たんだ」とその時初めて自分で見て、実感したんです。そこでたまたま、近所のおばちゃんが声をかけてくれ「みんな、ゆぷとに避難してたから大丈夫だから」と聞いて、自分も安心して家族とそこで会いはしなかったんですけど、そのままずっと消防団の方に行くことができました。全然仕事のこととか、工場のことっていうのは考えられなかったっていうか、しばらくは仕事のことよりも他に今やるべきことが当然いっぱいあるわけで、そっちの方に目が行き、工場の片づけも家の片づけも全然できないまま、1か月近く過ぎてしまったんです。
未来に向けて
【質問】
清水さんは、震災の前から畳の良さを知らせたいということで、いろんな場所で体験教室を開いてくださったりしてましたよね。この震災を通して清水さんご自身は、畳の良さなりを再確認したり、いろんなこと感じられたと思うわけですけども、その辺についてはいかがですか?


一番は、仕事の依頼を受けて畳を入れに行きますよね。その間に避難所にいて、「やっと、畳が入ってきたからやっと畳の上に帰って来れた。避難所の体育館の床硬くて、寝てても体痛かったな。やっと畳で寝れるな。」っていうような話をしてもらうと、やっぱりそういう気持ちを持って畳を使ってもらうと、こういう商売やっていて良かったなと思うし。逆に我々が仕事を廻りきれないために、やむを得ずフローリングにしてしまった、フローリングで生活してみたら、「やっぱりもう少し待ってても畳入れればよかったな。」「フローリング硬くてな」という話を聞くと、畳の数って減ってきたけども、我々がやれるとこっていうのは、まだ残っているんじゃないかなと。硬いフローリングの上で生活して行くのがひどければ、フローリングの上に敷ける柔らかい畳っていうのも、今後は当然提供していかなければないだろうし、我々の技術を活かしてできることではないかと思います。それをやって行くことが今後、我々の生活のために必要なことだし、みんなのためにもなるのかなと感じはしてたんです。何よりも畳はあったかいって言われた時に、避難所っていうのは寒いし硬いし大変なことだったんだと思いましたよね。

阿部 晴(きよし) 40代 男性
 東松島市矢本字一本杉
(平成26年8月1日 佐藤商店にて取材)
被災体験談
 国道45号線の矢本交番の近くのスタンドにおりまして、スタッフ4人と来店されていた1台の車の給油作業をしていました。その3~4日くらい前にも大きな地震があって、「うん?」と思った時、スタッフの一人が「大きくなるんじゃないか」っていう声と同時に、中にいた事務の女の人が飛び出してきました。私の経験上、スタンドの上の屋根「キャノピー」と言うんですけど、鉄骨で建っているので、崩れるってことはないのですが、一応「キャノピーの外に皆、出ろ」と。立っていられなかったし、揺れもなかなか治まらなかったのですが、どうしようもないので、スタッフの人数を自分の視線の中に入れて地べたにしゃがみ込むしかなかったです。
 シャッターを閉めて、お店のお金は全部カバンに入れて、鍵をかけた状態で帰りました。次の朝は、シャッターはみんな流木でバラバラにされておりましたし、ガラスは割れてなかったんですけど、ドア閉めてもすきまが少し開くので、そこからヘドロが入ってました。奥にも扉があって、スタッフの休憩所があるんですけど、そのすみずみまで全部ヘドロ入ってました。もちろん電気もきてない、そうするとノズルひねっても、出るものも出ない。ただ、幸いにも震災の2時間くらい前に、地下のタンク満タンに(油を)入れてたんです。
 とりあえず、市役所の方に行きましたら、すぐ防災本部が立ち上がってまして、「油が、大変になるようであれば、地下のタンクにはほぼ満タンに入っているのですが、ただそれを汲みあげる発電機などを貸していただければ、軽油、灯油、ガソリン、レギュラー全部出すことは可能です」ということで詳しい備蓄量を報告しまして、3月13日から、地下からくみ上げて、ガスの車とか、市役所の緊急でどうしても動かさなければならない車とかを入れてました。
 そうこうしてるうちに、一般の消費者のお客様が、ガソリン入れたいけどどこも閉まっているということで、震災の次の次の日くらい(13日)に、隣のスタンドは開けたんですよ。たぶん手回しでやられていて、「菅原さんどうなの?うち、たぶん今日で油なくなっちゃう」と言われ、「うちの方は、油はあるんだけども、上げる術がないんだ」と。この界隈は、それ以上開いているスタンドがなかったんです。
 うちは発電機入ったのが3月の末、25日か26日に電気きましたけど、その1日くらい前だったんですよ。発電機入った次の日に電気来たんです。でも、計量器が津波かぶったもんで、モーター全部焼けちゃったんです。せっかく電気来て、よしこれで入れられると思ったら、みな煙出ちゃって、焼けちゃったんです。たまたま、天井から2本ガソリンと軽油用のホースを吊ってたんです。それは津波の影響なかったので、電気さえ繋げれば動いてくれました。その2本でガソリン1本と軽油1本で、1日小売は100台と、プラスアルファの緊急車両を、3月の末にはそういう給油活動やってました。
 うちら、毎朝6時頃行くと、100台やってない頃も、50台くらい並んでいるのね。うちの方の国道に50台くらい、道路の向こう側の店に渋滞100台くらい。それが終わる頃、他店の渋滞が大街道の方までずっと。ちょうど、ゆぷとの前が、向かいの渋滞とうちの渋滞で自衛隊さんが大きい車で入って来ているのに、入って来れないので、ポール引っこ抜いて通してました。自衛隊さんが、どんどん入ってくれるようになって、自衛隊の車を見るととても勇気が出たっていうか、見捨てられてないっていうか。渋滞が申し訳ないと思って、渋滞をなんとかしなくてはと思って、うちは早くやったんですよ。

八木 敬(やぎ けい) 50代 男性
 東松島市矢本字北浦
(平成26年9月26日 給食センターにて取材)
被災体験談
 3月11日、あの日は金曜日で議会の最終日だったんです。正直言ってこれで今回の議会もやっと終わって、ほっとしたところでした。週末の金曜日だったので、かなり開放感、安堵感はあったんですけども、14時46分のあの揺れは、宮城県沖地震とか北部連続地震は我々は経験しているんですけども、それとも比べものにならないっていうか格が違うっていうか、そういう揺れでした。私は当時下水道課にいて鳴瀬庁舎の2階にいました。激しい揺れだったので、天井と梁と壁の間が開いたり閉じたりするような、建物がこれで倒壊するのかなという恐怖感を覚えたのは、始めてですね。けっこう長く続いた揺れだったもんですから、停電、断水ということになりました。よその状況がどうなっているか全くわからないということで、職員全員駐車場に集められて今後の対応どうするかということで、指示を受けました。
 私は現業課という現場を持っている課の1つであったので、現場を確認して来いと割り振られました。私は野蒜海岸の崖崩れの危険個所があるので、そこが崩落してないか見てこいと指示を受けました。そこは、ちょうど下に市道が通っているので、落石で道路が塞がっていないか見てこいということで、車で向かいました。それが3時15分か3時半前だったと思います。鳴瀬大橋の方は目に見えた被害はなかったのですが、通行止めになってました。三陸道に通じる鳴瀬奥松島大橋を通って、左折して河岸を河口に向かって野蒜方向に向かいました。外部からの情報は車のラジオで「津波警報」とかという言葉を、切れ切れに断片的には聞こえたんです。津波と言ってたのか、大津波と言ってたのか記憶は定かではないんですが、ただあれだけ大きな揺れだったので、注意報ということはないんだろうなというふうに自分では思ってまして、警報ということなんだろうなと。ただ警報と言っても、沿岸部で5メートルとか6メートルと言ったような気もするんですが、それが実際にどの位のものなのか、あるいは威力というか破壊力というかそういうのが全然イメージできませんでした。大曲浜地区とか野蒜地区が津波に襲われたとしても、大した被害にはならないんじゃないかなと、変な思い込みがありました。
 二人組で車を運転して行ったのですが、左手に川があって河口に向かって行くという中で、ふと左手の川を見ると川底が見えるんですよね。見えるはずのない川底がすっかり見えまして、一緒に運転していた部下に「おい、川底見えるぞ」と言ったら「まずいですね、これ。確実に津波来ますよ」と。「どうするの?1本道じゃないの」ということで、ちょっと走って目線を上に上げて河口部の方を見たら、松林の高さくらいにもやと言うか霞というか、ぼうっとかかったような感じに見えたんです。その日曇り空で小雪も散らついてましたので、天気が悪いから視界も悪いのかなと思ったんですけど、相方の彼は「これは、まずいですよ、絶対まずいです」ということで、「逃げましょう」ということになって、ちょうどその時に1本道であったにもかかわらず、右へ抜ける道路がちょうどあったものですから、そこから田んぼの中を抜けて山に登って難を逃れたという形です。その直後にその辺りを津波を襲ったという、間一髪だったなということだったんです。

堀籠 恭子 40代 女性
 蔵しっくパークで被災
(平成27年1月28日  東松島市図書館にて取材)
被災体験談
 当日は蔵しっくパーク(矢本字北浦)で、普通にパソコンの前で仕事をしてました。グラッときたのでこれは尋常でないと思い、私はまず火を止めようと思いその場を離れました。もう1回大きな揺れが来たのでみんなで固ま   って、揺れをやり過ごそうとしました。大きな揺れだったのですぐ近くにあった土塀がバタンと倒れて、でもその時には土塀の近くには誰も人がいなかったのでほっとし、その場はまずはけが人もなくっていう形だったんですね。いったん揺れが治まった後に家に戻りました。
 家(自宅)は、そこ(蔵しっくパーク)から1分弱、本当に近い所です。義理の母とまだ幼稚園に入る直前の娘がいたので「大丈夫だった?」という話をしていたら、雪が降ってきました。うちのお向かいの方のご実家が大曲なんだそうですね。そこの大曲のお父様が車に乗っていらしていて、「そこまで津波が来ているから、逃げた方がいいよ。」と言われたんです。「津波?こんな所に津波?」まさかと思って、「ほら、本当だよ。」と見せてもらったのが車のタイヤの真中へん位まで水のラインがついていたので、「これは、いかん」と思って、そのまま母親と娘と私で車に乗って大塩に逃げました。
 一晩明けて、ちょっと様子を見に行こうと思って自宅へ帰ったら、もうこりゃなんじゃこりゃの世界で。あっちに丸太が転がっているし、こっちに何だかわからない物も転がってるしで、泥だらけの中を帰りました。
 自宅に戻った後、何かできないかなと思って(ラジオ局に)行ったんです。その時は、ラジオ石巻と日和山に受付が作られていて、無事な方は誰かに向かって「どこにいますよ」みたいなメッセージを読んでました。
感謝のメッセージ
 大塩市民センターで印象に残っているのが、スタッフの方の対応の早さです。5時前ぐらいだと思いです。それでも、水の確保だったりとか受付がしっかりできていて、受付の所にホワイトボードも置いてあったりそこにいろいろ書けるようになってたりしました。あとは水が来なくなると予測されていて、お手洗いに行くと個室の中にゴミ袋が貼ってあり、「小さいのの時はここにゴミを捨てて下さい。水は流さないで下さい」とちゃんと1個1個に書いてありました。
 大塩市民センターの近くにデイサービスセンターのような所があるらしくて、そちらのご高齢の方専用のあったかい部屋もちゃんと用意されていたりして「すごい対応が早い」と思ったのが、第一印象です。
未来に向けて
 ラジオとしては、企業なので利益を生まないと動けない部分っていうのがどうしてもあ るんです。個人に立ち返ってこういうことが出来るかなっていうので、支援をいただいて、東松島市図書館と同じようなアーカイブをして行こうってことになりました。後世に伝えるということや記録をとっておくということもすごく大事だなということで、音声でそういった体験ですとか震災から1年後、震災から2年後というような状況を記録しておくというような意味合いを込めて、「石巻アーカイブスプロジェクト」というのを仲間でやって ます。月に1回30分の番組を作って、配信したりホームページで紹介したりというようなことをしています。やっぱり今しかできない、記憶が薄れる前にこの方がいらっしゃる時にお話を伺ってそれを保存する、記録するっていうのはすごく大事なことなんじゃないかなと思っています。

渥美 裕介 (HOPE みらいとし機構)30代 男性
福嶋 正義 (HOPE みらいとし機構)30代 男性
A.Y(ステッチガールズ会員)50代 女性
(平成27年3月18日 あったかいホールにて取材)
未来に向けて
渥美さん 
 復興という形は今まで誰もやったことないことばかりなので、絶対これが正しいという答えはおそらくないんだと思います。なので、我々のようなHOPEといういろんな人たちの間に入る組織があることによっていろんな立場、いろんな人たちが募ってそこで対話をしながら、未来の東松島というのは「どんな姿でありたいか」っていうところを話し合いながら、それに向かって一人一人が出来ることをやって行きたいと考えています。そういう対話をするための場としてHOPEが活動していく必要があるだろうなと思ってます。震災から丸4年で、国が定める復興集中期間というのも来年度で終わります。だから一過性のものでなくて、住民が主体となった街づくりというのがこれから求められて行くだろうなと考えてます。そういう時に、町の人がどんなことを考えているのかとか住民の人はこんなことを今悩み課題があって、それを解決してほしいなとかそういうニーズとシーズが、HOPEでうまくマッチングできるような組織にして行きたいなと考えています。
福嶋さん 
 常に目標の一つに掲げているのが、東松島を刺繍の町にするというところです。東松島市民に限らずですけど、皆さんには誇りを持って仕事をしてもらえるように子育ての合間であろうが、本業を持っていようがどんな形でもいいのでこの事業には携わり続けてほしいなと思います。 あとは並行して技術研修会みたいなもやって腕を上げてもらう、っていうのをやりつつ全員にメンター資格っていうのですが、人に刺繍を教えられる資格を全員に取ってほしいなと思ってます。そうすると東松島の人が外に行って、クロスステッチを教えるとそこもまた刺繍の町になるみたいな感じで、広がりをみせるといいなと思ってます。
A.Yさん 
 私は去年の秋に入ったばかりなので、まず自分の腕を上げたいなと腕を磨きたいなと思います。仕事をさせていただく上で自分のスキルを上げて行きたいというのがまずの目標です。こういうのを通して、いろんな経験させていただいているのですごくありがたいことだし、今から次どんなお仕事が来るのかわくわくしてます。

小野寺 香弥 40代 男性
(平成27年3月26日 東松島市図書館にて取材)
被災体験談
(震災)当日は普通に集配業務をしていて、鳴瀬地区を配達していました。その日は小野の町から入って、ひびき(工業)団地に行って野蒜小学校付近に入る所で時間指定の荷物があったのでそこは飛ばし、新東名、宮戸に行って野蒜海岸の方を走ってたんです。新町あたりに来たそのタイミングで地震が来ました。風が強いのかなと、そしたら急にラジオが止まって「何だろう?」と思ったら、急に緊急(地震)速報が入りました。ずっと揺れが治まるまでトラックの中で揺れて、海辺の方にいたので周りの状況とか全然わからなくて、地震の揺れが治まってからも普通に配達を続けたんです。そこまでひどいとは思わなくて、車の中だったので下に降りて立っていれば「大変だ」とは思ったでしょうけど、凄い揺れているなというぐらいでしかとらえてなかったんです。走っていてパンクしたのかなという感じになるんです。
その後、会社に戻ろうと思って、土手を通って鳴瀬大橋を渡って(国道)45号線走って、滝山の脇を通って大塩に抜けようとしたら土砂崩れで通れなかったんです。とりあえず戻ろうと思って自衛隊の脇を通って真っ直ぐ向いた時、川を渡ったあたりで真っ黒い津波がこっちに向かってダダダッダーって来ているのが見えたんです。けっこう遠かったしスピードも遅かったので「あっ、これまだ大丈夫だな」と思って、ちょっとの間5秒~10秒位「すごいなあ~」と冷静に見てたんです。津波の先で丸太みたいのがぴょんぴょん飛び跳ねているのが見えました。
感謝のメッセージ
やっぱり物を届けて喜んでもらえるっていう、普通に配達していても「ありがとう」は言われますが、今回は本当に「ありがとう」って言ってくれるのがわかるんですよ。送られた方の気持ちも伝わるっていうか、こういう思いで自分たちに荷物を預けて届けてよって。その顔が見えるって言うか。「あっ、誰々さんからだ。ありがたい。」とかっていう顔は、とても印象的でした。だいたいそういう荷物ばかりだったので、やっていて良かったと思うのはそこですかね。

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